1998年



(背番号6)

試合数
打率
打席
打数
得点
打点
安打
塁打
二塁打
三塁打
本塁打
盗塁
盗塁死
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺打
長打率
出塁率
失策
122
.249(31位)
482
389
43
18
97
113
10
3
0
7
7
38
0
52
3
51
5
.290
.342
7

主なタイトル・記録

セリーグ最多犠打(38)



(1998年)

試合
勝ち数
負け数
引き分け
勝率
ゲーム差
136
75
60
1
.556
4.0

寸評

 おことわり
すでにご存知かと思いますが、管理人自身はタイガースファンです。たしかに、久慈移籍後はドラゴンズに相当傾倒しており、 阪神よりはむしろ中日を熱烈に応援してはいましたが、「ドラゴンズファン」と言い切れる自信はなく、生粋のドラゴンズファンの方から見れば、「それは違うだろう!」 というご批判を頂くかもしれません。ただ、ここの記述も、他球団の1ファンから見たドラゴンズの印象、という風に寛大に受け止めていただければ ありがたく思います。


 ナゴヤドーム移籍1年目の前年度は最下位に沈み、チームカラーの一新を期したドラゴンズは、大幅に選手を入れ替える。トレードで関川・久慈(阪神)・南渕(ロッテ)  韓国のスーパースターのイ・ジョンボムを獲得して、前年度のチームカラー(大豊・パウエル・山崎あたりが主軸の、長打チーム)を一新させた。
 この機動型野球が大当たり。投手陣も、野口にルーキーの川上憲伸らがとともに開幕当初から好調をキープして、夏頃から横浜と一騎打ちの優勝争いを展開する。
 先走る横浜を追いかけてかなり迫ったが、9/4からのナゴドでの首位決戦で、まさかの3タテ。その後はハマもやや疲れた様相を呈するが、ドラも力尽きたかハマに追いつくことが出来ず、2位に甘んじる。
 とは言っても、前年の6位から優勝争いへの華麗なるジャンプアップ。現代野球の栄枯盛衰の激しさを感じさせてくれる気がする。決して97以前の重量ドラゴンズがいけないというつもりは無いが、  広いナゴドではやはり機動力重視の野球が適っていたということか。1番ジョンボム関川2番久慈3番関川4番ゴメス5番立浪という打線は、バランスがよかった。
 どうでもいいが、サンデーユニフォームがあったのもこの年だったっけ。久慈さんは子どもみたいでした。






(1998年)

 中日入り後の久慈さんの第一報は、背番号のニュースだった。一ケタがもらえるかもらえないかで、中日の扱いもそれなりに推し量れるだろうと思っていたので、「6」だと分かった時はそれはそれはうれしかった。
 しかしそれ以外にもいろいろと気になることが多かった。細かいところでは、チームにどう溶け込むのかという点、何よりポジションの問題。97年は一応ゴエ(もちろん、ホークスのあの方です・笑)がショートを守っていたが、 リージョンボムが「ショートをやりたい」と言ったもんで、ショートは久慈さん・ジョンボムに(一応)南渕を巻き込んだ「チーム1の激戦区」と言われた。 2ポジション制を取っていたとはいえ、いまだに納得できないが、開幕の結論は「セカンド・久慈 ショート・ジョンボム レフト・立浪」。久慈さんは、開幕セカンドスタメンでのスタートとなった。セカンドにはやはり苦労していたようである。 ずっとセカンドを守っていたが、ジョンボムが6月末に骨折すると、めでたくショートに舞い戻る。ジョンボムには悪かったが、やっぱり、この人はショートの人だ!!ナイスプレーを連発してくれた。 結局、シーズン途中にジョンボムが復帰しても、ショートは久慈さんで継続。(ジョンボムのショートが正直・・・。首脳陣はキャンプ中から気づいていただろうに・・・。) ここで、立浪―久慈の二遊間を見られたのが大きな財産だった。すばらしいコンビだった。二人が同級生でしかも甲子園で対戦経歴があった、という事情も忘れられない点である。
 打撃成績は「イマイチ。・・・いやイマ2かな」「通知簿で言えば1(小学生との対談で)」(本人談)という事だが、打順はずっと2番ということで、つなぎ役。犠打(38個)は2位の石井琢朗に8個差をつけて、セリーグトップに!おめでとう!!
 全体として、優勝争いのチームの中で自分の役割を果たせた点に、大きな満足を抱いているといった趣旨の発言をしていた。暗黒タイガースからの移籍となれば、そりゃそうだろう(98年のタイガースはブッチ切りの最下位)。
 ドラファンの方にも、関川・久慈ともども、非常に暖かく迎えてもらっていたし、人気も博していたので、ありがたくもうれしいことであった。  


◆この年から、その後恒例となる、大津自主トレがスタート。和田さん主導(?)での自主トレで、和田さんの引退の年(2001年)まで関っち・久慈さん共に参加し続けた。初年度となったこの年は、伊藤敦さんを加えた4人で、あの1/17に開始。
◆中日のキャンプでも、久慈さんは「サンプル的な存在」(関川)だったようです。要するに、お手本的存在。野球選手としての、優等生っぷりがうかがえます。
◆5/26に、ドラゴンズは阪神・川尻から、ノーノーをくらった。この試合で久慈さんは途中交代だったが、実は交代されていなければ、久慈さんが最終打者となっていた!ノーノキラーの久慈さんならあるいは・・・。仙一がノーノー破りのエピソードを知っていたはずは無いが、それにしてもどうなるか見たかったところである。
◆98年の9/21号週ベに、関川×久慈の対談が巻頭特集で掲載さる。
◆キップのいい中日!契約更改も一発サイン。なんと4年ぶりだった。


年度ごとの成績 Topへ戻る