北神戸 山田町
(*5)
(*12)
(*26)
(*32)
(地図(独立Window)、
明治22年(1889)の地図、
江戸末期(1836)の山田の絵図、
関連リンク)
地図上の字をクリックすれば解説が表示されます
山田町は西六甲連山東側(摩耶山〜高取山)と丹生山系(帝釈山系)に挟まれた93Ku(宅地開発で山田町から独立した新興住宅街を含む。北区の約40%、9区からなる神戸市の約1/6)の地域で、13の字から構成されている。(地図)
神戸電鉄の大池あたりを水源として西へ流れる山田川(志染川)(関連リンク)の流域で、六甲山系と丹生山系(帝釈山系)という自然の要害に囲まれた地域は、その流域にある美しい丹生(たんじょう)山に因んで丹生(「にう」または、「にぶ」)の山田と呼ばれている。
一見、幕末から明治維新にかけての神戸開港後に拓かれたと思われがちなこの地域は、丹生山系の北側の淡河川の川筋とともに京都・摂津から播磨・山陽方面に抜ける裏街道としての役割を果たし、いつの時代にも人々の往来があり、結果として都の文化が早くから伝わり豊かな地域文化が育った。
奈良時代初期(8世紀始め)に記された日本書紀、古事記に登場する伝説上の神功皇后(応神天皇の母、解説)のエピソードが、丹生山の名前の由来と言われる。「山田村郷土誌」(*20)によれば、丹生という地名の起こりは、播磨風土記の記述に基づき、「国堅大神(註:くにかためまししおほかみ)の子、爾保都比売(註:にほつひめ)神、此の土を治め、神功皇后(解説)征韓の時に当たって神誨(註:おつげ)を国造(地方長官)の女(註:むすめ)石坂比売に憑りて(註:のりうつって)告げしめ、斯の山(註:丹生山)の丹土(註:赤土)を出さしむ。これより丹生の郷と称するに至る。」と説明している。(丹生神社・明要寺跡参照、註:国堅大神(くにかためまししおほかみ):播磨国風土記での大国主大神(オホクニヌシ)の別称)
朝鮮半島遠征から帰った伝説の神功皇后の仮の棲み家、行宮跡に皇后の子の応神天皇を祀って平安時代中期(10世紀末)に創建した社が中にある山田13ヶ村の総鎮守、六條八幡神社の起りと伝えられている(*5)(*16)( が、実際には六條八幡は源頼朝から山田荘を寄進された左女牛若宮八幡社が京都の八幡社を分祀したのが始まりと思われる(*32))。六條八幡神社は、南北朝時代から室町時代にかけて相当な社領をもって繁栄したらしい。江戸時代、山田が幕府領、藩領、旗本領、寺社領などに分割された後にも丹生山田としてのまとまりを保ってきたのはこの六條八幡神社であったと言えそうだ(*26)。
伝説はともかく、山田の初期の発生過程は記録に乏しくよく分かっていない。山田小学校付近から発見された竪穴式住居跡などから弥生時代〜縄文時代に人が住み始めていたのは確からしい。その後の断片的な記録から推定すると、平安後期には貴族の荘園となり、その後東大寺寺領、平家領(越前の所領地と交換)、左女牛(さめうし)若宮八幡社領(源頼朝が寄進)を経て江戸時代に至るようだ。
山田には、六條八幡神社をはじめ、箱木千年家、丹生神社、無動寺、下谷上農村歌舞伎舞台などの農村舞台、数多くの歴史的文化財(関連リンク)が残っており、その多くが、山田川(志染川)(関連リンク)の流域(特に北岸)に存在している。特に、山田に数多く残る近江式の文様を持った石造建造物(宝篋印塔(解説)など)は、南北朝から室町にかけて山田が都と西国を結ぶメインストリートであったことを物語っている。この丹生山田独特の文化を「丹生文化」と呼ぶ。
これ以降、山田という地名はあまり表に出ないものの、日本史上のいくつかの事件の舞台となる。
- 平安末期の1180年6月、平清盛(解説)は公家の反対を押し切って福原(神戸市兵庫区)への遷都を決行(結局、同年11月には京都へ戻る)したが、この時、丹生山を京の比叡山になぞらえ、夢野(兵庫区)から烏原谷をのぼり、菊水山の西の谷川を北進して丹生山に月参りをした。清盛が烏原から山田まで山道の左側に1丁(約100m)毎に立てた丁石が、今も丹生山の参道に25基残っている。当時(古代から中世にかけて)、この地域は「山田荘(やまだのしょう)」と呼ばれる荘園で清盛の時代は平家の所領であった。(*5)(*16)
- 1184年の一の谷の合戦の際、平家の奇襲に向かう源義経は、山田の東下まで来て考え込んだ。「ここから先の鵯越の山道をくわしく知っている者はいないだろうか」「原野の鷲尾武久という狩人ならばよく鵯越の道案内をつとめましょう。」奇襲が成功し平家が敗走した後、義経は自らの一字を授けて武久を義久と改名させた。その後、鷲尾家は近隣で大きな勢力を握った。(*16)
- 楠正成の湊川の戦で有名な南北朝の騒乱では、丹生寺城に拠った南朝方武将や明要寺の僧兵たちが、北朝の赤松勢などと激しい戦闘を繰り返した。(*32)
- 織田信長の時代(1579年頃)信長に敵対した三木の別所氏に味方したこの地域の豪族や、丹生山明要寺などは、羽柴秀吉の軍団の激しい攻撃にさらされた。戦闘で明要寺から北東の尾根づたいに帝釈山の東まで逃げてきた大勢の稚児達が秀吉方の武士に切り殺された山が稚児ヶ墓山と呼ばれるようになり、村人が墓に供える花を手折った稚児ヶ墓山の東の峰が花折(はなおれ)山となった。(*16)(*19)。
- 江戸時代、この地域は農村歌舞伎や人形浄瑠璃が盛んであったが、天保の改革(解説)を行なった水野忠邦による風俗粛清で職を失った大坂の浄瑠璃の太夫や人形遣いが山田の地に流れてきて、水野忠邦失脚後益々盛んになった。箕谷駅から北へ10分の天彦根神社境内の下谷上農村歌舞伎舞台は、スケールの大きさ・特別な機構で国の重要文化財に指定されている。(*5)
- 幕末には、神戸開港に備えて外国人との衝突を避けるための西国街道のバイパス徳川道が石屋村(灘区、阪神石屋川付近)を起点に現在の森林植物園を通り、小部、藍那を抜けて、白川村、布施畑村を経由して明石の大蔵谷まで拓かれたが、明治維新の混乱の中ですぐに廃止されてしまった。その徳川道は現在六甲連山のハイキングコースに名残を留めている。
- 最近は温暖化による品質低下、各地のご当地米の台頭で勢いが落ちてきているが、現在名品といわれる全国のほとんどの吟釀酒が使っている「山田錦(関連リンク)」という原料米は、大正12年に兵庫県立農事試験場で「山田穂」を母に、「短稈渡船」を父にして交配され、その中から優秀な苗を育て、昭和11年、親の山田穂と錦のようないい米という意味で命名されたが、「山田錦」の母にあたる「山田穂」が、山田町で生まれたとする説もある。(関連リンク)
- 衝原から志染(しじみ)町にかけて横たわる衝原湖は、昭和50年代に呑吐(どんと)ダムの建設によってできた湖で、その際、旧位置が水没することになった前述の箱木千年家が高台の現在地に移築されている。
- 戦後は、山田町の南部、山田川(志染川)より南側に神戸・大阪のベッドタウンとして急速に宅地化が進み、人口が急増。現在もまだ開発が続いている。小部から独立した鈴蘭台は、北区の行政・交通の中心地となっている。
地形的、文化的には、ほぼ中央を東西に連なる山並み(六甲山−走折山(現在の小部峠:明治7年有馬街道開通の際に削られた?)−惣山−双六山(現在の北鈴蘭台西側の泉台のあたり?)−長坂山(小部・藍那・原野・東下の境界付近))を境にして、2つの地域に分かれており、北側の山田川(志染川)流域は「奥一里」「谷通り」などと呼ばれ、南側は「中一里」「尾通り」などと呼ばれていた。(六甲山系以南の浜側は「口一里」と呼ばれていた)
「奥一里(谷通り)」には、上谷上、下谷上、原野、福地、中(中村)、東下、西下、坂本(山田村郷土誌では阪本)、衝原が属し、「中一里(尾通り)」には小部(江戸後期は東小部、西小部)、藍那、小河が属し、全体で山田13ヶ村を構成していた。
江戸時代の摂津国八部(やたべ)郡、明治に入って兵庫県武庫郡(明治29年(1896))、昭和22年(1947)に神戸市兵庫区、昭和48年(1973)神戸市北区となって現在に至る。現在の山田町の13の字は、山田13ヶ村と言われていた13の村とは一部異なり、東小部村、西小部村が小部に集約され、幕末に開墾された与左衛門新田(今は全域がゴルフ場)が加わっている。与左衛門新田には当然集落はないので、六條八幡神社の氏子を構成する地区には含まれず、東下西が入って13の幟が六條八幡神社の境内に翻っている。
前述の「山田村郷土誌」(*20)および神戸市教育委員会発行の「つくはら」(*32)の記述を中心に、山田郷の成り立ちを追ってみる。
山田北方の山地(南方の菊水山、西下のゴルフ場でも)では、縄文前記と見られる石鏃(矢じり)が数点発見されているものの、呑吐ダム建設に当たって行われた考古調査では里では顕著な遺跡・遺物は発見できていない。山地の矢じりも、周辺から狩猟に出かけてきたとも考えられ、山田に人が住んでいたという確証はない。(*32)
弥生時代から古墳時代にかけては、中の山田小学校南側で弥生時代末期の竪穴 住居や掘立柱建物、古墳時代中期末〜後期初めの竪穴住居、山田小学校構内で飛鳥時代の竪穴住居が確認され、歴史に確実な痕跡を標している(山田小学校構内では平安〜鎌倉時代の竪穴住居、土壙墓も発見されている)(「神戸市史」(*18))。周辺では北方の道場町、西北の三木市志染、西方の押部谷などで多数の古墳が発見されている。
7世紀(大和時代後期)以降、歴史は文献の時代に入るが、山田の名前が文献に登場するのは11世紀(平安時代)まで待つ必要がある。10世紀に成立した「倭名鈔」(Wikipedia)の摂津国八田部郡の郷にも山田は見出せない。大化の改新に始まる律令制下では50戸でひとつの郷を構成するため、山田は50戸に達していなかったのだろう。(*32)
なお、丹生山の山間に須恵器(解説)・土師器(解説)などの遺物が見られることから、奈良時代には明要寺またはその前身となる寺か修行所があったことが推定され、丹生山南麓にも集落が出来ていたことが推測される。(*32)
山田の自然条件は、この頃までの農耕技術では生産を発展させるには厳しすぎたかもしれない。しかし、律令体制が大きく崩れ、各地に荘園が出現してきた平安中期ころになると、農耕技術も発達し、むしろ国衙(解説)権力が入り込みにくい自然条件と治安の悪さが、荘園として山田が急速に発展するための有利な条件となったかもしれない。そして、中央の文化も入り込み、無動寺の諸仏の造立に見られるように確実に文化も高まっていったと考えられる。無動寺がいつ開基されたかは不明だが、仏像の製作時期から見て、平安後期までには開創されていたと思われる。(*32)
平安後期、長元8年(1035)正月20日付けの九条家本『延喜式(解説)』の紙背文書(解説))に文献上の記述として初めて山田の地名が現れる。
「山田荘は摂津と播磨の国境にあり、不善の輩が往還し、ある時は放火、ある時は殺害などの犯罪を犯す状況である。そこで政所から別当(解説)殿に申請して、摂津国衙(解説)の庁宣を八部(やたべ)郡司と荘司らに賜り、不善の輩の犯行を停止し、かつは犯人である坂本連種と男二人を逮捕して欲しい」これは、僧 住元なるものが、摂津・播磨の国境で警察力の及びにくい山田荘の治安の悪さを訴え、その取締りのための庁宣(在京の国司が現地の国衙役人に出す命令)を政所に申請したものであるが、単なる犯罪というより土豪勢力(坂本村の住人?)の武士化へ動きとも思われる。なお、荘園がどのように成立し、持ち主が誰であったかについては不明である(当時、摂津西部には摂関家(解説)の荘園が多かった)。(*32)前記文書の約130年後の平安末期、嘉応元年(1169)に山田は再び文書上に現れる。嘉応元年11月付権大僧都某の解(東大寺文書)で、山田荘は入道太政大臣家の所領越前大蔵荘と交換されたと示されている。入道太政大臣とは平清盛のことと思われ、つまり、山田荘は平家の所領となった。このことは「山田村郷土誌」(*20)などに記されている平家と山田の結びつき(清盛の参詣道参照)とよく一致する。(*32)
なお、寛文13年(1673)に作成された六條八幡神社の縁起(「山田村郷土誌」(*20))では、源為義(解説)が、京都六条にあった源氏の堀川屋敷の鎮守であった左女牛若宮八幡宮を山田に勧請したとして、この時期、山田が源為義(解説)の 所領だったとしているが、これは、平家滅亡後、文治3年(1187)に源頼朝が山田を左女牛若宮八幡宮の社領地として寄進した(『吾妻鏡』(解説))ことから類推した誤伝と思われる。(*32)
六條八幡神社は山田が左女牛若宮八幡宮の社領地となった後、荘園領主の権威の象徴として京都の左女牛若宮八幡を勧請・分祀したと考えられるが、各村々にはほとんどが従来から山田・播磨で広く信仰されていた大歳神社がそのまま残り、八幡神社が祭られることはなかった。
話は前後するが、古代の山田の締めくくりとして国家的大事件が山田を駆け抜けて行った。源義経の一の谷奇襲である。詳しくは「義経の進軍路」に記したが、多くの謎と伝説を山田の地に残して時代を武家の時代へ転換していった。
南北朝時代になると、丹生山が南朝方武将の拠点となって、戦闘が繰り返された。後醍醐天皇(解説)が吉野で吉野朝廷を拓いた延元元年(建武3、1336)年末頃から天然の要害であり交通の要衝であった丹生山に新田義貞(解説)の武将であった金谷経氏が城を築き山陰の中道を差し塞いだ(『太平記』(解説))。翌建武4年(1337)、赤松円心(Wikipedia)によって丹生寺城は一旦陥落したが、暦応元年(延元3、1338)には三草山(播磨国加東郡)、生田神社、湊川、明石城などに進出した。北朝武家方の戦力も強化されていった。暦応3年(延元5、1340)赤松勢が柏尾に陣して数ヶ月合戦したのを最後に記録は途絶えるが、陥落または自然消滅したものと思われる。この合戦には南朝方武将だけではなく、明要寺の衆徒(僧兵)も大いに協力したものと思われる。(*32)
この南北朝の前後に、現存する日本最古の民家である箱木千年家の母屋部分が建てられた。江戸時代中期の『摂陽奇観』『摂津名所図会』では、箱木千年家が平安初期の大同元年(806)に建てられたとして紹介されていた。(*32)
ともに湯乃山街道(湯山は有馬温泉(関連リンク)のこと)と呼ばれた淡河・山田の2つの川筋のうち、室町時代あたりまでは山田川沿いの丹生山田の方が重要な役割を果たしていたことを、南北朝から室町にかけての近江式の文様を持つ宝篋印塔(解説)などの石造美術品が物語っている。近江式の文様は近江で発達し山城(京都)を経て摂津・播磨に伝わったが、その道筋は西国街道も、江戸時代に山田を上回る繁盛を示した淡河も通らず、宝塚、有野から山田道を辿っている。この頃には有馬の湯治客も増え、地方から京へ、また、京から地方へ向かう湯治客や寺社参詣客によって文化が伝播し、山田に根付いていった。この丹生山田独特の文化を「丹生文化」と呼ぶ。この山田川沿いの湯乃山街道と海岸部の兵庫方面を結ぶ道も、峠道の安全を祈って作られたであろう室町時代の応永8年(1401)建立の小部峠の宝篋印塔や更に古い南北朝時代後期と推定される藍那の辻の宝篋印塔が示すように古い時代から利用されており、山田の地は交通の要地でもあったことを示している。(*32)
戦国時代になり、天正6年(1578)、三木城主別所長治が織田軍の羽柴秀吉に抵抗し、石山本願寺、毛利、荒木村重と連携して三木城に籠城したとき、丹生山城も三木城を支援する外城のひとつとして、また、毛利による摂津花隈(荒木の支城)−丹生山−淡河−三木のか細い補給ルートの基地として近郷の一揆2,000人がこもったという。このキーポイントというべき丹生山城に対して秀吉は精兵300人で夜襲をかけ男女の差別なく籠城軍をなで斬りにし、同時に明要寺の堂舎に火をかけて丹生山城もろとも灰燼に帰した。このときのエピソードが稚児ヶ墓山・花折山の地名の由来として伝説に残っている。(*32)
秀吉の天下統一から江戸時代の幕藩体制に移行する中で、山田は従来の中世的荘園制度から山田13ヶ村それぞれが村として幕府の支配行政の単位となった。江戸時代の山田は特にこれといった事件も記録に残ることなく、同じく湯ノ山街道と呼ばれた北回りの淡河に本陣が置かれることにより時代からも取り残された存在になっていったかと思われる。こういった状況の中でも中世以来の伝統を守りつつ、江戸末期には、天保の改革(解説)を行なった水野忠邦による風俗粛清で職を失った大坂の浄瑠璃の太夫や人形遣いが山田の地に流れてきて、村々に農村歌舞伎舞台も設けられた。
江戸時代にはほぼ全域が幕府領となった後、旗本領・藩領・寺領などに分割されて行ったが、大部分は幕府領のまま明治維新に至っている。その後1889年(明治22)の町村制施行(地図)により八部郡山田村に改称後、1896年(明治29)から武庫郡に属していたが、1947年(昭和22)に神戸市兵庫区山田町となり、兵庫区の分割により1973年(昭和48)から北区に属することとなった。(*26)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−なお、「山田村郷土誌」(*20)では、山田の成立過程を以下のように記している。
- 当初単に山田郷といわれていたこの地域に、人口が増えるにしたがって、7世紀末頃に原野という部落が発生し、原野を中心として西側に中(中村)が、そして中村から寺領が独立して福地となった。
- さらに西側に下村が発生し、下村の北側、丹生山の山下に坂本村が出来たのが、室町時代中期の明応年間(1492-1501)。下村は、江戸時代に東西に分かれて、東下村、西下村となった。
- さらに西側、原野の西、山田川が狭隘部に突き当る辺りという意味の名前の衝原(つくはら)が出来た。
- 原野の東側は、谷の上手(山田川(志染川)上流)になることから谷上となり、さらに室町後期の16世紀半ば頃までに谷上が下谷上村と上谷上村に分れた。
- 以上、9ヶ村を谷通りと称したのに対し、尾通り(「尾」とは、山裾の細くのびた部分)にあたる部落を尾部、転じて、小部と称した。小部(おうぶ)村は、江戸時代に東小部村と西小部村に分かれたが、明治14年に合併して再び小部村となった。
- 小部の西側の藍那は、摂津国の西端、播磨国との間にあることから古くは相野と呼ばれ、後に藍野、転化して藍那となった(別説あり(地名の由来))。また、分水地を境に藍那から分かれて小河(おうご)が発生した。小河村は江戸時代初頭の「慶長図絵図」に「小川村」と書かれているがその80年ほど後、天和3年(1683)頃以降は「小河村」と表記されるようになっている。
- 谷通りの北部にある与左衛門新田は、幕末に上谷上、下谷上、原野の3ヶ村入会地に3ヶ村の4人が出資して開墾したが、村方の同意を得ていなかったため、明治維新に訴訟を仲裁した横屋村(東灘区役所付近?)の松田與左衛門(=地名の由来)預かりとなった後、上谷上、下谷上、原野3ヶ村の共有地となった。
山田川流域の谷通りの各村落の発生については「山田村郷土誌」(*20)にある程度の記述がある一方で、尾通りの小部・藍那・小河についての記録は殆ど無い。唯一「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」(*19)に小部の成り立ちが示されているが常識的に信じがたい話も多く、根拠は定かでない。この「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」による小部地域(山田郷南部、「中一里」「尾通り」)の成り立ちは、以下の通り
- 太平記(解説)によれば(と「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」では言う)?、大化2年(646年)にインドの高僧法道仙人(解説、関連リンク、「山田村郷土誌」(*20)でも摂津・播磨・丹波を中心に100数十ヶ寺を建立したとされている伝説の僧)が摩耶山に寺を開いている(関連リンク)。 この時、法道仙人が小部の萬福寺を宿坊としたのが小部村のはじまり。
- 奈良時代の741年、瀬戸内で乱を起こした藤原純友を討伐した右大臣橘遠保(解説)が、帰路、小部の地(当時、おう部(「おう」は口偏に奄))で没し、その親族・従者が小部に荘園を拓いた。
- 橘遠保の後裔で、戦国時代後期に千利休に師事した芝山鑑物(向井宗鉄)が、小部に戻って手水鉢を製作するため丹波の相野から職人を呼び、現在の藍那に住まわせた。(相野->藍野->藍那)
- 江戸時代に小部の西側に人家が増えて西小部となり、元の小部は東小部となった。
- 江戸初期の慶長9年(1605)から明治9年(1877)にかけて5回にわたる領地紛争(中一里山紛争)を経て、小部の東・南側の山地(中一里山)は、下谷上領となった。
時 代 | 年代 | 国・郡 県・郡 | 山田村/町 13ヶ村/字 (*18)(*20)(*21) | ||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
室 町 | 応永5 (1398) | 摂津国 八部郡 |
東小部 25軒 | 西小部 20軒 | 藍那 24軒 | 小河 10軒 | 上谷上 27軒 | 下谷上 41軒 | 原野 52軒 | 福地 14軒 | 中村 26軒 | 東下 16軒 | 西下 9軒 | 坂本 10軒 | 衝原 14軒 |
江 戸 | 元和4 (1618) |
小部 幕府領 | 藍那 幕府領 | 小河 幕府領 | 上谷上 幕府領 | 下谷上 幕府領 | 原野 幕府領 | 福地 幕府領 | 中 幕府領 | 東下 幕府領 | 西下 幕府領 | 坂本 幕府領 | 衝原 幕府領 |
||
元禄16 (1704) |
東小部 65軒 | 西小部 39軒 | 藍那 79軒 | 小河 27軒 | 上谷上 68軒 | 下谷上 89軒 | 原野 103軒 | 福地 30軒 | 中村 37軒 | 東下 44軒 | 西下 18軒 | 坂本 36軒 | 衝原 30軒 |
||
明和6 (1769) |
東小部 幕府領 | 西小部 幕府領 | 藍那 旗本領 | 小河 幕府領 | 上谷上 幕府領 | 下谷上 幕府領 | 原野 幕府領 /旗本領 | 福地 藩領 | 中 幕府領 | 東下 幕府領 /藩領 | 西下 藩領 | 坂本 幕府領 | 衝原 藩領 |
||
昭 和 | 昭和54 (1979) | 兵庫県 神戸・北 |
小部 約1,000戸 | 藍那 132戸 | 小河 37戸 | 上谷上 220戸 | 下谷上 410戸 | 原野 152戸 | 福地 65戸 | 中村 85戸 | 東下 197戸 | 西下 29戸 | 坂本 41戸 | 衝原 20戸 |
昭和期以降の住宅地開発
( )内は、元の字(地域より推定)
新住居表示(*22) | 町名変更(*22) | |
---|---|---|
昭和45 | 鈴蘭台南町、北五葉、南五葉(以上 小部) | |
昭和46 | 鈴蘭台西町、鈴蘭台北町(以上 小部)、君影町(小部?) | 泉台(小部) |
昭和47 | 鈴蘭台東町(小部) | 星和台(小部?、藍那?) |
昭和48 | 広陵町(下谷上) | |
昭和49 | 緑町(原野?、下谷上?) | 松が枝町(原野?、下谷上?) |
昭和50 | 甲栄台(小部?)、若葉台(小部?)、青葉台(原野) | ひよどり台(下谷上)、幸陽町(上谷上) |
昭和51 | 花山東町、花山台(以上 上谷上) | |
昭和52 | 西大池(上谷上)、東大池(上谷上?) | |
昭和53 | ひよどり北町(下谷上)、筑紫が丘(下谷上?) | |
昭和54 | 大池見山台(上谷上) | |
昭和57 | 鳴子(小部)、惣山町(小部) | |
昭和61 | 日の峰(原野?) | |
昭和62 | 小倉台(下谷上)、桂木(原野?) | |
昭和63 | 大原(原野?、小部?) | |
平成元 | 中里町(下谷上?、小部?) | |
平成4 | 柏尾台(原野) | |
平成5 | 花山中尾台(上谷上) | |
平成6 | 大脇台(小部) | |
平成15 | 松宮台(小部) |
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