2000年



(背番号6)

試合数
打率
打席
打数
得点
打点
安打
塁打
二塁打
三塁打
本塁打
盗塁
盗塁死
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺打
長打率
出塁率
失策
80
.167
86
80
3
6
12
15
1
1
0
0
0
5
0
8
0
10
1
.208
.259
1




(2000年)

試合
勝ち数
負け数
引き分け
勝率
ゲーム差
135
70
65
0
.519
8.0(2位)

寸評

 ディフェンディングチャンピオンとして迎えたシーズン。戦力は充実していたので、前評判は高かった。前半は、6チームが入れ替わり立ち代り首位に立つ混セも、シーズンは6月に巨人が首位に立つと、一度も1位を譲らぬまま優勝。
中日は5月に10連勝と勢いを見せたが、イマイチぱっとしなかった。移籍の武田・憲伸あたりがしっかりせず、バンチ・山本昌(いまいち?)・野口・前田(急遽?先発をしていた)という状況では苦戦を強いられるだろう。 ただ、野手では中盤頃から種田の再ブレイク・井端の台頭などがあり、新時代を感じさせる内容であったと思う。  






(2000年)

 99年のリーグ制覇で、その年いっぱいは充実したものを感じたであろうが、2000年になっても状況が劇的に変化するわけではなかった。 相変わらずショートスタメンは福留だったので、久慈はやはり控えショートとしての地位に回る。しかも、起用ペースは前年を下回る状況。井端がスタメンの機会を増やす中で久慈の出番はなかなか来ず、シーズン初スタメンは5月(セカンド)を待たねばならなかった。
 そして、久慈選手自身も、バッティングの状態を崩し、結果がなかなか残せなかったためベンチを暖める、という悪循環にはまった感がある。8/6に延長12回V打を放ったものの、結局次のスタメンは8月11日。久慈自身もシーズンが終わって、「今年は途中で気持ちが切れた」と語ったように、辛苦を味わった年となってしまう。
 結局シーズンの成績は、不本意なもので、オフシーズンが騒がしくなる。この年にFA権を取得したためである。翌年も、福留あるいは井端(実際にショートレギュラーをつかんだのは井端だった)重用の方針は変わらないことが見込まれたし、何より久慈自身、この時が一番脂が乗っていた時期だったと思われ、出場機会が見込まれるチームに移籍する方がいいという話を中日ファンからも聞いた。 多くの中日ファンは、99年優勝に貢献した久慈選手のことを「功労者」と高く評価してくれていたと思う。
 このように周囲はいろいろなことを言っていたが、本人は「ドラゴンズというチームに愛着があるし、もう一度スタメンを取るつもりでがんばる」といって、宣言せずに残留となった。「心機一転」のため、登録名を、「テル」に変更するというオマケ付で。


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