2001年



(背番号6)

試合数
打率
打席
打数
得点
打点
安打
塁打
二塁打
三塁打
本塁打
盗塁
盗塁死
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺打
長打率
出塁率
失策
34
.091
19
11
2
0
1
1
0
0
0
0
0
4
0
3
0
2
0
.091
.333
0




(2001年)

試合
勝ち数
負け数
引き分け
勝率
135
62
74
4
.456(5位)

寸評

 この年の中日についてはどうも印象が薄く、内容あるコメントを記す自信がないので、記憶ある範囲に留めておきます。
 成績としては4年ぶりのBクラス(5位)ということで、阪神(6位)と共に、早々とペナントから脱落していたのでしょう。その阪神とも勝ち数で5離れていたいたわけです(この年は、勝ち数による順位決定)。
 チームとしては、井端がレギュラー定着というのが大きいと思います。シーズン後半には荒木がセカンド・福留が外野を務め、現在の原型が出来てきたともいえる。そして星野監督が勇退(翌年より阪神監督就任)。






(2001年)

 くどいようですが、「テル」としてスタメン奪取を目標に再出発を図った久慈選手。遊撃争いはなかなかの注目であったが、若い井端の評価がうなぎ上りとなる。2番ショートは、井端か久慈か、という状況だったが、星野監督の結論は、井端がレギュラー。
 また福留と異なり、井端は将来的にショートで大成させるというコンセプトがあったのだと思う。久慈選手は、というとショートだけでなくセカンドの守備固め(レギュラーは立浪)&バントに活路を見出す事となった。しかし残念な事に、バットは湿りがち。打席に立つと「珍しい」という位・・・。
それでも中盤まで、前年と同じ程度の出場機会(守備機会)はあったのだが・・・貧打にあえぐチーム事情と相まって(ケガでもないのに)、7月後半にまさかの2軍降格となってしまう。自身、シーズン中としては初めてのことであった。ファームでは、なかなかの成績を収めていたようであるが(Hもよく出ていて、「格の違い」?は見せ付けていたよう)、そのままシーズン終了。
 結局、「いいことなかった」ので「テル」は1年で封印される。それどころか、オフには「とにかく何でもいいからチームに貢献したい」という発言だったり、あと何年プレーを続けられるかを憂うような発言があったりと、それまでとは違う雰囲気を発言内容に漂わせているように感じられた。 あまりそういう事を言う選手ではないと思っていたので、結構ショックだったことを覚えている。
 私見ではありますが、まだまだ久慈さんのプレーが湿ったわけではなかった。ただ、井端育成の方針だとか、チームの貧打と言う事情に飲まれてのファーム行きという面があったと思う。ただ、姿を目にすることさえできなかったので、プレーが錆付いたのだろうかという心配が幾度も頭をよぎった。彼のプレー(話題)が世間(私自身もそうだ)の目に触れることが激減したのはこの年かもしれない。
 ちょっと個人的な意見を語りすぎてしまったかもしれません。ごめんなさい(>_<)


◆というほどでもないが、久慈さんが打席に入ったときのコールは、「かっとばせーテル」だった。むろん、HMは変わらなかったけど
◆久慈さんが2軍にいるときに、見に行った人(久慈ファンではない)の話では、関川や山崎やらがいたとかいう状況。中日が、世代交代の時期を迎えていたことを物語るエピソードかもしれない(今になって振り返ると、12球団を見渡しても、確かに中日ほど(野手について)迅速に若返ったチームはなかったですね。)。


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