1992年



(背番号8)

試合数
打率
打席
打数
得点
打点
安打
塁打
二塁打
三塁打
本塁打
盗塁
盗塁死
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺打
長打率
出塁率
失策
121
.245(24位)
441
371
29
21
91
115
8
8
0
4
5
24
4
41
1
50
9
.310
.319
17

主なタイトル・記録

最優秀新人賞 , 三塁打王(タイ・8個) , 新人開幕スタメン
オールスター出場(ファン投票選出、305878票)



(1992年)

試合
勝ち数
負け数
引き分け
勝率
ゲーム差
132
67
63
2
.515
2.0

寸評

 いまだ、多くの阪神ファンにとって伝説的な存在の1992年。
2003年の優勝により、弱冠この年のもつ意味は希薄になったかのようであるが、
依然として、「2003年より1992年の方が燃えた。」「1992年あっての2003」という声を聞く。
上の成績を見てもらえば分かるが、成績自体はさしたる事はない。
貯金はわずか「4」。しかしそれでも巨人と並び同率2位である。
否、巨人などどうでもよかった。1位がもう現実になろうとしていたのだから・・・。
優勝はヤクルト。その成績も69勝61敗。まさにこの年は、”混セ”であり、その主役は間違いなく阪神だった。

 亀山・新庄の「亀新フィーバー」、マイク仲田の最多勝(14勝)、湯舟ノーヒットノーラン
八木幻のHR(ヤクルト戦。この年、ヤクルト戦で延長15回までいった試合が2試合もあった。)に並び、 「花の44年組」(亀山・中込・山田・久慈)などの「革新」に躍り上がっていた。
夏前までには、2003みたく「タイガースフィーバー」が吹き荒れ、その様は新聞記者でも入場券確保が困難なほど(談)。
みんなが、新戦力の台頭と共に新しい時代を感じ、「今年こそは優勝できる・・・」と思っていたろう。 (もっとも、誰もそれを口に出して言おうとはしなかったが・・・苦笑)
シーズン終盤、9月中頃からタイガースは遠征が続く日程であった。この時点で、タイガースは、1位。
もうみんな待ちきれない。誰が呼んだか、「Vロード」。ついに、中村勝広(監督)まで、「おみやげをもって帰ります!」
・・・この呪いが発動したのか、阪神はここから面白いように負けつづけた・・・。
そしてついに、シーズン131試合目。(シーズン年間130試合の時代だったが、引き分け再試合制で、タイガースは年間で132試合をこなすこととなっていた。)
運命のいたずらか、1位ヤクルトを甲子園に迎え、終了宣告の敗北・・・。目の前で胴上げを見ることとなったのである。
この時、甲子園中を「かーえーれー」コールが渦巻いたのは、記憶にも新しいであろう。
あれはよくなかった。
ただ、あの時、ファンは選手と共に、目を血走らせ、シーズン最後の最後まで戦っていた(ような気がする)のもまた確かである。
熱病みたいな大人が、普通にいた。学校では、1−9(スタメンメドレー)を歌えなければ、
阪神ファンとは認められなかった。(今でも、試合終了後の2次会で、92年スタメンメドレーは歌われてますよね。)
シーズン最後の最後まで、球場は殺気立っていたともいえる。
これが1992年と2003年の違いであろう。
まさに、「1992年あっての2003」なのではないだろうか。
今でも、この年は、少なくとも私にとっては「伝説」である。





(1992年)

初めにおとことわりしなければならないのは、私はこの時点では「久慈ファン」というか、 「活躍する選手はみんな好き♪」という、「模範的な阪神ファン」(笑)。
「活躍したら」の留保付ではあるが、阪神の選手は分け隔てなく、みな同じくらい好きであった。
(しいてあげるならば、田村さまとか、湯舟あたりかな。久慈やら新庄やらもだけど。)
なので、このころの情報は、普通に阪神ファンをしていれば知りうる程度のものであり、もっとよくご存知の方が たくさんおられる事と思う。その点はご了承していただきたい。



 91年シーズン終了と共に、阪神の内野では、大コンバートがなされようとしていた。
それまで遊撃を守ってきた和田さんが、体への負担の問題からセカンドへ。岡田はファーストへ。
というわけで、空いた遊撃を、赤ヘル全盛を支えた高橋慶彦・平田勝男のベテランと、新人でまかなおうとしていた。
当初は、関学の田口壮を狙っていたが、「タイガースには絶対行きません!」発言。
(後年の番組で田口は、「学校に行けなくなるくらい、周りからボロボロに言われた」と言っていたが。)
そこで、アマチュアNO.1遊撃と言われた久慈がプロ入りする事となるのである。
 キャンプ時の評判は、微妙であった。打撃の問題で、「久慈ネット」などという冷かし用語まであったことを覚えている。 しかし、中村の監督は、久慈の守備力を非常に買い、開幕2番・ショートでスタメン。
第1打席は、送りバント。このプレーから、プロ生活がスタートした。
とにかく「あれに追いつくの!?」という広い守備範囲に 拍手拍手だったことは覚えている。球場で見れば、スタートの早さが他の選手と違うのがとてもよく分かった。
ついたあだ名が、「平成の牛若丸」。今でも平成以降、「牛若丸」と呼べるようなヒラリとした身のこなしをする選手は、彼以外にいないと思う。
小坂は、「牛若丸」というよりむしろ「忍者」だと思うので・・・
まだまだみんなで呼んであげましょう。「平成の牛若丸」と・・・。

よく、「好守備は、タイムリー1本分にあたる」と言われるが、彼の守備はまさにその言葉がぴったりあてはまる例。
とにかく、「うまい」の一言。いや〜、うまい!
亀山・新庄と共に「若々しい阪神」の中心選手で、「今年の阪神は、ひょっとしたら違うかも」とワクワクしたあの感覚は、体験した方なら分かっていただけるはず。

打つほうでも、7月頭ころには、.280くらい?はあった。
特に、ラッキーゾーンが撤廃され広くなった甲子園は、長距離バッターには大変だが、コツコツタイプには有利となっていた。これを生かして、三塁打を量産。 最終的には、和田さんと共に、三塁打王(8個)に輝く。
チームの勢いもあって、オールスターファン選出!3試合とも途中出場であったが、晴れの舞台を経験した。

しかし、その後、残念ながら夏に打率を落とす。この後も、夏場には毎年苦労を強いられた。
シーズンは終わってみれば、.245も、守備力の評価がつとに高く(当然)、新庄(80票)をかわして新人王を獲得(85票)。

オフに、奥さんと結婚。泣いたファンもいたかも・・・(^^;
亀山・山田・中込との、「花の44年組」はやばいくらいの大人気であった。
当時は今ほど、ユニフォームを着ての応援が一般ではなく、ハッピ全盛だったと思うが、 もし当時ユニが普及していたら、今の、6やら24やら39やら53の洪水と同じ位に、8のユニに出会ったはず。
とにかく、前阪神時代中を通して、久慈さんはすごい人気だったんですよね。



◆入団時のニックネームは、「小ブタ」だったという話を聞いた事がある。・・・本当?
◆ちなみに、山田は”アンパンマン”だった。
◆さらに言うと、中込は、”ゴミ”・・・(これはずっと)。
◆7月の北陸シリーズの広島戦で、サヨナラエラーのやらかし。泣きに泣いた久慈さんだったらしいが、 慰めていた和田さんに対して「傷のなめ合いしやがって」というセリフを吐いたコーチがいたらしい。
◆たしか、シーズン終了後に、「ニュースステーション」に出演していた。(残念ながら、管理人は見ていない。)当時に人から伝え聞いた話では、「緊張していた」らしいが、それほど詳しくは聞いていないため、実のところよく分かりません。見た方、情報求む!
◆この年のキャンプ前に、日本球界最高遊撃手(で間違いないらしい)である、吉田義男氏の自宅を訪問・対談している。 吉田氏は、ショートの心構えなどを語ったらしいが、このあとも折に触れて、久慈さんのプレーをとても評価する発言をしていた。
(ex.)「もちろん課題はありますが、あれだけ守れる選手はそうはいない」「かれは堅実ですよ。守りは合格点」など。 吉田政権になる1997年までは・・・
◆ちなみに、ヤクルト優勝が決定した時の最後の打者は、久慈さん。当然、久慈さんが凡退(二ゴロだったような・・・)するところがテレビで何度も放映され、「久慈、かわいそー」と心底同情しました。
◆(有名な話だが)92年当初は、久慈さん用HMとして、「ヒラリと舞え照嘉 檜の舞台を さぁ漲る力で 飛べ久慈照嘉」というのがあった。結局これは甲子園では使われる事無く終わった(関東では6月頃まで使われていたとの情報あり)が、「92年タイガース応援歌」のCDでは、幻のHMが収録されている。


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