渡辺啓助の部屋(本館)



渡辺啓助(わたなべ・けいすけ)

1901年(明治34年)生まれ。

本名圭介。水戸中(現水戸高)卒、青山学院高等学部(現青学大)英文科を経て、九州帝大法文学部史学科入学(西洋史専攻)。昭和5年卒。主として九州で教員をつとめ、1937年東京都に移り、推理作家として創作に専念。

1929年(昭和4年)処女作『偽眼のマドンナ』発表。1942年当時大本営の指令にもとづき、新青年(博文館)の派遣臨時記者として、美川きよ(女流作家)と共に、蒙古のオルドス地帯を視察する機会を与えられた。『オルドスの鷹』は直木賞候補作品。

1961年、日本探偵作家クラブ(現日本推理作家教会)の第4代会長に推される。

代表作として『偽眼のマドンナ』『聖悪魔』『決闘記』『島』『海陸空のなぞ』『オルドスの鷹』などがある。

晩年は鴉のみを題材に絵筆をふるい、また『鴉の会』を主宰する。

2002年(平成14年)101歳で永眠。
『鴉――誰でも一度は鴉だった』

1985年に山手書房より刊行されたエッセイ画集『鴉――誰でも一度は鴉だった』より、エッセイ&挿画を順次掲載してゆきます。

その他の絵画作品と併せてどうぞ。

【目次】

本館
 壱之巻    誰でも一度は鴉だった
 弐之巻    アラン・ポーの長詩『大鴉』
 参之巻    黒の内部に秘められた美
 四之巻    ゴッホの傑作「鴉の居る麦畑」
 五之巻    日本にみる鴉信仰
 六之巻    倫敦塔に住む六羽の鴉
 七之巻    ミシュレが見かけた鴉教授
 八之巻    死の画家が尊敬する相棒
 九之巻    ノアの方舟の水先案内
 拾之巻    神にも屈しなかった鴉のヴィセンテ

第一別館
 拾壱之巻  鴉の黒への偏愛
 拾弐之巻  黒い妖精を拾った鴉
 拾参之巻  鴉にだまされた美女
 拾四之巻  名作『月山』の人間鴉
 拾五之巻  『楢山節考』の鴉の群れ



誰でも一度は鴉だった

あの声は寂寥を食べて生きてきたのだ

誰でも一度は鴉だったことがあるのだ

  これは先年病死した村上昭夫の詩集、『動物哀歌』に入っている「鴉」という詩の冒頭部分である。
  前世が蛇であったとか、狐、狸、犬、熊であったとかいうよりも、「鴉であったのだ」とハッキリ宣言されると、奇妙なようだが、なんとなく納得してしまう。現実的な感じがするのだ。
  なぜそう感じるのだろう?
  おそらく何千年何万年も前から、鴉と人間との雑居生活が続いているからであろう。しかも、鴉は絶対に人間のペットにはなりたがらない。犬、猫のように人間の好みに迎合しようともしない。卑屈なご機嫌とりはしない。自由な生き方を好む。
  しかし、人間好きで人間との雑居生活を一番愛しているらしい。
  しかも知能指数は全動物を通して抜群であり、生命力が強く、平均寿命は人間の二倍はたしかだという。
  そうなると人間の前世は鴉であったといわれても人間側としてはさして抵抗はないような気がするのだが、そのなかに嬉しいような悲しいような、いろんな気持ちが混じりあった現実性リアリティーがある。
 『動物哀歌』の著者たる村上昭夫を知ったのは十年以上も前のことになるが、それは詩人村野四郎を通してであった。私は一回だけ、「詩の教室」のお手伝いをすることになった。村野四郎といえば、当時詩壇では大御所的存在で、村上昭夫の第一詩集『動物哀歌』に推薦の序文を書いている。
 「私はこの詩集に、啄木より、賢治よりもっと心霊的で、しかも造形的な文学を見る」
  私は忽ち、この『動物哀歌』に熱中した。動物哀歌は同時に人間哀歌でもあるのだ。頁をめくっているうちに「鴉」に突き当ったのである。

誰でも一度は鴉だったことがあるのだ

  この一行は深く私の胸に突きささった。より深い所から噴きあげてくる哀しみの風が、ある爽やかさを伴って私を掠めていった感じであった。
 『動物哀歌』と同じ頃読んだのが『ロマネスク彫刻』(アンリ・フォション著、辻佐保子訳)である。その第八章「変身」を読んでゆくと次のようにしるされてあった。

私たちは草木や小鳥から隔てられてはいない。なぜなら、かつてはそのいずれかであったのであり、やがてはその一方になるであろうから。

  更に言う。

――私たちは自然のすべてに参与しており、不安定な人間、あるいは束の間の均衡を保つ人間は、何かの始まりというよりは、単なる継続にすぎないことになる。

  つまり、人間は前世では鴉であったかもしれないし、来世には鴉になるかもしれない、という因縁である。
  どうも、鴉は人間にとって一種の身内みうちなのであろう。一般に鴉なんて人間の意識の中ではもっとも遠い存在のようでありながら、実はこの密着度が濃厚な鳥なのである。
  好き嫌いはともかくとして、人間の居る所には必ず鴉が同居しているし、鴉の居ない所には人間の姿も見当らないという現象は否定しがたい事実である。

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アラン・ポーの長詩『大鴉』

  たとえば世界的に有名なアラン・ポーの長詩『大鴉レエベン』にしても、最初は鴉ではなく鸚鵡おうむを使うつもりであったらしいが、それが鴉を主題にすることに改められた、と伝えられている。
  これはポーの愛妻レレアにささげられた幻想的な華麗妖美な詩であるために、最初は美しい鸚鵡を思いついたのかもしれないが、しかし大鴉レエベンに代えたのは、当然そうあるべきであった。黒い大鴉を配することによってこの詩の真価が鮮烈に発揮され、その心霊的な怪奇美が、そくそくとして胸に迫るのである。
  あの怪奇な大鴉の啼き声 never more(ねばアもア)の繰り返しリフレインは和訳するにはもったいないほど読むものの耳を捉えて放さない現実味リアリティがあった。
  あの場合、深夜の鴉はきっとあんな風にねばアもア、ねばアもアと不気味に啼いたに違いない、と思いこんでしまうのだ。

  鴉に限ったことではないが、鳥の啼き声など聞くものの立場――その環境風土や心理的状況によっていろいろと違ってくる。
  中学校に入った当初(13歳頃)、私は英語で鴉の啼き声を学んだ。すなわちコオカドルドウといって啼くのだそうだ。それを日本語に訳すと「結局、どうでもいい」という意味になると上級生から教えてもらった。   特派記者として私が北京に行った際、北京の鴉はどういうふうに啼くかを聞かされた。
  光棍児好遇クワンゴンルハオグオ――と啼くのだと言う。
  北京語を和訳すると「風来坊は気楽さ」という意味になるらしい。
  鎌倉の扇ヶ谷に住んでいる「鴉の会」会員の話によると、あの辺にはまだ開発されていない森や林が多く、鴉のベッドタウンになっていて鴉たちの会話を耳にすることは珍しくない。
  その用語の二、三を記すると、
「クワッテニシヤガレ」(日本語)
「クワ・セヴ」(やあ、きみか?――フランス語)
「アイ・ドント・ノウ」(英語)
  といったたぐいである。どこまで信じていいか戸惑うけれど、あの会員の話が嘘っぱちとは思えない。

  私の住んでいる田園調布の近くに宝来という名のみの小公園がある。このへんはかつては物静かな高級住宅地と伝えられたが、今では少しずつ何かを失いつつあるかのごとく見え、どことなくうらさびしいたたずまいの緑地帯になってしまった。やはりどうしようもない時代の推移であろうか。その一画に辛うじて残っているのが宝来公園である。さすがにここだと木立ちの陰も深い。私は散歩がてらこの公園の鴉を見るために時々やってくる。
  このへんでは鴉をまのあたり見ようとすれば宝来公園ぐらいしかないのかも知れない。
  その公園と地続きのアパートに住んでいる知人から、鴉の停まる特定の樹があると前々から聞かされていた。しかし、いつもとは限らない。全然鴉の姿など見かけず、野良猫ばかりが足もとにまといつく時だってあるという。その友人は、私の期待が大きすぎることを恐れてか、用心深くことわりを言っていた。
  ところが私が宝来公園に行くときは、必ずといっていいくらい、鴉が来て待ち合わせるようなぐあいになるのだ。
「先生のことをきっと、鴉の方じゃ、自分の身内だと思ってるんじゃないかしら?」
  と私の知人は真顔になって樹上を見あげる。
「それは誤解だろうが、誤解にしても嬉しい誤解だ」
  こちらもこうなると、多少親近感をおぼえるのもやむを得ない。
「今、鴉が鳴いたろう、――ほら、くゥるゥるゥあゥあゥゥって」
  友人は聴耳をたてて、私の啼き方を真似して、鴉の啼き声を合わせようと試みた。
  私はシートン動物記の受け売りをして言った。
「今の鴉語を日本語に訳すと『私はあなたを愛します』ということになるらしいよ」
「嘘ッ」
  私の若い知人は疑わしげに眉をひそめて私をなじった。
「いや、決して嘘じゃない――」
  私はむしろ昂然として答えた。
「しかし、鴉に愛されてるからって、悪のりしちゃいけない。じゃ、あの鴉を飼ってみようかなどという安易な気持ちは絶対に起こさないことだ」
  要するに、鴉とのコミュニケーションは、受けとり側としての人間の思考とうまく噛み合うかどうかは、とても面白いだけに難しいことでもある。人間側としても大いに勉強しなければならない時点に来ているようだ。

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黒の内部に秘められた美

  カラスは黒いから嫌いだ、というひとが非常に多い。しかし、仙崖禅師の『雪中烏』の画賛に、

しら鷺は有りやなしと見え分かぬ
雪にからすの色はゆるかな

  と歌っているくらいで、黒のよさなるものを充分認めているわけだ。
  一般人の間にも黒好きがだんだん多くなりつつあることは認められるけれど、黒嫌いは数において圧倒的に多い。
  なぜ黒が嫌いなのか?
  黒は不吉な色だから、と至極簡単な答えが返ってくる。黒の嫌いな人には単純思考の人が多い。黒は葬式の色だ。腹黒いやつ、白黒を争う、ブラック・リスト――すべて悪いことは黒で片づけたがる傾向は、昔からずうっと続いていて今日でもあとを絶たない。しかし、それほど黒って悪い色なのであろうか。

きずがつくほどつめっておくれ、それを惚気のろけのタネにする
きずがつくほど抓ってみたが、色が黒くてわからない

  この江戸時代末期から流行はやりだした都々逸の中にも黒がユーモアたっぷり唄われているが、しかし嫌悪感とはいいがたいほの暖かい親近感が底流となっていることは認めずにはいられない。
  黒色に対する極めて単純な皮相な見方から黒い鴉を毛嫌いすることになったのであろうが、思うに黒ほど多種多様な美を内蔵する色はないのである。
  黒の内部に秘められた美の質量はたいへんなものだ。
  たとえば鴉の濡羽ぬれば色などといって、昔のひとだって、それなりにみとめていたではないか。じっと鴉をみていると、黒はあらゆる色彩の総和であることがおのずからわかる。世の中の多彩カラフルなものをすべてひっくるめて黒い色の中に呑みこんでしまって平然とそらとぼけているというのが鴉の実態ではなかろうか。
  真っ黒でありながら、時には翡翠ひすい色に、あるいは虹色に、かと思うと、ちらっと玉虫色をきらめかせたりする瞬間があって、一筋なわでゆかない相手であることは重々心得ておかねばならない。
  魔鳥でもあり、凶鳥でもあり、神の御使みつかいでもあり、霊鳥でもあり、鴉という平凡な鳥が所に応じてどんな役でも演出できるというのには、まったく度肝どぎもをぬかれてしまう。

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ゴッホの傑作「鴉の居る麦畑」

  それにつけても思い出すのはゴッホの「鴉の居る麦畑」という絵である。
  ある画家がその絵を見たときの話をしてくれた。彼がアムステルダム市の市立美術館を訪れたのは20年くらい前になるらしい。そこにはゴッホの作品だけを見せる何室かがあって、その一つの部屋で彼は釘づけになった。館内はわりに閑散で見物客はちらほら見える程度で、ゆっくりと見て廻れたが、ゴッホの「鴉の居る麦畑」の前ではギクッとなった。あの絵ほど強い衝撃を受けたものはこれまでになかった。
  ゴッホの最後の、そして最高の傑作であるこの「鴉の居る麦畑」は、誰でも見た瞬間思わずギョッとするような強烈な何かをふくんでいた。ゴッホ自身を思い切り画面に叩きつけたような鋭いタッチ、空と麦畑と鴉とがみごとなバランスをとりながらもエネルギッシュにからみあってるその構図は、天に向かって何かを激しく告発しているかのように見える。この作品についての解説は沢山あるが、ほとんど誰もが「鴉」のことを「死の鳥」として強調している。
 「鴉の居る麦畑」のかかげてあるその部屋には、いたって観覧者は少なく、たった一人だけいた。
  それも女性でまだ30代の美しい健康そうな婦人だった。
  彼女は椅子にまたがって(というのは椅子が逆に置いてあったから)椅子の背当てに自分の頤をのっけて、じっとその絵を見つめていた。
  これは私の友人の目撃談であって、つまりまた聞きであるが、作品を見つめている女のうしろ姿が、そのまま浮かび上がってくるような気がしてならなかった。
  友人が市立美術館のほかの部屋部屋を見てまわって、もう一度ゴッホの部屋に戻ってきてみると、やっぱり先刻の婦人は、同じ場所で同じ恰好で飽くこともなく、「鴉の居る麦畑」を見つめつづけていたという。よっぽどこの作品に魅入られたとしか思われない。
  彼女はこの名画を前にしていったい何を考えこんでいるんだろう?
  この絵が描かれたのは1890年、そしてそれから二か月もたたないのに、ゴッホは7月27日自殺をとげている。その日、彼はキャンバスを持たずにオーヴェールの丘にのぼっていった。そこが「鴉の居る麦畑」の現場であった。黄色くうねる麦畑を見つめていたが、しばらくして彼はピストルを取り出して、自分の胸へ撃ちこんだのである。
  それ故、黒い鳥の鴉を死の鳥と呼ぶ呪文的発想と安易につながってしまう――実際には鴉と、ゴッホの死とは何の関係もないはずである。
  むしろ鴉を描くことによって、オーヴェールの丘の麦畑風景はゴッホの不朽の名作となったのである。鴉はゴッホを死に誘ったのではなく、反対に名作たらしむべく力をゴッホに貸したと見るべきではなかろうか。
  この絵を飽くこともなく長時間凝視していたあの婦人の心のうちは知るべくもないが、あの絵の一見苛烈な印象に彼女が立ち去りがたいほど打たれたのは絶望感ではなく、ゴッホの純粋な力強さに魅入られ、恍惚としていたのではないか――そう私の友人は結論したのである。
  そう解釈するほうが、ゴッホに対する敬意と愛情のおのずからなる現わし方であると信じていい。
  ゴッホの悲劇的な死は、ことさらに魔鳥のせいなどにすべきでなく、もっと厳粛な事実として見るほうが正しい。
  ゴッホはむしろ鴉が好きだったのではあるまいか。

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日本にみる鴉信仰

  日本人は、たいていは鴉をいやらしい不吉な鳥とみているらしいが、それを否定する例も珍しくない。
  たとえば八咫烏やたがらすである。
  八咫とは大きなという意味だから八咫烏は大鴉であって、これが日本の古代史によると、神武天皇東征に道案内をつとめた有名な鴉である。神武帝が熊野から大和へ進攻するに当って、非常にけわしい路で進退きわまった時に、その道案内役に鴉が神の使として派遣されたという伝説にもとづいている――これは悪鳥どころか非常にくらいが上って神の使としてあがめられている。現在でもこの古俗がそのまま保存されて今日に及んでいる。紀州熊野権現ごんげんの鴉がそれである。
  毎年正月の7日には、厳粛な神事としてこの鴉を組み合わせたぼん字を彫りこんだ木版刷りの行事がある。なかなか美しい出来栄えを見せ、これを午王符といっていかにも霊験があらたかげなお守りであり、一向に人気は衰えていない。なにしろ、悪魔退散、陰陽和合のキキメがあるというのだから、おろそかにはできないわけである――ここでは鴉の悪口を言うことはタブーである。
  これに類する土俗信仰は熊野にかぎったことではない。日本のそれぞれの集落においても見られる慣習であって、手近なところでは東京都にも見うけられる。府中市の暗闇くらやみ祭がそれであろう。
  大国魂神社の暗闇祭では熊野とは違って、黒い団扇うちわを配布するところが特色である。まやかしのビニールの団扇ではなく骨太な竹でつくってあり、がっしりしていて全面に大きな黒い鴉を木版で描きだして、なかなか雅味ゆたかで、まさに暗闇祭にふさわしい。
  祭神大国魂は大国主命の系譜に属しその神は、くらやみが好きらしく、いわゆる宵祭で一年一回初夏の夜から始まり徹宵神事(つまり神霊降誕の儀)が行われる。一切の燈火が消されて、暗中の手さぐり的行事であることが、いかにも土俗信仰の体臭を感じさせる。
  鴉は昼間の鳥であり夜行性ではないが、大国魂の御使みつかいであるからには深夜といえど羽ばたかざるを得ないというのもユーモラスである。鴉の団扇の裏側には、六所宮と黒地に黒文字で鮮やかにしるされてある。
六所宮とは何か――六か所の宮を意味し、それぞれに六人の女性が住んでいて、いずれも祭神大国魂命の愛人たちである。ひとつひとつ六所宮を訪ねてまわると、黎明近くになってしまう――暗闇祭とはつまりエロスの祭りでもあるわけで、その神の御使みつかいである鴉たちもそれなりに気くばりをしなければならない。鴉の勝手でしょとばかり取りすましていられない次第である。
  この頃では暗闇祭は事実上、くらやみでなく、まばゆいばかりの電灯照明の中でしか行われなくなった。風紀上の問題を無視できなくなったからであろう。
  暗闇くらやみ祭という呼び方は鴉の黒とも関連して、ミステリアスでファンタスチックで土俗的な情感が湛えられていて、捨てがたい気もするのだが……。

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倫敦塔に住む六羽の鴉

  では、外国ではどうなっているのだろうか。
  黒い鳥、鴉についての好き嫌いは、どこの国だってあるに違いないが、常に嫌われているばかりとはかぎらない。
  日本に於て鴉はある地域では神聖視されていると同様、英国でも、とりわけロンドンの鴉は、その点で非常に有名である。
  日本の熊野や府中の比ではない。ロンドンでは守護神として最高の地位を占めている。
  ロンドン塔には六羽の鴉が常駐していて、この六羽がいなくなると英国が滅びるという。この伝説がいつ頃から伝えられたか、その起源は明瞭ではないが、おそらく17世紀チャールズ2世の頃からだろうとする説が有力である。
  その伝説にもとづく儀礼が今でも型通り守られている。
  夏目漱石がロンドン塔を見物したのは明治33年10月31日と彼の日記にしるされてある。漱石の『倫敦塔ロンドン』を読むと、彼もまた伝説の鳥を目撃している。
  塔上では飛んでくるのや、樹枝の内にとまっているのを数えて三羽までは見えているが、実際には五羽居るとかたわらの見物客が断定しているのを耳にしている。漱石は不吉な鳥としての印象を受けたらしい書き方をしているのも、なりゆき上やむを得ないことだろう。ロンドン塔そのものが血なまぐさい歴史でぎっしり詰まっているからである。したがって死の鳥的印象が強調されるわけである。
  当時のロンドン案内記には五羽いるとされている。ところが現実は六羽が常駐している。いつ、どうして一羽よけいいるのか、その増員になった理由を知りたいと思う。
  彼らはいわば公務員なのであって、ちゃんと政府からお手当てをもらっている。一羽が病死すると、法令の定めによってすぐ補充されるようになっている。漱石と違って、五羽か六羽になっているのは、一羽は補欠であると考えざるを得ない。
  鴉でも公務員である以上、ちゃんと名前がついている。
  ジェームズ、マリー、ヘクトラ、グロック、カーラ、ジョージ。
  しかし、もうひとつ変わっているのは漱石当時は自由に空を飛びまわっていたのに、現在の鴉は飛ばない。飛べないのだ――主翼の一部が切りとられてしまったからである。守護神扱いしているくせにその羽根を切ってしまう人間の得手勝手えてかってさには、人間のほうが鴉族よりも下等かもしれないと思わざるを得ない。
  これらのことは私の知人がロンドン環境庁に勤めているので問いあわせてわかったことだが、そのレポートには「鴉たちは今のところ、結構おおらかに楽しげに生活しているからご心配なく。もっと詳しいことを知りたければ六羽のうち一番頭の冴えているウェルズ出身のジェームズ・クロウ君に問いあわせてほしい」と書き添えてあった。
  以上のような次第で、鴉については善悪両様のイメージを人間の方で勝手につくりだして、霊鳥にして尊敬したり、魔鳥にして呪ってみたりしているが、鴉の方ではどっちにしろあまりこだわらない。
  とにかく、わかっていることは鴉は大昔から人間との雑居生活を好む不思議な鳥だ、ということである。
  何をいわれても、あっけらかんとして、おおらかである。楽天家で性格的には「ネアカ」なのである。
  どうやら、鴉の方が役者が一枚上ではないか、と人間の私のほうが頭を抱えこんでしまうことも稀ではない。

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ミシュレが見かけた鴉教授

  ナント(フランス西部の都市)で博物学者ジュール・ミシュレは、面白い鴉を見かけたことをいとも懐かしげに思いだしながら書いている。
  ミシュレは「ナントの街頭、ある横丁の門口で、毎日一羽の鴉を見ていた」それは半ば囚われの身で翼を短く切られていた。その不自由さを慰めるには、大きな犬どもにいたずらをして気をまぎらすことだった。小犬などは大目に見て相手にしなかった。しかし、この囚われの鴉が見のがさないのは、体格のみごとな逞しい大犬にかぎられていた。そっとやりすごしておいて、あとから気づかれないような巧みさでさっと大犬の背中に飛び乗り、がっしりした黒いくちばしで、二度ほどしたたかに突っつくのであった、不意を突かれた猛犬は、きゃんきゃん鳴きながら逃げ去った。すると、「鴉は満足し、静かに重々しく、自分の哨所に戻る。この囚われのすがたが、そんないたずらをしている鳥とは、どうしても考えられなかった」(ミシュレ博物誌「鳥」)
  それからもうひとことミシュレは言う。
  「諸君はパリ植物園でヒゲワシと鴉との奇妙な対面において、大きな者に対する小さな者、物質に対する精神の優位を見ることが出来るだろう。きわめて器用で、猛禽もうきんのもっとも巧者な動物である鴉は黒衣服を着たところも学校教師然としているが、彼の粗暴な同囚たるヒゲワシを文明開化にみちびこうと努力している。彼がどんな風にして、ヒゲワシに遊戯を教え、彼の本職のさまざまな芸当によって、いわばヒューマナイズ(教化)し、その荒っぽい粗野な本性を洗練するかを観察するのは面白い」(ミシュレ博物誌「鳥」第一部)
  しかし、この光景を鴉はそう安っぽく見せない。見物人がぱらぱらだと、鴉はやりたがらない。鴉はちゃんと見物人の数をかぞえていて、ある程度の人員数に達してから、やおら芸の仕込みぶりを演出する気になるらしい。
  もったいぶるだけあって、ヒゲワシへの仕込みぶりはさすがと感嘆させるものがある。実際鴉は観衆から尊敬さえ要求する自信満々の教師的姿勢を持している。
  鴉は自分よりはるかに体格の大きいヒゲワシに対して、「むりに押しつける最も注目すべき遊戯は、自分が片端を持っている棒の他の端をヒゲワシに持たせることである。強さと弱さとの間に行われるこの見せかけの闘争、この仮装された平等は、粗野な田舎者をおとなしくさせるには持ってこいである。田舎者のヒゲワシはこんなことには気乗りがしないが、しかし根気づよくせがまれて譲歩し、しまいには田舎者らしい人のよさもあって、この相談に乗る結果になる(前述書第一部猛禽)
  ヒゲワシは最初の一撃で相手を殺してしまいそうな曲がった鉄のくちばし、無敵不敗の鍵爪とで代表され、見るも悲しい凶悪な面構えである。このヒゲワシを前にして鴉は少しも動揺しない。アッケラカンとして、そ知らぬ顔である。粗大なヒゲワシの図体の前で、精神力では、はるかにたちまさっているとの自信が鴉に充ちているからだ。
  鴉は気軽に、行ったり、来たり、ぐるりと廻って見せたり、あっという間に相手のくちばしの下にある餌食を取り上げてみたりする。相手は怒りだすが、時すでにおそく彼よりも敏捷で身がるな黒い調教師の手にかかると、ヒゲワシも、されるがままになるしかない。そうなると、鴉はゆっくりと手順を追って芸を仕込みはじめるのだ。

  この場合、教師はやっぱり鴉でなければさまにならない。適格者はやっぱり鴉だけだ。ほかに鳥類をもってきては現実性リアリティを持たなくなるから不思議である。
  そして、教師の服は黒色でなければならない。黒という色はある種のきびしさと威厳とをもっている。ほかのどんな色をもってきても、これだけの調和は出しきれないに違いない。
  しかも彼らは、ロンドンのも、ナントのも、パリのも、いずれも囚われの身の鴉たちである。不本意な環境の中に置かれていても彼らは絶望もせず、ノイローゼにもかからずそれなりに周囲と順応するすべを心得ていて、上手に遊んでくらしていたようである。おかしいくらい陽気な鴉たちであった。
  今日は鴉啼きが悪いから、誰か死ぬかもしれない、などとボヤク可愛らしい人間がまだ世間にはかなり居るらしい。
  おそらくその人たちは純情でありながら、まだ鴉の実体をよく知らない素朴な連中であろう。迷信まかせにしないで、他人の眼でなく自分の眼で、はっきりとこのミステリアスな鴉の正体を追及したいものである。
  そういう迷信深い人たちだって、区役所や市役所で5時の時報を伝えるとき、「鴉といっしょに帰りましょう」というあのメロディを耳にすると、夕焼けの空をよこぎって、ねぐらに帰る鴉たちを思いうかべて、なにかしら哀愁めいたなつかしさがふっと湧いてくるのを禁じ得ないであろう。
  どうして、そんな気持ちをそそられるのであろうか。
  では、「死の画家」といわれるユーゴスラビアのティスニカルと、彼の大好きな鴉との係わりあいについて考えてみよう。

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死の画家が尊敬する相棒

  非常に風変わりなその画集には『死の画家ティスニカル』という題名がついている。その画集の外箱には一羽の鴉が画面いっぱいに、はみだすばかりの大きさで描かれていて、何気なく見た瞬間、ハッとして後退あとずさりしたいほど不気味な威圧感があふれているのだ。これが死の画家が愛したという死の鳥かしらと早合点しがちである。
  ヨージエ・ティスニカルは一口で言えば稀に見る異常人である。
  しかし、彼くらいやさしい人間はめったに見当らないことも確かである。彼は言ってる「平和に暮らしなさい。何となれば人生は愛以外のことをするには余りにも短すぎるから」。
  この画集は、本人が出したわけではなく、美術研究家のネボイシア・トマシェヴィッチがいやがるティスニカルを辛抱強く何べんも何べんも説得して、やっと彼の承認を得たものである。
  ヨージエ・ティスニカルは学歴は小学校卒だけであり、貧乏人の息子で絵画の素養などはまるでなかった。職業的経歴もただ労働者であり、そのまま軍隊にとられて、その際、野戦病院に配属され、看護卒としての職歴が少しばかりあるだけであった。
  除隊になってユーゴスラビアの生まれ故郷ミスルニエ村に戻ってきた。そこはオーストリアとの国境近く、アルプス山麓地帯の小さな美しい村であった。それが第二次大戦後はすっかり荒廃してしまい、彼の生家も極貧であり彼は途方に暮れた。働き口を何とか探さねばならない。通りかかったスロヴェニ・グラデッツ行きのトラックに発作的にふっと便乗する気になった。手荷物など、ほとんど無きに等しかったけれど、鴉を入れた鳥籠だけは決して手放さなかった。12キロほど離れたスロヴェニ・グラデッツにつくと、トラックを降りて、一晩公園で夜明かしした。
  目的はスロヴェニ・グラデッツ病院で働かせて貰うことだったが、就職のできる自信は毛ほどもなかった。夜が明けると、病院の戸のあくのを待って、すぐ飛びこんだ。
  小学校卒だけの学歴ではどうしようもないのはわかっていたけれど、軍隊で病院勤務の経験のあることを知らせて、やっとのことで採用された。つまり看護人見習いとしてやとわれたのである。下働きのあらゆる辛い仕事――モップの拭き掃除、病室ベッドの整頓、食事時間の配膳係、洗濯から薪割りまで骨身を惜しまず働いた。
  その実直さが買われて、まもなくこれまでの病室勤務から死体解剖部の常勤に移された。そこは病院内で一番寒々としていて、いわゆる見棄てられた死体公示所の一画である。死体公示所に接して剖検室があり、そこが彼の仕事場だった。
  医師の指示にしたがって死体を解剖し、さらに復元するため、縫合、洗浄など、いろいろと気配りのる仕事をやり遂げねばならない。でき上ったら死体公示所へ死体を運び、遺族に引き渡すという段どりである。夜を徹してやっても、しらじら明けにかかる頃にやっと死体化粧が終るという重労働である。
  ヨージエ・ティスニカルは、このようにして25年間約8千体の死者をとり扱ってきたのだ。
  彼は言う。
「全部完了してから死体は黒い布を掛けます。なぜ黒なのかとお思いでしょう。黒は悲しみの色なのです。死者の旗は黒なのです」
  彼が「死の画家」といわれる理由は、8千体にのぼる「死骸」を実際に扱った、いわゆる臨場感覚を持っている人にして、初めて表現可能な絵を描くからである。普通人はちょっと見ただけで、後退あとずさりせずにいられないほど「こわい絵」だ。
  それでいて、その絵がすばらしい傑作だということも分かる――死者との霊的交流が絶えることなく続いていて、生死のコミュニケーションがおのずから画面にしみわたっているからなのであろう。
  そして、異様な色感を湛えた大きな鴉が生死ふたまたかけて行く渡り鴉の貫禄を見せて、彼の油絵にしばしば登場するのは、どういうわけであろうか。
  彼は鴉について、こう言ってる。
「私は鴉を尊敬する。逞しく、やさしく、そうして賢く、その上、恐るべき生命力を持っている。おそらく人間の寿命の2、3倍は長生きするだろう。地球上の生物がみんな死に絶えてしまっても、鴉だけはなお生き続けるであろう」と。
  これらの記述は、すべて「死の画家」をまとめた著者たるトマシェヴィッチが直接、画家ティスニカルからの聞き書きによるものである。それは並大抵の苦労ではなかったらしい。人嫌いで、引込み思案で、会うのは、死体と鴉だけに限られていたといっても言い過ぎにはならないくらい孤独な存在であったティスニカルである。剖検室の夜間勤務者としては、あるいは当然のことかも知れない。
  彼は自分の描いた絵など公開するつもりは全くなかった。彼の絵は、死体とのコミュニケーションであり、死体に対する奉仕として熱意をこめて描いたものであるから、部外者に見せることを嫌い、拒否し続けた。
  この画集を編集したトマシェヴィッチが、彼をユーゴスラビアが生んだ特異な天才画家として世に紹介したいという善意を了解させるために、少なからずヤキモキさせられたにちがいない。
  ティスニカルは人の来訪をとても恐れていた。その最も大きな理由は、自室から絵を持ち出されるかもしれないとの懸念以外にひょっとしたら、籠に入っている鴉をも盗まれやしないだろうかとの危惧だった。
  つまり、死体の絵と鴉はティスニカルにとって、他者の侵入を許さない聖域内に置かるべきものだったから。
  それにしても、ティスニカルのような、毎夜、死体と対面しているような変人が、特に鴉にあれほど執着するというのも、とても解釈にくるしむミステリアスな問題点である。
  強いて考えてみれば、そこが鴉がただの鳥ではない、単なる鳥以上の存在だということに、漠然とではあるが思いいたるのである。
  鴉はどこへ行っても、だれに会っても、それなりに順応し巧みに相手に取り入って親近感を持たせてしまう奇妙な素直すなおさがあるのには、驚きいるよりほかはないのだ。死の画家ティスニカルが怪物であるように彼の飼っている鴉もまた一種の怪物であるに違いない。
  ティスニカルが、解剖された死体を念入りに復元し、化粧をほどこし終って、死体公示所まで運び、遺族の人たちに引き渡してから、自室へ戻って、今度は、今引き渡した死者の姿を描きあげる仕事にとりかかるのである。絵具も市販の製品を使わず、全部自家製の特殊な絵具である点も、すごく変っている。でき上がった絵はティスニカルの人柄が、そのまま滲みだしていて、まことに心霊的であるとでもいうのか、ミステリアスな不気味さにみちている。「死」の交流が鮮やかすぎて一見「怖い絵」である。
  その製作ぶりをじっと見つめているのが彼の大鴉であることを思うと、彼の森閑とした孤独なアトリエにおけるこのふたつの生物の奇妙なからみ合いが、凡人の理解をはるかに超えた不思議な不気味なスリルに裏付けされた「心象風景」として浮かび上ってくるのだ。
  こうして鴉には、ティスニカルにとってはお互に死を見守る相棒として非常に意味深いものが潜在していたのであろう。

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ノアの方舟の水先案内

  旧約聖書の創世記に出てくるノアの方舟はこぶねに乗っていた鴉には、いったいどういう役割が与えられたのであろうか。その鴉の任務は、死を見守るのではなくて、死から脱出することであった。
  ノアの方舟の水先案内パイロットたるあの鴉が居なかったら方舟は死の海から脱出できなかったに違いない。
  おそらくノアの方舟の鴉は世界で一番古い鴉であり、水先案内の開祖だったと見るべきでなかろうか。
  ノアの洪水なんて、もともと伝説であって、信じたくなければ信じなくても結構であるが、とにかく伝説は何らかの事実を核として発達し生み出されたものであるから、人間史の破片をそこここに、宝石のごとくちりばめたものとして受けとっていいのではないか。
  創世記第六章に大洪水のことがしるされてある。世界最初の男女アダムとイヴから始まる人口増加は著しかった。産めよやせよで、地球上を覆ってしまったが、エホバ神は人間を作ったことを、そろそろ後悔しだした(神さまでも後悔するのかなどと余計なことは考えないで)――なにしろ、地上に満ちた人間たちは悪質で手がつけられない、放蕩、姦淫、裏切、殺傷、あらゆる犯罪が日常化してしまっていた。
  そこで神エホバ『いいたまひけるは創造つくりし人を我地わがちおもてより拭去ぬぐいさらん、人よりけもの昆虫はふもの天空そらの鳥にいたるまでほろぼさん、は我これつくりしことをゆればなり。されどノアはエホバののまへにめぐみを得たり』
  こうして、ノアとその一族だけは神の恩寵にあずかって、人類一掃の計画からは除外されることになった。その理由は『ノアは義人ただしきひとにして其世そのよ完全まったきものなりき、ノア、神とともに歩めり』とみなされたからである。
  ノアだけが来るべき大洪水の予告を神から受け、その命令によって避難用の巨大な方舟はこぶねを作ることになった。松材(あるいは糸杉だったとも伝えられている)で方形の巨船を、一切神が示された設計にもとづいて作り、船の内外を瀝青やに(アスファルト)で塗り固めた、導光窓あかりまども設け、船内は三階に仕切られ、各階に頑丈な戸がつくられた。
  その中にノアとその一族が乗り込みあらゆる生物を雌雄めすおす一つがいずつ収容することが許された。そのための食料と水が運びこまれた。
  そのときノアは600歳で、2月17日と記されてある。600歳とは驚くべき高齢である。聖書には「レメク182歳に及びて男の子を生み、その名をノアと名づく、レメクはノアを生みし後595年生存いきながらへて死なり」と書かれてあり、年齢のことなど、今日の感覚でいちいち気にしていたら旧約聖書などは読めない。
  それから、いわゆる40日40夜の集中豪雨が始まるのだ。
 「天の窓」が一せいに開いて、天上に蓄積されてあったありったけの水槽が、ぶちまかれたのである。地表上のありとあらゆる生物は、この大洪水によって全滅した。
  助かったのは、ノアの方舟の中に封じこまれた生物だけだ。
  颶風を伴った豪雨がようやくやんだのはノアの601歳のお正月元旦だった。しかし、水はそのまま50日以上も地表をまんまんと浸していた。水が少しずつ引き始めたのが2月27日という。
  洪水が引き始めたものの、徐々に水位が下がってゆくので甚だもどかしい状況だった。全員生きた心地もしなかったのは当然であるが、こういう場合、もっともよく働くのが鴉であると決まっていた。彼は絶えずあかり窓から看視を続け、減水状況についてあれこれと判断し、その判断に即して方舟の周辺を飛びまわった。
  第一回目の偵察は徒労に終った。
  第二回目には鴉はより広範囲にわたって飛翔をくりかえしたがやっぱりまんまんたる水面を見るだけであった。しかし潮流の状態からみてアララット山(ソ連の国境に接するトルコ東部の高峰5165メートル)あたりじゃないかとの報告が鴉によって伝えられた。
  第三回目は燕が偵察に赴いたが、これは新しい期待をもたらすような報告は全く得られなかった。
  最後の出番は、やっぱり鴉でなくては、とノアは考え直して鴉に依頼した。
  彼はいつもよりかなり長く飛んでいたが、やがて、はるか遠い空のかなたから船上のノアによびかけ、ガアガアガアと頗る威勢のいい啼き声でノアに陸地発見の報告をもたらしたのである。
  それっきり鴉は方舟には戻ってこなかった。水先案内人としての鴉の任務はこれで完了したのだ。窮屈で暗い方舟なんか見棄てたのは、鴉として当然のことであった。この鴉によって、干いた陸地を見つけだすことができ、やっと「死」よりの脱出に成功したわけである。

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神にも屈しなかった鴉のヴィセンテ

  ノアの方舟について、旧約の創世記が示す物語とは解釈が大変違った風変わりな話がある。
  それはポルトガルの作家ミゲル・トルガという、日本ではあまり知られていない人物の伝えた話で、なるほど、こういう見方もあるな――と久しぶりに感動した。
彼の短編集の中に「鴉のヴィセンテ」という作品がる。
  ノアの方舟に収容された鴉の名は「ヴィセンテ」であり、彼はあまり気乗りしないような、むしろはなはだ不機嫌な面構つらがまえを見せて方舟の闇の中に閉じこめられていた。
  書きだしからして、既に創世記にしるされた鴉とは、だいぶ趣の違った鴉になっているのである。
  ヴィセンテは不平満々だった。「なんだって、われわれ畜生どもまで、地表から一掃されて全滅しなければならないんだ」
  人間の罪悪のため、人間自身が懲罪されるのは仕方がないにしても、他の動物たちまでが人間のそば杖をくって滅ぼされるなんてバカバカしい。人間たちの姦淫の罪まで背負いこむのは、とても我慢ができないと考えヴィセンテはすこぶる憂鬱だった。
  颶風と豪雨のひしめき合う闇夜の中で方舟に封じこめられていた畜生たちは言葉を発する気力もなくただ石の団塊かたまりのように、黙りこんでいた。
  ヴィセンテはもうこれ以上の屈辱には堪えられなかった。
  風雨の荒い息吹(いぶき)がほんのわずか小休止するかのごとく小止みになるときがあった。
  その瞬間をつかんで、鴉のヴィセンテは脱出を決行した。
  この思いがけないヴィセンテの旅立ちには『大いなるものも、小さきものも、無言の抑制された敬意をこめて立ち会った。かれらは、神が逃亡を防ぐために置いた最初の火の壁を、彼は大胆にも羽ばたいて越え、空のはてに遠く消えるのを見た。だが誰も何も言わなかった。かれの行為は、その瞬間、人類解放の象徴となった。人々を選ばれしものと罰せられるものに分ける専断に対する積極的抗議の声明となったのだ』。
  ところが、鴉のヴィセンテが失踪してまもなく、このことを神エホバが知ることになった。
  闇につんざく稲妻のように、ノアのもとに髪の叱声が聞こえてきた。
 「ノアよ、わがしもべ鴉のヴィセンテをどこに隠しおったのじゃ」
  ノアは神の声におそれおののき、ひれ伏した。答えようがないのである。神の前で嘘はつけない。
 「ヴィセンテは、どこへ行ったものやら見当もつきません――おそらく、彼は謀反むほんしたのでございましょう――神のみおしえを踏みやぶったのです――彼をおあわれみください――彼は逃亡いたしました」

 「逃亡したのか。愚かなヴィセンテ――誰ぞ、彼を見かけたものは居ないのか、ノアの方舟ほど安全なところはないはずじゃ、まだそのへんに居るのじゃ、早くヴィセンテを探して連れ戻して来い」
  しかし方舟内の一同は依然として無言で、誰も動く気配も見せなかった。
  神の光がほんの一瞬、わずかにかげったかに見えた。それは何かの躊躇ためらいのようなものを感じさせた。
 『だが神の権威ははじめて反逆に対し、いつまでもそんな風にぐずぐず逡巡していることはできない。困惑の時はわずか一瞬に過ぎなかった。すぐに神の声が雷のようにおどろおどろ広大な天空まで鳴り響いた』
 「ノアよ、ノアよ」との神の呼び声に、長老のノアは答えるすべもなく、絶望的にあえぐのみであった。
  水先案内の鴉を失った方舟は、しかしこんどは新しい神秘的な力を与えられたかのように、アルメニアの山岳地帯へむかって動きだしていた。
  航路は決して安泰あんたいではなかった。潮流は時々変化し増水と減水とがくりかえされ、方舟内の全員は不安と疑惑につつまれたまま漂流を続けた。
  突然遠目とおめの利く山猫が奇声を発して行く手に陸地らしい影を見つけたことをノアに告げた。錯覚ではないだろうか――見誤りでないことを祈りつつ、その地点とおぼしき方向へだんだん近よっていくにしたがって、どうやらそれは陸地の一部らしいことがおぼろげながら分かり、その輪郭りんかくを次第に明瞭にしてきたのである。

  なるほど陸地だ。しかしそれは高原でも沃野でも、砂漠でもない。ただ丘の頂きが巨浪にもまれながら、ひょっこり頭を出しているにすぎない。だがそれで充分だ。それだけでも、陸地とツナガリがあることは確かだからである。
  方舟の一同はこれを見つけて、驚き且つ勇気を回復することができた。
  そしてさらに驚くべきことには、行方不明だった鴉のヴィセンテが波間(なみま)に見えつ隠れつするその丘の小さな頂上にとりすがっている姿を見つけたことだ。
  ヴィセンテは生きていたのだ。その姿は痩せ細ってはいたが『肉体をかたどると同時に意志を表わしてもいる厳しい線が遠目にもはっきり見えてきた』方舟を脱走して姿をくらました鴉のヴィセンテは、やっぱりここに来ていたのだ。
  彼は勝ったのだ。ノアの管理下に置かれることをいさぎよしとしない彼は初志を貫いたのだ。ノアにそむくことは神に叛くことだった。
  波の高まりはだんだん激しくなってきた。鴉のとりすがっている丘の先端は次第に次第に沈んでゆくかのように見える。ヴィセンテは、はたして生きのびられるだろうか。まさしく神とヴィセンテとの対決である。
  方舟のノアと動物たちは、息をのんでこの対決を見まもっていた。
  ヴィセンテはひるむことなく、毅然として最後の一点に取りすがり続けた。
  方舟の上甲板から見下ろしているノアと動物たちは、すっかり威圧されてしまっていた。「冷静に執拗に全知全能に挑戦して、頭のてっぺんから足の先までずぶ濡れのあの黒い鳥こそ、血であり、いきであり、生気の生気なのだ」と誰もが感動した。
  エホバ神、しゅもこの姿を見ると、さすがに譲ろうとするおおらかさ(それこそ神本来のもの)を取り戻した。「その超然たる確固不動の姿勢を前にして」神といえど屈するしかないのだ。「己の作品を救うために天の水門を不精不精お閉じ」になったのである。

  以上がだいたいミゲル・トルガの『鴉のヴィセンテ』の物語であるが、鴉のあつかいがいかにもトルガ風で、ある程度の鴉という「存在」の本質に迫っている感じである。
  扱うのが鴉であるが故に意味があるのであって、ほかの鳥類では代役は努まらない。
  それは何故であろう。
  この黒いさっぱり見栄えのしない鳥がかくも堂々と人間生活の内部に喰い込んできているのは、どうにも否定しようのない事実になってしまった。
  それはノアの方舟伝説によって窮い窺られる人類絶滅期の世相が、どうやら今日現代のそれとかなり似ていることを思い浮かべるからだろうか。
  狂熱的なソフトな時代でも、鴉の存在を無視できない時間帯に入りつつあるようだ。

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