北神戸 丹生山田の郷
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帝釈鉱山 (*18) (*21) (*30)坂本)

トロッコ軌道 帝釈山の南斜面の山腹に帝釈鉱山跡がある。

かつては長谷銅山と呼ばれ、昭和初期の頃から帝釈鉱山と呼ばれるようになり、太平洋戦争中に国策もあって年364t(昭和18年)の粗鉱を生産して絶頂期を迎えたが、戦後急速に減少し昭和35年(1960)休山、昭和48年ついに鉱業権も放棄されてしまった(*18)

丹生・帝釈山系の名前の由来でもある丹生山・帝釈山は、古代から神宮皇后(応神天皇の母、解説)の伝説にも現れる赤土(丹土)の産地であり(丹生神社・明要寺跡参照)、現在でも無動寺裏などにかなり水銀含有率の高い(50PPM)丹土の路頭が見られるらしい。ただし、帝釈鉱山は、長谷銅山の名前にもあるとおり銅を主産物とし、その他に、銀・金・亜鉛・硫化鉄鉱を少量産出していたらしい。(*21)

このように古くから鉱山業?とは縁の深い地域であるものの、江戸時代以来、有馬温泉の泉源保護のため有馬温泉周辺の鉱山開発は湯山町(有馬)の訴えによりことごとく差し止められてきた中で現神戸市域内で唯一銅山開発が行われてきたのが長谷銅山(帝釈鉱山)である(*18)

山田郷土史(*21)によれば、源平時代には既に鉱山が開発されていたという説もあり、豊臣政権・江戸幕府の直轄地ともなったとされているが、記録として残っているのは江戸時代後半の1779年(安永8、10代将軍家治の頃)で、開山した坂本の田中家の文書、4年後の天明3年の多田銅山(川辺郡銀山町=現兵庫県猪名川町)役人が発行した文書などが残っている他、鉱山入り口にある金山神社の祠(後掲の写真)の燈籠の一方にも「天明元化辛丑」の刻印が残っている。

帝釈鉱山に行くには、丹生山への登山道(丹生神社参道)の途中(第18丁石(上半分が欠けて「八丁」の字から下のみ残っている)を過ぎてすぐ)から右に分岐している鉱山道(林道)を進む。1kmほど行くと右側に谷川(北山川)が流れ、左側斜面の石段の上に小さな祠(写真左下)が見える。この石段の東側にかつては、あの「もののけ姫」にも出てきたタタラ(解説)場があったらしい。ここから谷川沿いにさらに登ると石だらけのステージ状の場所(捨石堆積場?)があり、右の斜面に鉄筋の格子で塞がれた坑道が口を開けている(写真下左)。この先は、帝釈山系で一番落差の大きい梵天滝が急な岩盤の表面を糸のようにすべり落ちている(写真下右、梵天滝の梵天(解説)は帝釈山に祀られている梵天帝釈から取ったものだろう)。

梵天滝帝釈鉱山坑道この滝の付近で道は行き止まりになっているが、前記の鉄格子で塞がれた坑口の右の山腹の急坂を20mくらいよじ登ると、比較的整備され東西に伸びる鉱山道コースの山道に乗ることができる(急坂入り口の立ち木に15cmほどの板にルート表示がある。このまた「北神戸の山やま」(*30)にも記述あり、関連リンク)。

この山道を少し西に進んだところに竪坑とその横の小さな坑口があり、そこから数10m先の岩陰に上の写真のトロッコの軌条の残る坑口がある。(この道をさらに西に進むと帝釈山に至るロックガーデンに出、更に沢沿いに進むと丹生山から帝釈山への縦走路の枝道に達する)

帝釈鉱山の歴史

金山祠「山田郷土誌」(*21)の記述に拠れば、史料はないものの平安時代後期に摂津に勢力を広げ、馬で一日行程の猪名川町に多田銀山(関連リンク)を拓いた源氏がその採鉱技術を持って源氏と縁の深い山田の地で帝釈鉱山を開発した可能性があるとしている。なお、帝釈鉱山の入り口にある祠(写真左)は、多田の金山彦神社と同じ採鉱冶金の神である金山彦命を祀っているらしい。祠の中には鉱石と思われる石が納められている。

戦国末期には、この地に勢力を置いた別所氏が採鉱し、別所氏を破った豊臣政権が直轄地として朝鮮役の捕虜に採掘させたといわれている。

その後、徳川政権もこの鉱山を八部(やたべ)鉱山と呼んで天領とし、主に罪人を使って採掘したが多くの事故死・病死が出て、その死体の捨て場となった鉱山の東の谷はその後、骨谷と呼ばれるようになった。採掘した鉱石はタタラ場で粗銅にした後、牛で三田・兵庫に運ばれた。

江戸後半の安永8年(1779)以降の記録は神戸市史(*18)の歴史編に3箇所ほどに分かれて記述されている。開発したのは坂本の田中小左衛門で、その田中家文書は安永8年に銅山開発のための土地を六條八幡宮から借りた借用書で、これにより安永8年に銅山が開坑されたこと、長谷銅山(長谷は字の名前らしい)と呼ばれたことが分かる。

山田郷土史の言うように源氏の係わりがあったかどうかは定かでないが、多田銀山役所の支配下にあったことを示す文書(天明3、1783)、開坑当初から多田銀山と同じ金山彦命を祀っていること、天保元年(1830)の第3次開発に鉱山技術者とおぼしき者が参加していることから、多田銀山との強い結びつきが想像される。安永8年の開発でも多田銀山の鉱山技術を導入していた可能性は高いのではないだろうか。

その後、出水による水没などで休山と再開を江戸期に2回繰り返した後、明治期に至っている。先述の多田銀山の鉱山技術者(元次郎ら)はこの間、水抜き工事や新鉱脈の発見に努めたらしい。

明治になって初代兵庫県知事伊藤博文とも親交のあった淡路出身の菅久次郎が採掘権を得て明治元年(1868)から年産10tほどの銅を産出したが採算に合わず、明治27年(1894)に閉山した。

昭和6年(1931)頃、下谷上の宮脇万次郎が採掘権を得て操業を再開した。その後、太平洋戦争激化による資源不足で至上命令として帝釈鉱山も増産を要求され、朝鮮人労働者の動員、坑内電気設備や捲揚機などの急速な設備改善、道路整備、神戸電鉄谷上駅の鉱石積込設備整備などの結果、戦中の最盛期には月産50t(労働者45人)に達し、昭和18年(1943)で年間360tを産出した。終戦後再開し、鉱石は神戸電鉄谷上駅経由で岡山県玉野市の三井鉱業の精錬所などに送られたが、人員・産出量とも減少し、昭和22年で年産180t、26年には5〜60tに落ち込み、昭和35年採掘権が日鉄鉱業に移って以降は閉山され、昭和48年には鉱業権も放棄された。

以下の年表は、神戸市史(*18)の歴史編に拠っている。上記の記述の山田郷土史出展の部分と年代等異なっている部分がある。


西暦和暦出来事備考

1673 延宝元(有馬郡唐櫃村で銅山開発が行われた際に有馬温泉の温度・湯量が低下したため、以降湯山町(有馬)周辺での鉱山開発は長谷銅山を除きすべて差し止め) 
1779 安永8田中小左衛門(坂本)が字藤ヶ谷で長谷銅山採掘
銅山稼業の作業用地として六條八幡宮社領地(30間×10間)借用
第1期
毎年5万斤(約30t)産出
多田銀山役所(川辺郡銀山町=現在の兵庫県猪名川町)支配下
1781 天明元銅山の守り神として金山神社(御神体は銅鉱石)を勧請
1789 寛政元休山
1801 享和元採掘再開(田中小左衛門、井筒屋忠兵衛(八部郡二ツ茶屋村))第2期
毎年3万斤(約18t?)産出
1818 文政元休山
1830 天保元採掘再開(元次郎(摂津多田銀山町)、田中小左衛門、井筒屋忠兵衛)第3期
毎年2万斤(約12t?)産出
1836 天保7休山

1868 明治元菅久次郎が休鉱を引継ぎ採鉱再開 第4期(明治5.7までに26,146斤(15.8t)産出
1874 明治7日本坑法の実施?により借区開坑の認可を受けたが産出伸びず(明治19〜22の間に323貫(1.2t))
1896 明治29菅久次郎、実権を田中小左衛門に譲渡し坑道掘削を進めたが産銅不振(明治37、借区期間満了) 

     

1933 昭和8宮脇万次郎(下谷上)が技師として入山、昭和10頃より徐々に粗鉱産出
この頃から帝釈鉱山と改称
年次粗鉱(t)
昭和1024
1239
1415
1636
1794
18364
19332
2041
2698
339
1937 昭和12区域拡張し試掘鉱区120,900坪(0.4Ku)の認可
1939 昭和14重用鉱物増産法に基づく探鉱奨励金制度の適用
採鉱は人手中心で採掘量は平均年30t程度
1941 昭和16(太平洋戦争開戦)
1942 昭和17電力導入により排水、竪坑の鉱石搬上動力化
第2大切坑開坑
1943 昭和18朝鮮人労働者急増(S18.7で37名中21名)
粗鋼生産量364tに急増(飾磨港経由で日本鉱業佐賀関精錬所(大分)へ搬送)
1945 昭和20終戦を期に採掘中止
1948 昭和23採掘再開
(谷上経由で岡山県日比精錬所へ貨車輸送)
1960 昭和35鉱業権を日鉄鉱業に移転し休山
1973 昭和48鉱業権を放棄

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