北神戸 丹生山田の郷
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惣山町(*19)(*21)(*5)(*17)(*9)

神戸市北区惣山町とその周辺
惣山町の地図
「電子地図帳Z[zi:]Uより引用 c1999 ZENRIN CO.,LTD.」
惣山町から見た朝焼け
雪の南公園

秋の西公園惣山町は、山田町小部北部の「惣山」を切り開いて昭和57年に山田町から独立した新興住宅街で、社会保険神戸中央病院(関連リンク)を中心に東西、南北とも約850m、0.45Kuのエリアに約1,000世帯を擁している。

惣山町の東側には、明治初期に峻険な天王谷越を整備してできた有馬街道が、西側には昭和3年に開通した神戸電鉄有馬線が走っている。(この神戸電鉄の鈴蘭台以南のルートは、平安時代に平清盛(解説)が兵庫の福原から丹生山まで参詣した烏原谷越が通っていた。)

有馬街道は、徳川道を完成させた石井村(兵庫区石井町)の庄屋谷勘兵衛(小部村から谷家に養子に入ったとの説もある(*19))が明治7年に有野村の田中狡兒とともに完成させた道で、それ以前、平野(兵庫区)から箕谷(下谷上)までは車や馬の通れない天王谷越(解説)の険路、箕谷から東へ折れる道は湯乃山街道(解説)、さらに五社(有野町)から三田方面の道場(道場町)までは黒甲越(解説、くろこうごえ)と呼ばれていた。現在では、神戸中心部と北区を結ぶ重要な幹線となっている。有馬街道開通以前の浜側と山田の往来は、今はもう廃道となっているが、惣山の西側の神戸電鉄沿いの谷筋の烏原街道(烏原谷越)が用いられていた。

惣山の東から南側を通って西へ抜ける道は、元は幕末の頃に生麦事件(解説)をきっかけとして外国人とのトラブルを避けるため西国街道のバイパスとして作られた「徳川道」で、明治元(1868)年に京都に向かう途中の備前藩士が神戸の居留地の外国人(フランス人?)と衝突した神戸事件(歴史)の際、後続の備前藩士たちがこの道を逃走していったことが「山田村郷土史」(*20)に記されている。(徳川道は、森林植物園方面から惣山町を抜け、小部中学校、小部小学校の前を通って北区役所(鈴蘭台)方面に続いている。惣山町西側の小部峠から有馬街道を4〜500m南に下った場所から狭い階段を登って惣山町出た辺りに徳川道ハイキングコースの看板もある。)


神戸市兵庫区から北区山田町にかけての一帯、つまり、平清盛が日宋貿易の拠点とした輪田の泊のあった兵庫の港から、平清盛が比叡山に見たてて通った丹生山のある丹生(帝釈)山系のまでの地域は古来から、「口の一里」、「中一里」、「奥一里」に区分され、「口の一里」が六甲連山の南側つまり浜側の地域を指すのに対して、その北側の地域が、「中一里」(今でも中一里山などに名前が残っていて、菊水山北斜面の中里町なども中一里から名づけたのではないかと思われる)と「奥一里」に分かれている。この2つの地域の境界が、惣山を中心として六甲山−走折山(小部峠:明治7年有馬街道開通の際に削られた?)−惣山−双六山(北鈴蘭台西側にある現在の泉台のあたり?)−長坂山(小部・藍那原野東下の境界付近))と連なる山並みだった。(*19) 従って、惣山は、山田を南北に分けるその中央にあり、実際、中一里である鈴蘭台の住宅地を南に展望し、北には奥一里の山田川(志染川)流域の北に連なる丹生山系を望む。

地質的に見ると、惣山は六甲連山の枝尾根の一部でその表層地層は六甲山に連なる花崗岩となっている(解説)。7000万前に地下から貫入した六甲連山を形成する花崗岩が100〜180万年前から東西の圧力を受けて隆起するのに引きずられて、惣山も隆起してきたのだろう。

惣山の名前の由来ははっきりしない。地元の歴史家の書いた「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」(*19)によれば、惣山が属していた小部の一族(参照)は藤原純友(解説)を討伐した右大臣橘遠保(たちばなのとおやす、解説)が討伐の帰路小部の地で没した際の(従者の?)後裔で、惣山町の名前は、橘遠保の子孫で戦国時代の一向宗(解説)河内36人衆の橘(向井)惣山宗近から採られたということになっている(が、「惣」には村の意味もあるのでただ単に「村の山」の意味かもしれない)。少なくとも、「山田郷土誌」(*21)など他の資料には、橘遠保も橘惣山宗近も登場しない。いずれにしても、惣山の南麓には小部の土着の一族の墓地も現存していることから、惣山が小部の集落の生活の一部であったのは間違いないだろう。「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」によれば、橘惣山宗近の当時、惣山は織田信長と激しく対立していた一向宗が大坂本願寺から一向宗と同盟する三木城や丹生山明要寺などに織田・豊臣軍の進行を伝える狼煙の中継点(大坂−伊丹有岡城−摩耶山−惣山−丹生山明要寺−淡河城−城山−三木城、惣山−有馬城−金剛山−三田金山寺)であったということだが、地形からすれば、狼煙の中継点であったというのは有り得る話だと思う。(「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」(*19)の記述は、かなり地元への思い入れの強い記述になっており、また根拠も不確かな面が多いため、信憑性については割り引いて考える必要がありそう)


昭和54年発行の地図(*3)を見ると、周辺の若葉台、甲栄台、泉台などの周辺の新興住宅地は既にある(参照)が、惣山町はまだ影も形もなく、標高419.5mと403.3mのピークを持つ小高い山となっている。現在の神戸中央病院(関連リンク)の西側にある標高419.5mのピークには給水塔とともに鈴蘭台方面を望む遠隔監視カメラがある。もしかしたら、このあたりが、前述の狼煙通信の中継基地だったのかも知れない。

「口の一里」、「中一里」、「奥一里」を一望し、遠くは、大阪湾・紀伊半島まで見渡せる惣山は、歴史の中で、小部の橘?(向井)一族の盛衰を、平清盛の丹生山参りを、一の谷に向う源義経を、西摂一向宗と織田・羽柴軍の戦いを、明治維新の混乱の中での備前藩士の行軍を、戦後の急速な宅地化を見つめてきた。

惣山町のプロフィール

惣山町周辺

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