北神戸 丹生山田の郷
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栗花落(つゆ)の井 (*16)(*26)  (原野関連リンク

栗花落の弁財天 江戸時代の『攝津名所圖會』に、東下の鷲尾氏原野の栗花落(つゆ)氏の屋敷が山田の庄を二分する豪壮な邸宅として描かれている。(*26)

この栗花落氏の屋敷跡にある弁財天(写真左)の床下に、普段は干上がってるのに梅雨(つゆ)の頃になると必ず清水が湧き出し、どんな日照りでも涸れることのない不思議な井戸(写真下、関連リンク)がある。

この井戸のおかげで昔は旱魃の年には多くの村民が救われ、また、この井戸に湧き出す水の量で入梅の日を定めていたとも言う。今でもこの井戸から湧き出した水は横の丸井戸に一旦溜まったあと用水路に流れ込んで田畑の間を巡っている。(*26)

この井戸が「栗花落(つゆ)の井」と呼ばれるようになったのは、下記の現地掲示板にある伝説による。この伝説を補強する話として、真勝(下記 掲示板)が白瀧姫を連れて山田に帰る途中の現 兵庫区都由(つゆ)乃町の「栗花(つゆ)の森」に白瀧姫を祀る祠があり、日照りに苦しむ里人をあわれに思った白瀧姫が地面に杖を突き立てたところ清水がこんこんと湧き出たという伝説が残っている。(*26)

しかしながら、山田の名も無き郡司に、天皇までが仲介して左大臣の娘を嫁がせるというのは、やはり「伝説」くささを感じざるを得ない。もしかすると、義経伝説を持つ山田のもう一方の勢力であった東下の鷲尾氏に対抗して、(平安末期の義経伝説に対し)更に昔の奈良時代に遡り、また、原野の水源でもあった邸宅内の不思議な井戸を結びつけて栗花落氏の由緒正しさを誇示したものだったのではないかとも勘ぐってしまう。

栗花落氏の屋敷の近くにかつてあった安養寺という鎌倉以前からの由緒ある寺には、弁慶が一の谷の合戦の際に安養寺から一の谷まで長刀の先にかけて運んで陣鐘のかわりにしたという「弁慶の鐘」(今は須磨寺所蔵)の伝説が残されているのもなにやら因縁めいている。

「栗花落の井」伝説(現地掲示板、原文通り)

丹生山田の住人、矢田部郡司(やたべこおりのつかさ)の山田左衛門尉真勝(さえもんのじょうさねかつ)は、淳仁天皇(註 733-765 第 47 代天皇(在位,758-764))に仕えていたが、左大臣藤原豊成の次女白瀧姫を見初め、やみ難い恋慕の情に苦しんだ。真勝の素朴で真面目な人柄に感心された天皇は自ら仲立をして夫婦にされたので、真勝は喜んで姫を山田へ連れ帰ったという。才色優れた白瀧姫と真勝との幸福な生活は、結婚三年にして男の子一人を残して姫は亡くなってしまった。真勝はその邸内に弁財天の社を建て姫を祀った。毎年五月、栗の花が落ちる頃、社の前の池に清水が湧き出て、旱天(ひでり)でも水の絶えることがなかったという。それにより姓を「栗花落」と改め、池を「栗花落の井」と名付けたという。

栗花落の井

真勝から白瀧姫へ送った恋歌

「水無月の 稲葉の末もこかるるに 山田に落ちよ 白瀧の水」

白瀧姫から真勝への返歌

「雲たにも かからぬ峰の白瀧を さのみな恋ひそ 山田をの子よ」

神戸市北区役所
山田民俗文化保存会


「栗の花が落ちる頃」というのは、社の前の池に清水が湧き出る時期であるとともに白瀧姫の無くなった季節でもあったという。また、真勝と白瀧姫の間でやり取りされた歌は(*16)(*26)によれば、最初が、
 「水無月の 稲葉の露もこがるるに 雲井を落ちぬ 白糸の滝」
 (日照りで焼きつく6月の稲の葉のように恋焦がれる私のもとに天から降りてきて欲しい)
これに対する白瀧姫の返歌が
 「雲だにも かからぬ峰の白瀧を さのみな恋ひそ 山田男子よ」
 (雲もかからぬほどの高峰のように高貴なこの白瀧姫をあきらめなさい、山里の若者よ)
更にこれに対する真勝の返歌が
 「水無月の 稲葉の末もこがるるに 山田に落ちよ 白瀧の水」
だったと言う。

ところで、栗花落という名前、この栗花落家の末裔だけでもなさそうで、「つゆ」「つゆり」「ついり」などの読みで兵庫県に多い名字のようだ。また香川県の高松には栗花落(ついり)という名前の栗を使った羊羹もある。「入梅・梅雨入り」も「ついり」とも読み、いずれにしても栗花落というのは梅雨を風流に表現した当て字であるようだ。

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