雑務




あと一分…

遅々として進まない腕時計を見ても秒針は音も無く、ツォンは数を数え始めた。

50…
眠気はピークに達していたし、今日も相変わらずこの街はねっとりと
絡みつくような空気しか肺に送らない。
呼吸するたびに肺を焦がすような暑さにわずかにネクタイの結び目を引っ張る。
これから人殺しを始めるというのに、シャツの一番上まで留めたボタンを
意味もなく指で確かめると気分はますます冷徹になる。
埃っぽい空気を押し戻すように静かに息を吐く。
僅かに耳にかかった髪を払う。
ツォンは、改めてつや消しされた黒いグロッグを握り直した。
差し込む西日に埃が反射する廊下はこれから起こることも知らず平和的だ。
安アパートの長い廊下は薄汚いカーペットが布切れ同然に敷かれていたが
それはもう茶色に変色していてもともとの色がなんだったのかさえ分からない。
遠くの窓枠に引っかかったまま動かない酒瓶がみどり色の光を透かして
軋む床を彩色していた。

40…
弾倉には17発、銃身に一発。
軽量化されたグロックの腹一杯に詰めた弾丸をばら撒けば
今日もあっさりと人が死ぬ。
予備のマガジンも必要ないだろう。
今日、突き止めたアジトはせいぜい5人。
同時刻一斉強襲。
今頃伍番街の同じような安アパートでレノとルードが自分と同じように
時計を見詰めているだろう。
ふと、視線を上げた。
イリーナが少しく紅潮した顔つきでレミントンを握っている。
緊張の為か銃を握る細い指が震えていた。
あれで無事にコッキング出来るのか、とツォンは綺麗に整えられているイリーナの爪を見た。
その視線に気付いたのかイリーナが真剣な眼差しで見詰めてくる。
(どうかしましたか、主任)
声は出さず、目線だけでそう言ったイリーナになんでもないと軽く首を振ると
彼女の唇が僅かに横に引かれた。
成長したのか慣れてしまったのか。
以前の彼女は少なくともこんな場面で笑わなかった。

30…
部屋の中からは相変わらず低俗なテレビ番組が流れている。
ボソボソと談笑する声に緊張は微塵も感じない。
何故彼らは神羅を脅かすような組織なんかに荷担してしまったのだろう。
調査の結果彼らには家族も仕事だってある。
自分の子供を施設に預けてまで従事するテロリストの仕事の果てに一体
何を夢見ているのだろう。部屋の中にはまだ16の子供もいる。
何故だ。
拷問の末吐かれる言葉は悪態ばかりだ。
声高に叫ばれる彼らの主張だって結局は…
「主任」
押し殺した声に目を寄越すとイリーナが廊下を睨んでいた。
「こちらは大丈夫です」

20…
「よし」
窓を一瞬見た。
流れる雲は白だが、落ちる日につられてそれは赤黒く染まっている。
骨のように乱立するアンテナが十字架のように影を落としていた。
罪など恐れるものか。
自身はとうに地獄に落ちている。

10…
イリーナが勢いよく銃をコッキングした。
バックショットが装填される重々しい音が鳴り響く。
杞憂だった。彼女も立派なタークスに違いは無い。
イリーナの冷ややかな流し目に一拍置いて、自分が蹴破った扉と
千切れ飛んだ柔なチェーンが西日に反射して銀の光を振りまいた。
…ツォンの脳裏に一瞬、コスタの眩しい波頭が蘇る。
美しい刹那の幻惑。
彼の為?…まさか。自分の主は今も変わらずプレジデント、ただ一人だ。
だが全てが明るいあの海岸線で、彼は自身のつまらない人生なんぞ
その足元に投げ出してもいいと思う程美しかった。
白い幻視は短いからこそ強烈にツォンを誘う。

思考停止0。

…レミントンの聞き慣れた銃声が部屋に轟き渡った。

 


散弾の銃声音は大きいはずだが、テレビの中の空虚な笑い声が妙に耳についた。
イリーナは無表情に部屋の真ん中に陣取った2人にショットガンを打ち込む。
腹に響くような重い反響音が二度。
衝撃にのけぞる男の手の下には魔晄炉の配管図。
銀の指輪を嵌めた手が指し示している参番魔晄炉の地図がみるみる内に血に染まる。
取って返したイリーナは重症のもう一人の男に情け容赦なく止めの一弾を撃った。
殲滅。
情など無用だった。
それを横目にツォンはキッチンに突っ立った女の眉間に穴を穿つ。
女は逃げる事もせず人形のように銃弾に突き飛ばされるとそのまま温かなキッチンに転がった。
…きつく束ねた女の綺麗な髪は乱れもしないまま。
「ヒッ」
声の方向に首を捻ると横のドアから顔を出した若い男が倒れた女を見て
一目散に窓に向かって走った。…ここは4階だというのに。
バスン、と男のすぐ横の木枠がはね飛ぶ。
イリーナがミスショットとは珍しい。
どうやら彼女は僅かについた返り血に手が滑るようだった。
撃ち損ね、僅かに眉を顰めたイリーナが再びリロードする。
それを待たずしてツォンが引き金を引き絞った。
不穏な頭など吹き飛ばしてしまえ。
飛び散る脳漿と血を見ながら馬鹿な奴らだ、と心の中で繰り返した。
何に苛付いているのか自分でも分からなかった。

 

その時、部屋を劈く轟音が轟いた。

 

悲鳴も無く糸を切ったようにイリーナが床に崩れ落ちる。
「イリーナ!」
「銃を捨てろッ捨てろよ!!」
少年だ。
「その女と同じようになりたいのか?」
ギリリと歯を鳴らして少年はツォンを睨んでいた。4人も仲間が死んでいるのだ。
「捨てろ!」
床に投げ出されたイリーナはピクリとも動かない。
「分かった」
恐慌で唇が戦慄く少年を見ながらゆっくりと銃を床に放る。
両手を挙げると少年が憎悪の目でトリガーに指を掛けていた。
足が震えている。
きっちりと磨かれている靴を見るとスラムにも関わらず育ちはそこそこ良いようだ。
…故に少年は迷っていた。
「何故お前たちは神羅に逆らうんだ?」
「だまれ!」
「何故お前はテロリストに組するんだ?」
「うるさい!」
「─最後に一つだけ教えてくれ」


「…お前はコックをどうしたんだ?」

 

突然薄い笑みを浮かべたツォンに少年はビクリと気圧された。
場違いな言葉を吐いた黒服の男にとてつもない恐怖が募る。
ゾッと総毛だった少年は固く目を瞑ったままトリガーを思い切り引き絞った。
…が、弾は出なかった。
硬いトリガーはそれ以上引き込めなかった。
「?!」
「もう一度撃鉄を起こしたのか、と聞いているのよ」
イリーナのコルトが、無知な少年に答えのように吸い込まれていった。

 

 


「シングルアクションは初めてだったのでしょうか…」
左肩を押さえたイリーナが小さく呟く。
馬鹿らしい。
ツォンはそれには答えず、袖元に隠していたナイフを弄びながら
「本社に帰るぞ」とだけ言った。