2002年



(背番号6)

試合数
打率
打席
打数
得点
打点
安打
塁打
二塁打
三塁打
本塁打
盗塁
盗塁死
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺打
長打率
出塁率
失策
9
.400
5
5
1
1
2
5
0
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
.400
.400
0




(2002年)

試合
勝ち数
負け数
引き分け
勝率
ゲーム差
135
69
66
5
.511
15.5(3位)
 星野監督が退団(のち阪神移籍)し、山田久志監督が指揮をとり始める。
 谷繁元信が横浜からFA移籍。若手尊重を唱え、シーズン中に荒木がセカンドレギュラーに定着。
 シーズンは、原巨人が早々と独走ムードで、優勝争いにあまりからまず、かといってちゃっかりAクラスを確保する、いかにも中日な戦い振り。
 福留が松井の三冠王を阻止して首位打者のタイトルを獲得した。
 






(2002年)

 監督が変わったことから注目された起用法。前年度に荒木−井端が定着していたが、監督の中では久慈を活用しようという考えはあったようで、開幕も1軍スタートとなった。4月当初は、主にセカンドの守備固めとして起用。4/7の広島戦では、ベルトランから何と97年以来のHRを打つ(もちろん広島市民球場での出来事である)。
 初スタメンは、4/28に巡ってきた。「2番・セカンド」。第1打席は止めたバットに辺り、内野ゴロに。
 (Izanagiさんからの情報。どうもありがとうござます。)
 しかし、これが中日での最後の打席になるとは思いもよらなかっただろう。その打席で「左背筋」を痛めて退場。そのまま翌29日に登録抹消される。
 プロ入り以来大きな故障はなく「勤続疲労なんでしょうね」(本人)な故障だったが、5月中旬には練習を再開し、再昇格を伺っていた。ところが、今度は「左ふくらはぎの肉離れ」という重傷を患う。ギブスをはめ、一時は寝返りも打てないほどの状況であったようだ。再び療養の日を送るが、故障がいえても1軍昇格の機会は与えられなかった。
 久慈自身が中日での出番はないと考え、球団へ移籍の申し出を行う。球団も当初はトレード成立を目指したがまとまらなかったようだ。また、2軍コーチ就任も要請したそうだが、現役続行の意志が固く辞退したようである。久慈、中日を自由契約・退団へ。

当初は、久慈のトレード以来、正遊撃手不在の阪神・この年宮本が故障したため「宮本不在時」における遊撃の不安を露呈したヤクルトが獲得へ動くとの報もあった。しかし、なかなか具体的な話は出てこない。11月末頃には、サンケイスポーツで、阪神入団が決定と報じられたが1ヶ月ほどは目立った動きがなかった。しかし12/20、ついに阪神との契約が成立。6年ぶりの古巣復帰となった。


 戦力外通告。球団は2軍コーチ就任を要請も現役続行を希望、退団へ。(02/10/10)
正式に退団発表。自由契約へ。(02/10/15)
自由契約選手公示(02/10/22)
阪神への移籍が決定(02/12/20)
 


◆始動は、恒例の大津自主トレであったが、主宰者でもある阪神・和田が2001年度に引退したため、関川に幕田賢治を交えてのものとなった。そして、この年が最後の大津自主トレとなった。
◆久慈さんが中日を退団・阪神へ復帰するまでの経緯には、実は不可解な点がある。  久慈さん移籍の経緯について、当事者の立場から初めて明らかにされたのは、私が知る限り、星野仙一阪神監督(当時)のエッセイによる。

 (この)久慈の獲得はまず島野ヘッドからのプッシュだった。
 かつて新人王のタイトルも獲っている名ショートだ。阪神から中日に移籍してわたしの下でも4年間働いている。その久慈が昨年末に中日を自由契約になった。 「まだ33でしょう。藤本にしてもまだまだ不安だから、枠を調整して獲りましょうや」というわけだ。
(星野仙一『夢』(角川書店・2003年・135頁以下))

 新聞報道からもうかがわれるとおり、自由契約後に阪神が接触したかのように思われる。

 しかし、2004年のシーズン前に、関西のラジオ局に久慈さんが電話で出演した際、本人の口から以下のような事情が話された。 要点をかいつまんで言うと、「話がある」と言って中日に話し合いの機会を持ってもらったが、なかなかいい返事がもらえなかった。 そこで、自由契約にしてもらって阪神に復帰した。 そして、申し入れの際には阪神との間で復帰の話がなんとなく出来上がっていた、というものである。
 さらに、2004年に週ベで掲載された久慈さん特集記事では、7月頃に中日に対して自由契約の申し出をした、との記述が見られる。
 この2つの話を総合すると、7月までに阪神側の誰かから久慈さん本人にコンタクトがあり、久慈さんは阪神移籍を念頭に置きながら、中日を自由契約にしてもらった、ということになる。
 確かに当時の阪神遊撃の状況を考えると、中日で出番に恵まれなかった久慈さんはうってつけだったし、当時の阪神首脳あるいは その周辺と久慈さんとの間には、個人的なパイプも複数あったであろうから、さもありなんの話と言える。
 が、ここまで書くと、あることが思い浮かぶ方もおられよう。これは野球協約違反とならないか、と言う問題である。

1年契約制の下で契約満了に伴う選手の他球団による引き抜きを防止するために、野球協約では 保留選手制度を採用する。その制度の下では、いったん選手契約を締結した選手について、球団が翌年も契約を締結しようと思えば、 契約締結の権利を保有する選手としてその名簿を連盟会長に提出することによって、選手は他球団との一切の交渉を禁止され、 事実上、契約権を所属球団が独占できるようになっている(野球協約 66 条以下)
(井上典之「ファーストステップ憲法」法学教室No.267・2002年)。

 いわゆる「引き抜き禁止条項」である。保留期間真っ只中の7月前後の接触は、協約に反する可能性があるのだ。
 もっとも、阪神側からの接触がどれほど公式のものか明らかではないので、「他球団からの接触」と評価されるものではないかもしれない。また、最終的には「自由契約→移籍」の手順を踏んでいる。なにより、こう言っては失礼だが、このような小さい事までいちいち中日側が問題にすることもないだろう。 しかし、グレーな可能性は否定できないような気もする。そう考えると、星野氏のエッセイではこの当たりの経緯がオブラートに包まれていたのもうなずけるだろう。
 ここからは推測であるが、自由契約を久慈さんが申し入れていた段階でも、阪神復帰の話は、せいぜい「阪神として獲得の計画がある」程度のものだったのではないだろうか。契約が成立したのが12/20と遅かったことをみると、選手枠の優先順位としてはそれほど上ではなかったかもしれないからである。 それでも、「現状よりは」と移籍の可能性に賭けて自由契約を申し入れた久慈さんの判断?あっぱれだったと思うわけであります。




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