北神戸 丹生山田の郷
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義経の進軍路(鵯越(解説)、藍那道、鵯越別道)(*23)(*26)(*27)(*28)(*32)

「電子地図帳Z[zi:]Vより引用 c2000 ZENRIN CO.,LTD.」(山田周辺拡大)

義経進軍路

丹生山田の郷に足を踏み入れた歴史上の人物の中でも、たった1日か2日で、これほど多くの伝説と史跡を残した人物はいない。

源義経(解説)は、謎の多い人物で、その名が最初に世の中に現れた一の谷の合戦もまた多くの謎に包まれている。

常に話題にのぼるのが、@そのセンセーショナルなデビューとなった鵯越の逆(坂)落し(解説)の「鵯越」はどこにあったか?、A義経を鵯越に導いた鷲尾三郎はどこの住人だったか?の2つで、この2つの謎が、義経の進軍路の推定を複雑なものにしている。

それ以外にも、圧倒的な軍勢の差のある中でなぜ無謀とも思える奇襲が成功したのか(平家物語では平家は10万だが実勢は7千〜3万程度、対する源氏は平家物語では範頼軍5万義経軍1万だが実勢3千程度と言われている)、義経は兄の範頼(解説)が進んだ西国街道(約10数〜20里、70〜80Km)に対して全行程約30〜40里(120〜140Km)もの大迂回をしてなぜあのルートを取ったのか、平家軍が三草山に軍勢を出していたのは迂回ルートによる奇襲を予測していたのか、なぜ義経も源氏も土地勘のない丹波・西摂津の30里以上の山中をなぜたった3日で進めたのか、など多くの疑問が沸いてくる。

寿永3年(1184)2月4日早朝(2月3日夜半の説もある−−三草山まで約20里80Kmの行程を10数時間では無理と見たのだろう)、後白河法王(解説)から源頼朝(解説)に下った平家追討の命を受けて、源範頼、義経の兄弟が西国街道、丹波街道の二手に分かれて京都を出発した。

丹波街道を進んだ義経軍は、2月5日( 「源平勇者の夢散歩」(*27)では2月6日−−これもやはり三草山まで1日では無理と見たため?)夜明け前に、なぜか予定戦場から遥かに離れた三草山に陣を張っていた平資盛軍を打ち破った後、藍那を通って、鷲尾三郎の案内で「鵯越」に向い、2月7日早朝に逆(坂)落しの奇襲攻撃を敢行、源氏を大勝利に導いたというのがほぼ諸説の一致するところ。しかしながら、三草山から藍那、藍那から「鵯越」までのルートについては諸説入り乱れて決着はついていない。このあたりの事情については筒井康隆の「こちら一の谷」(*28)にユーモアたっぷりに描写されている(以下で引用)

3人(4人?)の鷲尾三郎

鷲尾屋敷跡京都鞍馬山で育ち奥州に逃れていた義経が、六甲の山中に詳しいわけも無く、たった1日(2日?)で三草山から一の谷?までの約60Km( 「北神戸 歴史の道を歩く」(*26))を行軍し、2月7日の奇襲を成功させた裏には、地元の鷲尾三郎の働きが大きく貢献していると言われているが、この鷲尾三郎がどこの住民であったかが明確でない。筒井康隆の「こちら一の谷」(*28)の記述を一部引用する。(左の写真は東下の鷲尾屋敷跡)

さて、勝ちいくさだった三草山から、次の戦場である一の谷までは六甲山地のけわしい山道が続く。東国武者の集まりである義経軍には、当然、このあたりの山道にくわしい人間の案内が必要であったに違いない。
 本体を土肥実平たちに授けて別行動をとらせ、自分はたった七十余騎をしたがえて馬を進めていた義経は、少し前方をひょこひょこと歩いていく山男らしい風体の青年を見て首を傾げ、弁慶を呼んだ。「おい。おい。弁慶弁慶」
 「ははっ」
 「あの男は何者か」
 「これは殿。お忘れでございますか。あれは天引峠を越えたところで道案内にと召しかかえた男でございます。のちに篠山町(註:現在は篠山市)となる鷲尾村の出身ですから、殿が鷲尾三郎常春という名前をおやりになったではありませんか」
 「ううん」義経は、そっ歯を出し入れした。「そうだったかなあ。実在感にははなはだ乏しい人間だが、まあ、お前も登場していることでもあるし」
 義経に黙認された形の鷲尾三郎、のちの伊勢三郎が一行を案内して、今の神戸市兵庫区(註:現在は北区)山田にある藍那までやってきたときである。山道の潅木の茂みをがさがさとかきわけて出てきた鷲尾三郎と瓜ふたつの山男が、本ものの鷲尾三郎と肩を並べて歩きはじめた。これに気がついてまたあっと驚きそうになった義経が、けんめいに出っ歯を引っこめて気を静め、うしろから二人に呼びかけた。
 「こらこらお前ら。二人も出てきてはややこしいではないか。どちらが本物だ」
 ふたりが立ち止まり、馬上の義経に向きなおった。
 「わたしは鷲尾三郎義久」あとから出てきた方がそう自己紹介した。「丹生谷(註:多分、東下)鷲尾家の者でございます。お忘れでございますか。義の一字を賜り、さらにこの合戦のあとで太刀一振、鎧一領、馬一匹、日の丸の陣扇を頂くことになっております」
 「こらこら。合戦も終わらぬうちに催促するな」と、弁慶がいった。
 「貴様。こんな戦場の近くまで来てから道案内にしゃしゃり出てくるとはおこがましいぞ」鷲尾三郎常春が叫んだ。
 「だまれ。おれが元祖鷲尾三郎」
 「それならおれは本家鷲尾三郎」
 「そのギャグは使い古しだ」もうひとり、鷲尾三郎があらわれた。
 「また出たぞ」弁慶があきれて眼を剥いた。「お前はなんだ」
 「この山の麓の白川村、のちの須磨区白川出身の鷲尾三郎です。わたしの先祖は村上天皇の直系、即ち源氏と同族。そのよしみで途中からわたしを道案内におつれになり、勘解由(かげゆ)の名を下さったのです」
 「白川村なんぞ、通るわけがない」他の二人が文句をつけはじめた。「あんなところを通れば一の谷まで七キロも山の中を歩かなくちゃならんのだ」
 三人がのちの世でそれぞれ正統派を主張して争うことになる各自の子孫の手前、声高に口論しはじめた。
 「もうよい。もうよい」義経が閉口して叫んだ。「三人いたから三郎だということにしよう。三人ともつれていく」
 常春、義久、勘解由の三人の鷲尾三郎が、ふくれっ面をして軍の先頭を歩きはじめた。

「北区の歴史」((*23)によれば、「源平盛衰記」では、鷲尾三郎経春(常春でなく)、「平家物語」では鷲尾三郎義久として登場する。この鷲尾というのは西摂津から播磨にかけて勢力を張り、要路の要所を押さえていた「鷲尾党」の一族で、問題の鷲尾三郎は、東下、白川と多井畑(須磨区)のいずれかとしている。

どの鷲尾三郎が本物かによって、東下の鷲尾三郎ならば、三草山から藍那のルートは、淡河−衝原東下経由の可能性が高く、白川か多井畑の鷲尾三郎であれば、後述の鵯越の逆落し位置は、現在の鵯越ではなく、一の谷のうしろ鉄拐山の斜面であった可能性が高くなる。

「鵯越の『坂』落し」か「一の谷の『逆』落し」か?(関連リンク)

平家凋落の転換点となった一の谷合戦の帰趨を決定付けた義経の奇襲「鵯越の坂(逆)落し」について、平家物語の諸本には、「一谷のうしろ、鵯越ををとさむと」「一谷のうしろ鵯越にうちあがり」、吾妻鏡には、「一ノ谷の後ろ山、鵯越と号す、に着く」「鵯越より攻め戦はるる間・・・」(原文は漢文)とあり(*26)、鵯越の「急斜面」を一の谷に攻め降ったことになっている。(右下の写真は鵯越墓苑南門近くの昭和29年設置の史跡碑)

史跡 鵯越しかしながら、

などから史家、作家、電鉄会社、素人入り乱れて「坂(逆)落しの鵯越はどこか」の論争がされている。

主な論点をコミカルに記述している筒井康隆の「こちら一の谷」(*28)を再び引用する

敵陣の中央突破を計ろうとひよどり越にやってきた義経は、ここぞ正念場とばかりかの有名なせりふを吐こうとした。
 「鹿も四つ足、馬も四つ足。鹿の越えゆくこの坂道」眼を見ひらいた。「や。や。や」
 「これが本当にひよどり越なのか」義経はおろおろして三人の鷲尾三郎に訊ねた。「何かの間違いではないか」
 三人がいっせいにかぶりを振った。「いいえ。間違いではございません。昔も今も、これから先もずっと、たしかにここがひよどり越で」
(中略)
 一行がなだらかな坂道をぞろりぞろりと進みはじめた時である。下から鉄道員の制服を着た中年の男が汗を拭き拭きやってきて、義経たちを見るなりぎょっとしたように一瞬立ちどまってから、あっと叫んで駆け寄ってきた。
 「こんなことだろうと思った。やっぱりこっちに来ていたんですね。あなたがた、この道を行ってはいけません」
 弁慶がいそいで鉄道員の前へ立ちふさがり、誰何した。「怪しいやつ。お前は何者だ」
 「山陽電鉄の宣伝課の者です。あなたがたはここを通ったのではありません。ご覧のとおりここはこんななだらかな坂道、とても逆落としなどできますまい」
 「おお」義経主従は顔を見あわせた。「では本物のひよどり越が、ほかにあると申すのだな」
 彼は大きくうなずいた。「そうです。『平家物語』などには『一の谷後の山ひよどり越』と書かれておりますが、まことにその通りで、真のひよどり越は一の谷即ち須磨浦公園のうしろ、鉄拐山の東南の斜面です。そちらにお越しいただかないと困るのです」
(中略)
 高取山の裏をまわって鉄拐山の頂上に近づいた時、もうひとりの中年の鉄道員が一行を待ちうけていて、大声を出しながら軍勢の前へとび出し、手を拡げた。
 「待ってください。わたしは神戸電鉄の宣伝課員です。やっぱりここで待っていてよかった。山陽電鉄にたぼらかされたのですね。ここはひよどり越ではありません。にせのひよどり越なのです。わが社の沿線にあるひよどり越こそ、本家ひよどり越であり、元祖ひよどり越なのです」
 「あっ。両方とも吐かしちまいやがった」山陽電鉄が地だんだを踏んだ。「今、あそこから先生がたをおつれしたところだ。あんな平坦な坂道、なにがひよどり越だ」
義経駒つなぎの松(根のみ残っている) 「だまれ。こんな(註 平家軍の西端の)ところから攻めたのでは、中央突破、敵陣分断の意味がなくなるじゃないか」神戸電鉄が叫び返した。「あっちはわが社のハイキング・コースになっているんだ。『源平ハイキング・コース』だ。来てもらわないと宣伝した甲斐がない。義経駒つなぎの松だってある」 (註 写真左、今は根だけが残っている)
 「そんなものは日本国中どこにでもある。こっちには神戸市が昭和二十九年に建てた『史跡ひよどり越』の石碑もあるんだぞ。あれがなによりの証拠だ。ねえ。そうでしょう先生。ハイキング・コースになるような道がひよどり越であるわけがないじゃありませんか」山陽電鉄が馬上の義経を見あげ、同意を促した。
 「あっ。せ、先生。先生」神戸電鉄があわてて駆け寄り、義経に訴えた。「何よりも、ここにはひよどり越などという地名はついていないのですよ」
 「いや。ここは昔、標取越といった」土地の古老が出てきてそういった。「それに『源平盛衰記』には、一の谷の上、鉢伏磯の道というところにうち登り、はるかに谷を見おろせばという一節もある」
 「あんな『源平盛衰記』など、まったくあてにならん」郷土史家が出てきて喋りはじめた。「さして重要でもない須磨などへ攻めこんでも、奇襲の意味がない。これはやはり、ひよどり越から敵陣中央を攻めたのじゃろう」
(中略)
 「おい弁慶。『吾妻鏡』ではどうなっているか知らぬか」(中略)
 「あれには、場所は明示してございません」と弁慶が答えた。
(中略)
 「吉川英治先生の『新・平家物語』はどうだ」
 「あれによればさっきの、なだらかな方のひよどり越を通ったことになっていますな。吉川先生、逆落としではなく坂落としと、うまくごまかされていますが」
・・・

山田町内の義経進軍路(鵯越・鵯越別道、藍那道、熊谷道) (地図)

鵯越道山田町内で義経軍は、鵯越、藍那道、熊谷道を進軍したと推測されている。

三草山で平家軍を撃破した義経軍がどのようなルートで山田に達したかについては諸説あるが、2月6日に藍那に到着したことは諸本、諸説ほぼ一致していてほぼ史実と認めて良いようである(*26)。その藍那の「相談ヶ辻」 で、義経は軍議を行った結果、直進して鵯越に向ったのか、西に折れて白川を経由して一の谷に向ったのか、あるいは熊谷直実(解説)を一の谷に向かわせて自身は鵯越に向ったのかについても諸説分れている。

三草山から藍那までのルートが淡河から東下経由であれば、地図でオレンジで示している藍那道を南下したのであろうし、小野−三木経由ならば、赤で示した(街道の名前の)鵯越を進んできたことになる。

また、「相談ヶ辻」の軍議後のルートは、(街道の名前の)鵯越を更に(地名の)鵯越に向って進んだことになるし、一の谷に向ったのなら青で示した熊谷道を進んだことになる。また藍那よりさらに南に進んだ高尾山南側の蛙岩から西へ折れる街道も熊谷道と言われているが、これは高尾山まで来た義経が戦況を知って急遽一の谷へルートを変えたと言う説と、熊谷直実が抜け駆けの功名を狙って合戦前夜密かに一の谷に向ったという説がある。いずれにしても熊谷道を進んだのが義経であるならば、熊谷道ではなく義経道ということになる。

なぜ奇襲は成功したか

圧倒的な兵力の差(平家軍が源氏軍の2〜10倍)、かつ、平家にとっては勝手知ったる兵庫の地であるのに対して、一部近畿の軍勢も含まれるものの東国を根拠地とする源氏の不利は否めない。

奇襲が平家の虚をついた想定外の出来事だったから、たった数10〜300騎程度(義経が鵯越まで率いていた軍勢)の奇襲に平家が対応できなかったのは間違いない。では、なぜ「全く想定外」だったか?

吉川英治の「新・平家物語」では、後白河法王(解説)からの偽りの和平の使いを真に受けてしまった平家軍の油断を大きな要因として挙げている。平家の中でも鵯越からの攻撃に備えていた武将もいたが後白河法王の院宣(解説)にだまされてしまったと解釈している。実際、福原を根拠地とし山田の事情にも詳しかった平家としては、少なくとも伊丹・宝塚方面から有馬経由で鵯越に軍が出てくることは十分予想できただろう。確かに後白河法王の謀略が成果をあげた可能性は充分ある。

一方、司馬遼太郎の「義経」では、以下の2点を挙げている。まず第1に12世紀初頭に軍事集団である武士が起こって1世紀も経たないこの時代に、義経を除いては「奇襲」という発想自体がなかった。第2に当時、馬は戦闘用の戦車代わりの乗り物であったのを、義経は軍用トラック代わりに使い、平家方の予想もつかないスピードで軍隊を移動させたために三草山でも鵯越でも気がついたときにはそこに義経軍がいたという状況だった。(この状況は屋島の合戦においても再現される)

当時の戦闘といえば一騎討ちであり、いくつ首を取ったかが戦績であった。戦略といえば今の運動会の騎馬戦と同様、戦場の中で馬を乗りこなし仲間とともに相手をどう取り囲むかと言った程度だったのだろうか。従って、京で忽然として消え、降って沸いたようにいきなり頭上の山の上から現れた義経軍は全くの想定外であり、平家としては正に動転してしまったのかもしれない。

かろうじて平家軍は、京から丹波路経由で源氏軍が平家軍の西の木戸口である一の谷西側に廻りこむ可能性を考慮して三草山に部隊を配置したが、義経軍のあまりの速さに敵の接近を知るまもなく敗れてしまう。この後、義経は実際に土肥実平に部隊の大半を預けて一の谷に向かわせるという陽動作戦を取ったことが義経の奇襲を更に効果的なものにした可能性もある。

司馬遼太郎が言っているように、物心つかない頃に鞍馬に送り込まれ当時の武士のエリート教育を受けられなかった軍事の天才(政治的には幼児並)の義経だからこその成功という考え方には非常に共感できるものがある。

大迂回ルートと三草山の謎

以上、筒井康隆と司馬遼太郎の助けを借りて、一の谷の合戦、鵯越のさか落しの謎について書き記してみたが、相変わらず以下の疑問が頭を離れない。

最近、これらの謎に対するヒントを与えてくれる(そして平家物語のシナリオを大幅に覆す)記述を「つくはら」(*32)に見つけた。(「つくはら」は呑吐ダムによって水没する衝原とその周辺の記録を残すために神戸市教育委員会が公刊した実証性の高い書)

その趣旨は、

としている。

この説からすれば、京都から一の谷または鵯越へ向かうルートは、「京都−亀岡−猪名川(三草山)−宝塚・三田・有馬(湯山)方面−山田荘−一の谷または鵯越」あるいは「京都−高槻−池田−宝塚・三田・有馬(湯山)方面−山田荘−一の谷または鵯越」となり、距離的にもかなり短く、平家が防御線を引いていた理由もスッキリする。鷲尾三郎がもし実在だったとしても、この説との矛盾はない。・・・ということで、私的にはこの説に一番納得している。

(参考)このページへのリンクページ

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