1995年



(背番号8)

試合数
打率
打席
打数
得点
打点
安打
塁打
二塁打
三塁打
本塁打
盗塁
盗塁死
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺打
長打率
出塁率
失策
123
.266(22位)
409
334
32
24
89
111
9
5
1
3
8
13
1
62
0
49
1
.332
.381
11

主なタイトル・記録

オールスター出場(2回目)



(1995年)

試合
勝ち数
負け数
引き分け
勝率
ゲーム差
130
46
84
0
.354
36.0

寸評

1/17、阪神・淡路大震災。
 2/1のキャンプインのニュースは見た覚えが無い。報道はされていたのかもしれないが。阪神電鉄は、2日後の19日に、梅田〜甲子園まで開通した。甲子園を降り立った瞬間、倒壊した家々(ちょうど管理人もこの日に甲子園に降り立っていた。)。西に歩く人々の列の横には、同じ光景が広がる。甲子園は被災地の真っ只中だった。地元のファンの人で、阪神のこと考えている暇なんてほぼ無かったと思う。(あくまで一例だが、管理人の場合は1/30になって、ようやく学校の「登校日」が設定されて、その日学校に来れた級友に会い、改めて無事が確認できた。そんな状況。)
この年、タイガースは球団創設60周年の節目。被災者の人々に勇気を与えられればよかったが・・・。開幕から5連敗スタート。7月には9連敗(完封負けが7試合)もあった。7月、中村勝広監督が辞任。藤田平2軍監督が監督代行に(翌年、監督就任)。「どこよりも早く始まるストーブリーグ」などと揶揄された。84敗は球団ワースト記録らしい。
 オフには、新庄が、藤田平との確執から(実際に「確執」はなかった、という見解もあるようだが。とにかく正座させられるなどがいやだったらしい。)「センスが無いから辞める」と引退会見(翌日撤回。)。勝率.354とは、もうあきれるしかない。オフの、日テレ系列「珍プレー好プレー」では、八方のナレーター付きで「どうした阪神」というコーナーまで作ってもらった。(つくづく、余計なお世話の局だと当時は思ったものです・・・。)
 選手たちもほとんどが被災者であったと思う。でも、同じ被災者のオリックスが、神様がとりついたかのように勝ちまくり(82勝47敗、2位に12.0ゲーム差をつけて優勝)、阪神地区を元気付けたことを考えると、単純に阪神が弱かった。6月頃か、日清の景品で「♪60周年タイガース〜♪ヒ〜〜ヨヒヨヒヨヒヨコちゃん♪ 絶対もろたで日本一♪ヒ〜〜ヨヒヨヒヨヒヨコちゃん♪(以下続く)」というCMが関西で流れまくっていたのが、なんとなく思い出。






(1995年)

 久慈選手にとってもいろいろあった年だと思う。まずは被災、そしてキャンプイン。今では想像しづらいであろうが、この年八木裕がショートコンバートされる。その狙いは、やはり打線の状況との関係で久慈選手との併用を視野に入れてのものであった。久慈選手も、「八木さんがライバルになるのは大歓迎」といった発言をしていた。キャンプからOP戦にかけては互いにしのぎを削るが、結局は久慈選手がショート定着。八木選手はレフトの控え的な立場に落ち着く。
 前半戦は昨年までと同様、レギュラーとして出続ける。打順は、主に8番。7月時点では.270近くあり、この時点で三塁打5本もあってか、監督推薦でオールスター出場も果たしている。
 しかし、藤田平監督代行になると状況が一変。8月中ごろから、鬼平は、1学年下の星野修(現楽天)をショート先発で起用。この間、久慈選手は控え・代打要員になる。この間Hを打つ事が出来なかった。のちに彼は、「たしかに面白くなかった。あれほど長くスタメンを外れる事は野球をはじめて無かったですから。気持ちがくさりかけました。でもそれでは、だめだと・・・」と回想している。そして、9月にスタメン復帰するといきなりの3安打猛打賞。いつものごとく、9月は打ちまくり、結局.266と自己最高打率を残すこととなる。
 ちなみに、8/12のG戦(東京ドーム)で織田淳哉から、プロ入り通算2号HR。なんと1113打席ぶりの一発とか。
 この年の久慈選手はまだ終わらない。自己最高成績を収めながら、出場機会の減少を理由に、減額を提示され、銭闘で大モメ(今はどうか分からないが、この頃の阪神の査定基準は、まず出場機会(どれだけ物理的に試合に出場したか)が多くの割合を占めていたらしい)。当時の阪神は、今の状況とは180度反対の超節約球団。当然、交渉はすんなり行かず、初の越年。


入団以来の上司であった中村勝広が辞任してしまうが、03年の優勝時の特番で勝っちゃんが中継で出演。一言を求められた久慈さん、「・・・あ、どうも。・・・お先です(笑)」とコメント。妙にニヤニヤしてしまったのは、私だけだろうか。


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