1997年



(背番号8)

試合数
打率
打席
打数
得点
打点
安打
塁打
二塁打
三塁打
本塁打
盗塁
盗塁死
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺打
長打率
出塁率
失策
126
.257(26位)
479
393
55
16
101
125
11
2
3
8
7
33
2
44
7
42
8
.318
.341
7

主なタイトル・記録

JA(全農)GoGo賞<好走塁賞>受賞(4月度)
1試合2HR(6/7)
オールスター出場(ファン選出)



(1997年)

試合
勝ち数
負け数
引き分け
勝率
ゲーム差
136
62
73
1
.459
21.0

寸評

 新監督として、V監督の吉田義男(通称:ヨッサン)が復帰!「今のタイガースは危機的状況」「タテジマをヨコジマに変える位の覚悟で」という名セリフを吐き、  チームスローガンを慣れ親しんだ「3F」(Fight,Fresh,For the team)から、「Husle!Husle!Husle!」に変更。ファンはヨッサンの出現に大きな期待を寄せ、キャンプでも各方面から「タイガースは変わった」と言われた。
 そしてシーズンイン。今期初勝利時のヨッサンの涙、東京Dでのヨッサンの変な抗議(球審に詰めよりウィンドブレーカーを脱ぎだしたので、「このおじさん、やる気か!?」と思いきや、なぜか脱いだブレーカーをくるくる回し腰に巻きつける(^^;これには、球審も大爆笑。)、和田の「開幕24試合連続安打」の日本新記録などが全国ニュースでも大きく取り上げられ、元気があった。
 5月には、「ミスターレッドソックス」と言われた超大物助っ人・グリーンウェルがやっとチームに合流。いよいよかと思われたが、出場7試合目で自打球を当て骨折。「これは神の啓示」らしく(本人談)、あっさり現役引退・退団。年俸、3億6000万だったんですけど。あのケチ阪神が、清水の覚悟で獲得した助っ人だったんですけど。
 とはいえ、なかなかチームには勢いがあり、6月頭には単独首位に立っていた!
 しかしそこまで。そこからずるずる下り始め、8月に5連敗&3連敗&5連敗で終了。もっとも、ナゴド初年度でボロボロだった中日が下にいたおかげで、なんとか5位にとどまった。
 シーズンの見所としては、テスト入団の伊藤敦さん(敦規)・葛西・タムジイ(田村)の3人が大車輪の活躍で、移籍組みで苦労人の平塚の活躍などがあった。あと横浜戦はカモ中のカモで、いつも横浜線はほっとした。
 チームは、建て直しのためシ大リストラ。92年をわかせた亀山が、戦力外(引退)。そして、中日との大型トレード成立が発表される。関川・久慈と大豊・矢野との交換トレード(さらに阪神が中日に金銭支払い)であった。






(1997年)

 波乱万丈の一年とはこういう事を言うのだろう。
 2年続きの越年となった銭闘は、昨年よりさらに状況が厳しかった。当初の球団提示額と本人希望額には、なんと1200万もの開きがあり、久慈さんも「僕みたいなタイプはコツコツやるのが役目。HRを打つ選手ばかりが評価が高いような気がする」というコメントを残しており徹底抗戦の構え。
 「桧山と僕の査定ポイントは同じ位。なのに向こうのアップ額に比べ僕のアップ額は半分。」と言ったとかで、私事であるが、この発言を桧山ファンの友だちと目にしたときは、さすがに気まずい空気が流れたり。
 「あわや調停!?」まで行ったが、最終的に球団側が大幅譲歩で4度目の交渉でようやくサイン。キャンプ自費参加は免れる。
 それ以外にもファンとして気にもめたのは、ゴールデンルーキーと言われた今岡の存在。まだセカンドもショートも、という扱いだったが、こちらとしてはやきもき。久慈さん的にはそうでもなかったような雰囲気も。
 かと思いきや、2月中ごろのキャンプ中に、右上腕二頭筋肉離れの故障。ボールを投げることすら出来なくなり、キャンプはずっと別メニュー調整。開幕ベンチ入りも危ぶまれたが、なんとかオープン戦終盤の3月末に実戦復帰。すべりこみセーフとなる。そして、いつものごとく開幕スタメンスタートとなった。
 しかし、4月はなかなか調子が上がらない。打率は1割台まで下降し、ついに途中交代でフルイニング出場が途切れ、スタメン落ちも。ただ、積極果敢なプレーが守備面でも(チームの方針に加え、ことショートに関して言えば、”元祖牛若”といわれた監督の存在も大きかった?)走塁面でも見られた。特に東京DのG戦で、ワイルドピッチの間に2塁走者として一気に生還した走塁にはたまげた。このことも評価され、4月度のGoGo賞(好走塁賞)を受賞。
 5月には打率は.250前後までは戻してくるが、それ以上なかなか伸びない。そんな中でやって参りました、旭川スタルヒンでのYB戦!この試合で、初回に先発・川村丈夫からレフトへHR(通算3号)。さらに、7回には関口伊織から「パーフェクト」(本人談)のHR(同4号)。「5年で2本」の男が、5年分を1日で打ったということで、大騒ぎになった(ちなみにこの日チームで6HRと、およそ阪神とは思えない試合内容となった)。ともかくおめでとう!!
 こんな活躍もあったのだが・・・。打撃状態の問題なのか(どちらかというと”ハッパかけ”の意味合いがあったように個人的には感じるが)数試合連続でスタメンを外れるようなこともあった。チームの(序盤の)好調の波にのり、ともかくもオールスターファン選出!はできたけどね。
 後半戦も前半戦のような状態が続いたような気がする。もちろん、シーズンを通して見ると、文句なしのレギュラーですよ。この年は、ショート守備にうなる日々だったし、おまけで8/24には東京Dでドームラン(G槙原から)。自己最多の3HRをも記録した。
 しかし、シーズン最終戦終了直後、神戸市内のホテルで中日へのトレード通告となった。
 この事件については、ちょっとやそっとでは語り尽くせない。また別の項を設けて語らせていただきます。


◆実は、96年シーズン終了後の契約更改は保留連発で、越年も久慈さん含め3名になっていた(久慈・関川・萩原)。そして、97年シーズン終了後に3人とも阪神を離れた(萩原は戦力外→近鉄にテスト入団)。ちなみに、97年シーズン前の自主トレは萩原と甲府でしていた(一応、二人はドライチとドラニの同期入団)。
◆久慈さんは、ブロス(S)を超カモにしていた。その理由はおそらく・・・ブロスは2m近くの巨男で、久慈さんの小さいストライクゾーンに、とても投げにくそうにしていたから?
◆1試合2HRの1本目を打った川村は、このシーズンのセ被本塁打率第1位(いまでもHRをボカスカ打たれている印象があるけど(^^;。)。球が素直だからだろうが、道理で久慈さんも・・・。
◆さらにいうと、1試合2HRの2本目を打った関口(現楽天打撃投手)は、実は桧山と東洋大時代に同部屋の先輩・後輩関係で、プロ入り後も親しくしていた。その桧山と久慈さんもまたお友だちというのは、みなさんご存知かと。
◆ついでに、1試合2HRの1本目を打った3回、タイガースはさらに平塚・桧山とHRが続き、1イニング3HRの記録樹立。実は、久慈さんプロ入り初HRのHRも、1イニング3HRの記録達成を担っている。やっぱり、久慈さんが打つのはただ事ではないらしい。
◆8月28日のハマスタでの横浜戦で、同点の1死三塁、久慈さんは代打で出て、決勝犠飛を打つ。しかし、この日神戸のホテルで、山口組系宅○組の組長が射殺され、翌日はスポーツ紙含めその話題が1面トップ。不謹慎な話であるが、久慈さんは1面に縁が無い。
◆第1期阪神時代の最終試合は、10/12の期最終戦。2番ショートでスタメン、一ゴロ、二ゴロののち、途中交代だった。たまたまその日の試合が深夜放送だったのでビデオに撮っていたが、(久慈さんは大して活躍していないが・・・)おかげで捨てられなくなった。


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