2003年



(背番号32)

試合数
打率
打席
打数
得点
打点
安打
塁打
二塁打
三塁打
本塁打
盗塁
盗塁死
犠打
犠飛
四球
死球
三振
併殺打
長打率
出塁率
失策
55
.304
56
46
4
6
14
19
3
1
0
1
0
2
2
6
0
12
1
.413
.370
1




(2003年)

試合
勝ち数
負け数
引き分け
勝率
ゲーム差
140
87
51
2
.630
優勝(2位と14.5差)

寸評

 星野監督就任二年目のタイガース。前年度は実に97年以来の最下位脱出を果たした(4位)が、星野監督は本気で優勝を狙いに矢継ぎ早の補強に手をつける。
FAで広島から金本を獲得、日ハムと3対3のトレードで下柳や野口らを獲得、伊良部を獲得、助っ人としてウィリアムスを獲得などなど。
キャンプの頃には、「本気で今年の阪神は変わった」と言われた。監督が変わるたびに「今年の阪神は違う」とテレビで言われていたけれども、順位予想で真剣に1位や2位の予想をする解説者まで現れたのだから、いままでとは少しばかり様子が違う「現実味」があった(もっとも、疑うことに慣れた阪神ファンである私には、およそ信じることができませんでしたがね)。
 そして、シーズン開幕である。開幕戦は、エース井川で負けた。しかし、ここからとんでもない連勝街道がスタートするのである。その後3連勝。1敗をはさんで3連勝、5連勝なんて調子で勝ちまくる。4番濱中が4月だけでHR8本・31打点の大活躍。さらに、7番矢野・8番藤本が、「想定外」の大活躍でチームをひっぱった。4月は17勝10敗1分と、「合格点」のスタートダッシュを果たした。しかし、これはその後の規格外のほんの序章でしかなかったのだから、恐ろしい。
 5月は、連勝街道にさらなるギアが入る。甲子園での巨人戦を連勝で始めると、5月9日に、濱中・片岡・アリアスが、ハマスタで三者連続HRをやってしまった!!もちろん、85年の「神事」再来(実は、私はこの時点で優勝を確信し始めた)!?5月は4連勝が2回、5連勝が1回ですよ・・・。どうなってしまたのか、なんと18勝6敗という成績を残したのである。
 しかししかし!阪神ファンなら誰でも知ってる。ここまで元気がいいのはいままであったことじゃないか。いつから言われだしたのかもう覚えていないが、「魔の6月」を迎えた。チームを見ると、確かに濱中が故障でいない、藤本も短期でいない。おかしくなるはずであったが・・・。なにがどうなったのか、6月は4連勝・6連勝に、7月にまたがっての足掛け7連勝とくるのである。6日には、井川の「顔面スクイズ」なんていうのもありました。6月はトータルで15勝5敗。5月に比べてまたまた連勝の拍車がかかってしまった。
 試合の結果もすごいが、内容もすごい。5月31日の巨人戦では、9回表に一挙11点で逆転勝ち。6月21日の巨人戦では、追いつかれた8回表に10点追加で引き離し。恐れ入りました・・・。このような試合の伏線となるのが、よく言われるように4月11日の巨人戦での引き分けである。9回裏2アウトの2ストライクまで2対1でリードしていた阪神が、代打後藤にまさかの同点HR。そのまま延長で引き分けたのであった。この試合を機に、選手たち中で「最後まで本当になにがあるか分からない(から、取れるときには徹底的に点を取る)」という意識が強く植え込まれたという話は有名となった。また、この試合に負けなかったこと、翌日の試合をモノにしたことが非常に大きかったとも言われた。とにかくいろんな意味で、大きなポイントになった試合であったことは間違いないようだ。
 話を元に戻そう。「魔の6月」を蹴散らした阪神は、7月もう止まらない。いきなり初戦の2日に桧山がサイクル達成である。そして、今岡が初球先頭打者HRを2試合連続・・・。離れ業です。投げるところがなくて、苦肉のリードで勝負を避け気味のボールを要求して、やっぱり今岡変態打ちでHRを打たれて、呆れ果てていた古田の顔が未だに忘れられません。今岡は7月、本塁打7・打点22・打率.458と月間三冠王で月間MVPを受賞(投手部門は井川)。7月8日には、マジック49点灯!7月は15勝5敗。とっとと、セリーグのペナンとレースの日を消してしまいました(苦笑)。
 しかし、やってくれるものですね。「死のロード」は。8月、ロードに入るとさっぱり勝てません。4連敗に5連敗と、しごく阪神らしい結果を残してくれました。ロード中(大阪D含む)は、4勝11敗。勝率が.267だから、暗黒タイガースよりも暗黒なロードでした。そうすると、阪神ファンは幾度となく裏切られた経験から心配性だから、貯金が8/16で「38」(すごいな・・・)もあるのに(ちなみに、シーズン最多貯金は、7/27の40!)、「まだ分からない・・・」となります。
 そんな不安を振り払ってくれたのが・・・恵みの雨?甲子園に帰還の初戦が雨で流れ、翌試合も、初回に1点先制されるくらいスタートでしたが、その裏に即座に金本の追撃アーチ!これで、暗いロードの雰囲気と呪いが晴れていった気がします。その試合をモノにした阪神は、そこから9月までの足掛け7連勝!一気に大転進で、最終章にむけ突き進むこととなったわけである。
 ・・・このままトントントンと決まってもよかったのであるが、そのあたりはさすがに阪神?9月はやっぱりうじうじしていました。ちょうど4カード連続で遠征が入っていてちょっとしたロード。ここで貧打に陥りまた勝てず(92年を思い出させるかのよう)。結局、うまく帳尻を合わせて、甲子園帰還初日となった9/15に、涙涙のサヨナラ勝ち(と横浜の健闘)で、やっっとこさ胴上げを達成した!いや、よかった!!涙というのはたやすいが、あんな子どもみたいにビービー声を上げてなくようなことはもうない・・・かもしれない?18年ぶりの優勝。歴史の重みを感じてもおかしくない月日が経っておりました。






(2003年)

 6年ぶりの阪神復帰を果たした久慈選手。もちろん、ショートでの定位置獲得を目指してのチーム内での競争がスタートするわけであるが、ショートはこの年(毎年だったが)の阪神で、もっとも注目されたポジションだったと言えるかもしれない。藤本・沖原・関本・秀太・斉藤に久慈の、実に6人がポジション争いを繰り広げた。もっとも、シーズン前は「ドングリーズ」と言われたとおり、信頼を得た上での競争という評価はマスコミからはうかがえなかった。
 そんな中で、経験と実績がダントツの久慈選手はアピール度が高かったし、ファンのアンケートでも一番名前が挙がっていたのであったが・・・。キャンプ入り後2週間が経過した、2/ 、右ひじの張りで戦線を離脱してしまうのである。久慈さんが不在となってからは、岡田内野守備コーチ(当時)の推挙もあり、藤本が正遊撃手に抜擢される。その藤本が4月に大爆発して完全に定位置を獲得することとなった。今となっては、仮定の話しかできないが、もしこの故障がなかったらその後もずいぶん違った展望が開けたかもしれない。
 4月・5月のチームの快進撃をよそに、久慈選手は2軍で調整を続ける日々となった。4月中ごろに、新聞に久慈選手のコメントが掲載されていた。曰く、「藤本ががんばっているからねぇ。でも、こうして頑張っていればいつか必ず・・・。」・・・「変わったな・・・」というのが個人的な偽らざる気持ちだった。前に阪神にいたときの久慈選手からは(おそらく)聞かれることのないコメントであるように思われた。それだけの歳月が経過していたと言うことか。
 そんな言葉を体現するかのごとく、1軍昇格の機会は5/27に訪れた。負傷の藤本に代わっての昇格であった。さっそくこの日に途中からショートの守りにつくと・・・球場から壮大な「久慈コール」が送られた。それは、久慈選手が軽く手を上げてもやむことなく続き、帽子を取って礼をしてようやく止むほどのものだった。みなさん待っていたんですねぇ。何度もここで触れているが、前の阪神時代の久慈選手の人気は、本当にすごかった。老若男女問わず。暖かく迎えられたということでしょう
 そして、絶好調のチーム内で存在感を示すことにすぐさま成功した久慈選手は本当に見事であったと思います。5/31の対巨人戦の大逆転の口火を切ったのは、久慈選手のヒットでした。このときは、1イニングで2回目の打席でもタイムリー2塁打を打ちました。とにかく、課題の打撃が絶好調で、出場10試合で4割をキープする状況。とうぜん、藤本復帰後も1軍に残り貴重なパイプレーヤーとしてのポジションを確保することに成功したといえるでしょう。
 そのなかで、まず忘れてはならないのが6/5の試合。今期初スタメンとなった久慈選手は、初回にいきなりのタイムリースリーベース!さらに、6回に追加点となる犠飛。なんとこの日の得点すべてを稼いで、晴れてお立ち台に上がったのである。伊良部との、同期だけど身長25cm差コンビのお立ち台が話題であれば、阪神では2061日ぶりのスタメンにしていきなりお立ち台、前日とこの日もあわせて古巣中日に二日連続前の打者が敬遠されて勝負されるという仕打ちへのお返しお立ち台。神がかり的な要素がいっぱいのお立ち台であったと言えよう。「めったにないぐらいの会心のヒットだったよ」(久慈選手)、「オービックリした!あいつの三塁打なんて初めて見た」(星野監督)(※ちなみに監督よ、それはうそだ。)と、笑顔笑顔の1勝であった。
 その後も、時にはバント要員・時には守備固め(特に7月は勝ち試合にはほとんど出てた)で、いいプレーを見せてくれた。ショートの守備はよかった。以前より守備はせまくなってしまったかなぁ、と思ったけれど、流れる動作・美しさは格段に洗練されたと思う。雨のグラウンドでの捕球プレーや、ピッチャー返しの球を抑えたプレーは、大変感嘆した。
 この年のもうひとつのハイライトは、やはり7/20のサヨナラ打だろう。途中からショートの守りで出た久慈選手は、延長11回1死1,2塁で打席に立つ。マウンドは広島のルーキーの守護神、永川であった。その初球、149km高めのストレートをレフトオーバーのツーベース、2塁ランナー生還!!ナインに追いかけられ、もみくちゃにされる久慈選手であった。この日は夏休み最初の休日だったこともあり、朝の8時開門というこれまた異常な日の活躍。本当に目立ったところでいい仕事をする彼であった。
 その後も、バント・守備要員としてチームを支え(9/3、広島市民でエラー(というか、記録員さん、それは厳しいでしょ)を犯してしまったが、その直後にファインプレーで取り返しましたね)、二度目の胴上げの輪に加わることができた。
 さて、個人成績はと言うと、終盤で下降ぎみながらも3割をなんとかキープ。そして、迎えた最終戦。8回に守備から入った久慈選手に9回、1死(2?、)3塁で打席が回ってきた。ここで凡打しなければ3割キープ、凡打なら2割へ転落というまさに瀬戸際。久慈選手は、レフトへ犠飛を放ち、打点1と共にめだたく3割をクリアしたのでした(しかもこの打点が、このシーズンのチームの最後の得点だった)。


◆4月頃は、「世界に一つだけの花」がヘビロテだったらしい。「No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly 1」のくだりが好きだったとか。」
◆その後名フレーズとして語り継がれる(?)こととなった、「9時に久慈」のボードが客席に登場!
◆7/20のお立ち台では、見るからに興奮した表情で「初球から悔いなく、思いっきりぶったたこうと」とコメントした久慈選手。しかし、翌日の新聞では、「ぶったたこう」が、「ひっぱたこう」「振り切ってやろう」あるいは「思いっきりいこう」などと変換されていた。やはり、そのまま掲載するのはちょっとためらわれる表現だったかも(^^;
◆母校、東海大甲府高校が、タテジマブームに乗ってか乗らずか、実に11年ぶり(?)の夏の甲子園出場を果たした。
◆月タイ11月号にて、テンピュールの枕を愛用していることが発覚。
◆なんと、契約更改ではまたしても保留!久慈さんのせいというか、前の秀太の交渉が非常に長引き、時間切れとなったためまた次に、となっただけのようだが。しかし、2回目の交渉では、「前に在籍していたときの功労も評価したい」という球団からのお涙モノのお言葉で、1回目提示よりアップ提示で更改。久慈さんもこれはうれしかったようだ。



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