歴史の山みち 朝日軍道について



- 併 山岳信仰と修験道 -

                 大江山岳会 顧問 鈴木博

はじめに
 今の朝日連峰縦走路を歩いてみて、その雄大さに心を打つが、この山塊にまつわる勇壮な戦国の歴史を秘めている事実を知る。

参考文献 
山形県総合学術調査会刊 「朝日連峰」
  地理班 
直江兼続と朝日軍道 渡辺茂蔵(記)1964年

朝日岳の歴史をたずねて刊
  第1編 朝日岳の山岳信仰と修験道  第2編 朝日軍道と朝日鉱泉 長岡香月 1984年

西村山地域史の研究 第4号 「朝日軍道について」 宇井啓



1.古書・縁起にみる朝日岳
(1)三代実録にみえる朝日岳
  「貞観十二年八月二十八日戊申 出羽国白磐神、須波神並従五位下ニ叙ス」
  ・白磐神=葉山  ・須波神(諏訪神)=朝日岳
  
三代実録
   日本国史の一つ、清和・陽成・光孝の三帝の時代、天安二年(858年)から仁和三年(887年)八月に至る30年間を記した史書五十巻、延喜元年(901年)藤原時平、菅原道真、大蔵善行など勅を奉じて撰す。

(2)朝日岩上由来記 貞観十戊子八月

 

 参考 由来記の書き出し

    『抑々 朝日岩上は天武天皇(673〜686)の御宇 白鳳年中役の優婆塞小角は

     …比国へ来臨御坐して野川口より登らせ玉ふ…』

 

@「いわがみ」→岩上、岩神、岩亀、祝亀、祝瓶

A五所神社(長井市寺泉)の縁起書写しと類似

   宝物、古器物、古文書目録にはない

B地名→野川口、桑沢口(桑沢)、身捨淵(三淵)

C山頂に凝灰岩の祠、土壇、古銭

D内容の一部

ア、      聖武天皇の御宇天平三年(731)川口へ一寺(朝日山岩上寺)の伽藍堂塔数十宇を建立し、山先達として三千坊軒を連ねて繁昌す 即ち川口寺と名づけ正別当とす

イ、      小朝日の麓という処に至り玉ふに数十丈の滝二筋流れ…

    小旭 = 御影森山

ウ、      来世の人を救わんがためにこの山を開かんことを誓う…

エ、      如来光 三尊弥陀 勢至観音現れ玉う

    如来光 御来光

山頂で霧がかかった時に太陽を背に立つと霧に自分の影が大きく写り、その周りに光輪が見える光学現象。ドイツ中部ブロッケン山(1142m)でよく見られることから“ブロッケンの妖怪”“ブロッケン現象”と言われる。月山で2002年10月17日に丸虹、三重丸虹の現象が見られた。

オ、      源義家に謀反した安倍貞任・宗任が追われて『…川口の三千坊に逃れ頼みけるに…』(天喜五年 1057)とある。

E若干の疑問点

ア、      後三年の役(寛治元年 1087)の戦後処理で川口に再建された寺院の名称と年代の記載がない。

イ、      作成された貞観十戊子年(868)は年号の誤りではないか。

戊子 ―  貞観十年(868) 延長六年(928) 永延二年(988) 永承三年(1048) 天仁元年(1108) 仁安三年(1168)

ウ、      縁起書

社寺の社格を高めるため作為があるといわれる。

  伝承 → 縁起書、由来記  縁起書作家の存在も

 

 

(3)吉川宥峰縁起

   白鳳年間(正式年号は無い。飛鳥時代と天平時代の中間で、奈良時代前期にあたる文化史上の一時代)役の優婆塞(小角 オズヌ)朝日岳開闢の記述がある。

        [西置賜西根村 五所神社社掌 青木家に伝わる]

 

2.山岳信仰と修行

(1)      庶民の自然崇拝

高山それ自体を信仰の対象とし、山に社殿が無くとも、遠方から遥拝した。

 大江町本郷諏訪原 諏訪神社 → 一の木戸(寛文五年(1665)社寺奉行への文書)

 大江町小清・田代 諏訪神社 → 中の木戸(正長元年(1428)創建 社領二石余)

 朝日町水口 → 観音堂

 朝日町布山 → 虚空蔵

 長井市 → 葉山山頂奥の院、野川上流 桑住平

 

(2)      山岳仏教の起こり

→ 修験道

朝日修験 → 鳥海、月山、羽黒、湯殿山と同一時代とみる

 

(3)仏教界の堕落(奈良時代末期)と刷新  山岳仏教を広める

    最澄  天台宗 → 比叡山延暦寺

    空海  真言宗 → 高野山金剛峰寺

 

(3)      修験宗(道)

    平安時代 山岳仏教に神仙道と仏教を取り入れた修験宗(道)が発生

    山野において霊験を得るための法を修する

    役の小角が祖、日本固有の山岳信仰の面影を濃く残す

    被髪、兜巾(ときん)、太刀、篠懸(鈴掛)、結袈裟(ゆいげさ)、笈、金剛杖、法螺

    護摩を焚く、呪文を踊す、祈祷を行う、難行苦行して神験を修得

 

3.朝日軍道の開鑿とその目的

    別の名称:庄内すく路(捷路 直路)、庄内新道、尾浦山街道、山街道

※捷路(しょうろ;近道の意)

    天正年間(1573〜1591)越中から雪の針ノ木峠を越え、信濃に至った佐々成政の壮挙に匹敵

    大型狩猟獣(熊、青しし=カモシカ)捕獲の狩猟路と朝日修験者が登った修験路の結びつき

 

(1)関が原の戦い前後の出羽の大名と所領

    慶長三年(1598)正月、蒲生氏郷の死後上杉景勝が旧領を承る。

越後から会津に移封(会津四郡、仙道七郡、長井、田川、櫛引、遊佐、佐渡の三郡を合わせ百二十万石)

    各大名の勢力分野と確執

・置賜  上杉家の智将直江山城守兼続、在米沢城

   米沢・庄内を併せて三十万石

・村山  最上出羽守義光、在山形城

   最上義光と直江兼続は隣国関係、宿縁の不仲、庄内領をめぐり幾度となく戦闘を交わす。

    庄内(東西田川、飽海の三郡)武藤氏の根拠地

義長の時代に悪政、民心離反 四周の雄藩出兵し平定を試みる。

 

(2)上杉と最上

    出羽最上義光と越後上杉景勝の武将で村上城主本庄越前守繁長 再三にわたって兵火を交える。結果、庄内は上杉家の掌中に

    最上対上杉の宿怨深まる → 景勝の移封後も続く

    直江兼続が治める庄内 → 最上義光にとり忘れ難い土地

    豊臣と徳川の間にあって

          上杉家 → 豊臣家と好意的

          最上家 → 家康の恩顧を受け、豊臣家に恨み

    上杉家が会津に移封された半年後、慶長三年(1598)八月秀吉没す。

   天下の形勢物情騒然、家康の台頭

   上杉・最上の角逐一層激しさ加わる。

 

(3)朝日軍道の開鑿

  @直江兼続の領地  米沢と庄内は遠距離

   会津−越後−村上(新潟)−庄内

   会津−小国−村上(新潟)−庄内

   このルートをとると 迂遠の路程 といえる。

 

    米沢の北部 − 最上氏

    西北の日本海側 − 嶮しい山地

    近接路(上山、山形、六十里越街道)は最上氏領 → 通行不能

    貴重な庄内の領地 → 孤立状態、最上氏の侵入が予想される状態

 

 A一朝有事に備える軍用道路は必然的

    朝日の山々を結ぶ通路 孤立化を防ぐ近い通路【改良・開鑿】

情報収集 狩猟路、修験路、連絡

    改良要件 道幅の確保と曲形(まがりなり)の改良

       乗馬、荷駄馬、葛籠馬(はたごうま)などの軍馬が通れる

       急勾配地(急坂)→幾多の葛折

       強風時に備える →稜線上は避ける

       水場 → 人・馬の休憩所、寝所、番小屋

B朝日軍道の完成とその路程

 

草岡 − 桶佐堀 − 葉山(1,264m)− 焼野平 − 御影森山(1,534m) − 大沢峠(1,434m) − 平岩山(1,609m) − 三十三曲坂 − 大朝日岳(1,870m) − 西朝日岳(1,814m) − 竜門山(1,687m) − 寒江山(1,695m) − 三方境 − 狐穴 − 以東岳(1,771m) − オツボ峰 − 戸立山(1,552m) − 茶畑山(1,377m) − 芝倉山(1,221m) − 葛城山(1,121m) − 高安山(1,244m) − 兜岩(1,068m) − 猿倉山(997m) − 鱒淵

 

 

 

4.関が原合戦と余波的戦闘の出羽合戦

(1)  米沢城主 直江兼続の三方攻め

    慶長五年(1,600)九月五日

    山形城攻囲態勢

中央軍 長井−荒砥−畑谷城(自ら率いる)

左翼軍 中山口−上の山城

右翼軍 五百川−左沢

 

    中央軍の兼続−畑谷城攻略、長谷堂城に迫る 城将志村高治の強い抵抗

 

兼続の使者−東禅寺(酒田)城主 志駄(田)修理義秀に派遣、大浦(大山)城主の下次右衛門吉忠と共に最上川口と六十里越の二方から相呼応して最上軍の背後に進発するよう指示。

志駄軍−庄内から南下、谷地・寒河江・白石を攻略、左翼軍と合流し左沢に迫る。最上山形城は目前。

 

    最上義光軍−長子義康 仙台伊達政宗に救援依頼、叔父政景三千の兵を率い長谷堂城で直江軍と戦闘

 

(2)  関が原の戦いと出羽合戦

 

    兼続軍

    九月十日、合戦たけなわの時、関が原合戦で西軍大敗の飛報が直江に伝わる。兼続は天下の形勢決したのを察知、直ちに狐越街道を引き返して軍を米沢に戻す。

    志駄義秀軍

    東禅寺から進撃したものの、やむなく庄内に戻る→米沢と孤絶

    山形義光が再三降伏を促すも拒絶、最上義光は長子義康を総大将にして六十里・藤島・余目を落とし、東禅寺郊外に迫る。ついに大軍に抗しきれず、三月四日開城。

    志駄義秀の朝日雪中山越(山形県史)

 

慶長六年辛丑(1601)三月四日、義秀東禅寺城を守りて屈せず。最上義光・義康・志村高治等をして攻め込む。秋田由利の諸将と合して四面攻撃、下吉忠 義秀を諭し開城退却。雪の朝日山中を過ぎ米沢に至る。

 

    最上義光による東国(出羽)の平定

志村高治をして東禅寺を守らしむ。更に小野寺義道の横手城を攻めこれを降ろす。これによって東国(出羽)全く定まる。

 

5.朝日軍道アレコレ

(1)  山街道の順路と地名

  鱒渕より伐り始め 〜 岩越峯渡 〜 早坂 〜 兜の明神 〜 高安の明神(修験の名残) 〜 今野栄次郎自害の所 〜 葛木天狗松 〜 鉄砲休 〜 六十三曲 〜 馬背 〜 さくら世と申す妾の死したる所 〜 駕休幕張り松 〜 五葉松 〜 枝切坂 〜 荷物攻め平 〜 種ガ島鉄砲筒払ノ森 〜 米沢領分長井領草岡ヲ出テ是ヨリ会津御城下迄二十二里 檜原越ニテ御通行

 

 

(2)  朝日軍道をめぐって

内密裡に進めた間道開鑿であったが、山麓の狩猟者あるいは修験者などに知られずにいることはないと創造する。多数の工事人夫、馬匹の移動、番小屋建てなどで発見されやすい → 軍道をめぐる様々な動き

 

    最上義光への通告

朝日山間道開鑿を最上義光に通告した時の安堵状

今度 景勝軍勢 朝日山梺閑道伐開 乱入之旨令注進状 神妙之至

仍任旧例朝日別当 永令修務 国家鎮護可抽丹誠者也

           慶長五子年八月一日  義光 花押

           大沼別当大行坊

    最上と上杉の対応

    最上側

「番小屋打破之事 六人者打殺シ 壱人ハ生取仕縄掛ケ参候事」

    上杉側

「新道破申ニ付白倉江長井ヨリ夜討之事白倉之家共ニ夜討入候テ火ヲ掛ケ立木ヨリ是ヲ見ル」

 

6.合戦後の武将と捷路

(1)  武将

上杉景勝 徳川家康と和睦、米沢三十万石に移封

最上義光 五十七万石の知行高、庄内も手中に

志駄義秀 朝日軍道を往来、慶長七年荒砥城代、後米沢藩奉行

(2)  捷路としての朝日軍道

厳しい自然環境の中で、幾多の犠牲を伴った朝日軍道も、軍事的緊張薄らぎ、東国(出羽)が全く定まったことから使用の必要性がなくなり、軍(いくさ)の道は廃道になった。

 

 

おわりに

    アルピニストの縦走路の一部、西朝日岳と以東岳斜面附近に電光形の道形を降雪初期に見ることができる。

    戦国大名の着想のすばらしさを観る

    軍道に関する史料と言い伝えが少ないが、短期間の利用であっただけに惹かれるものがある。

                    “歴史の山みち”としての価値を踏まえ、その一部を瞑想して歩く楽しさをあじわったら如何ですか。




朝日軍道関係 リンク

野川の郷(長井ダム工事事務所ホームページ)

長井ポータル 観る 歴史の道朝日軍道