1993年 |
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試合数 |
打率 |
打席 |
打数 |
得点 |
打点 |
安打 |
塁打 |
二塁打 |
三塁打 |
本塁打 |
盗塁 |
盗塁死 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺打 |
長打率 |
出塁率 |
失策 |
128 |
.244(26位) |
488 |
401 |
40 |
16 |
98 |
118 |
9 |
4 |
1 |
6 |
3 |
31 |
3 |
53 |
0 |
76 |
10 |
.294 |
.330 |
13 |
1イニング3HRの3人目(7/6@広島市民)
遊撃手一試合11補殺(6/27)
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試合 |
勝ち数 |
負け数 |
引き分け |
勝率 |
ゲーム差 |
132 |
63 |
67 |
2 |
.485 |
17.0 |
準V年の翌年という事で、ファンは多くを期待した年であった。
・・・と言えればかっこいいが(そういう人もいただろうが)、私はとてもそんな楽観的にはなれなかった。
これが「負け犬根性」か。「ひょっっとしたら、ひょっとしちゃったりしないかなー?」−そんなもん。
といっても、シーズン序盤は決して悪くは無かった。
4月はそこそこ勝ってたはずだし、確か5月ころには首位にも立ってた。でも、周囲では、「ここまではいつもの通りやね」って話してましたよ。これ本当。
何なんだろうか、この弱腰は。4・5月好調→6月失速はあまりに見慣れていたからだと思う。「魔の6月」と呼ばれたものだった。
もちろん期待はしてた。ただ、なんとなく自嘲気味だった気がする。
というわけで、やはり6月からじりじり落ち始めて、ペナントレースから遠ざかるが、そんな中でもファンを喜ばせた男がいた。
先発の柱、「野田浩二」との交換トレードでオリックスから移籍の「松永浩美」、その人である。(阪神ファンなら、彼の名前は忘れまい。)
このトレードの発端は以下のようなものであったと聞いている。
すなわち、中村勝ちゃん的には、92年を戦い終えて「投手陣はいける!」と踏んだらしい。そこで、野田を放出してまでも、打線の核として松永を獲得したとのことである。
実際はというと、「核」として活躍したという感じではないし、6月頃に怪我をして2ヶ月ほど(?)1軍から遠ざかっていた時期があった。ただ、何がすごいって、復帰した8月から「3試合連続先頭打者アーチ」なんて離れ業をやってのけちゃったのだ。これは、ペナントに望みをすっかり失った阪神ファン(少なくとも私)を歓喜させるに十分であった。「松永すごい!!」って言いまくってた記憶がある。背番号「02」なんて珍アイデアにも、「面白い人だなぁ」と素直に受け止めていた若き日々。
が、しかし。
「松永、FA宣言」・・・(のち、ホークス入り。)
さらには、「甲子園内野は子どもの砂遊び場」とのコメント。この発言、墓場まで持っていくぞ、このやろぅっ。
一方の野田はと言うと、パ奪三振王のタイトル&二ケタ勝利と、新天地で大活躍したのであった。
野田を放出してまでの大胆トレードも、こうして松永の後ろ足に砂をかけられみじめなものに終わる。あらためて、阪神フロントの調査能力のお粗末さを実感させられた。松永は93年の阪神を語る代名詞と言えるのではなかろうか。(たぶん、今でもダリル・メイと並んで?松永は阪神ファンにとっての禁忌語だと思う。)
悪い点ばかりを書いたが、いい点では、抑えのタムジイ(田村勤)が昨年に引き続き大活躍。和田さんが、.315の大活躍なんてこともあった。ただ、結果は4位。私としては「Bクラスの1位や〜」などと慰めを得るしかなかった。
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◆93年の得点圏打率は、.179.トリビアにもなりませんね、すみません。 |