空気が違う、と思った。

夏は溶ける様に暑く、冬は凍りそうな程寒いミッドガルは束の間の秋を楽しんでいた。
相変わらず昼間は茹だる様に暑いが、しんしんと夜が近付く夕刻は
以前とは違い明らかに肌寒くなってきている。
長い長い西日のオレンジ色に照り付けられながらクラウドはゆっくりと歩いていた。

空気が昼間の暑さを持ったまま地表に落ちてくる。

太陽のギラギラとした輝きに目を開けていられない程なのに
クラウドはふと、今日の夜に雨が降るな、と確信した。
夕日はこんなにも凶悪に輝いているのに、空気が靄のように重かった。
真っ赤な初秋の空は滴り落ちそうだ。


こんな日には絶好の場所があった。

 

 

…その場所は今はもう無い。







  誰か この世に君がいない事を 僕に証明してよ 






雨音はしないのに排水溝を流れる激しい水の音で窓を開けた。
じとじとと暗鬱な空気と、外の冷たい空気が混ざり合って部屋に入り込む。
「雨が降ってる」
独り言のように呟きながら、クラウドはマッチを擦った。
群青の室内に一瞬生き物の様に炎が踊り、クラウドは面白くなさそうに手首を軽く振った。
その一瞬で炎は消え、かわりに蛍のようにぽつんと明かりが灯る。

「俺の部屋で煙草を吸うなって何度言ったら分かるんだ」

溜息と共に部屋の奥からスーツの上着を脱ぎ捨てた青年が現れる。
…ルーファウスだ。
「うん」
と、クラウドはわけのわからない返事を返して青年を見ようともせずに窓の外を眺め続けた。
広いテラスの奥には目も眩むような夜景が広がる。
雨に濡れたミッドガルはどこもかしこもつやつやとビロードのようで、いつも以上に輝いて見える。
雨滴に弾かれた光の粒が瞬く。
遠目にそれらは美しいが、近付けば何のことはないただの鉄骨と魔晄製の電気で、
煌めくダイアとルビーは渋滞車の安いランプだった。
人間だってこれと大差はない。近付きすぎると余計なものばかり見えてくる。
は、と気だるげに紫煙を吐く。

─俺は遠くから眺めている方が性に合ってる。

「クラウド」
青年の声。再度の注意だ。
禁煙しているならどうして彼の部屋には灰皿があるんだろう。
一度思い切って聞いてみたが「俺は使わない」と簡単に返されてしまった。
(つまり俺以外の奴との関係って事なんだろ)
いい気持ちはもちろんしない。自ら出向いて来たがやっぱりこの部屋は嫌いだ。
(…この部屋の持ち主も嫌いだ)
クラウドは本心を隠すかのようにその部屋では無理に煙草を吸った。
まるで、それは自分の灰皿だ、と主張するように。


ルーファウスはそれに気付いているが故に咎めはするが止めはしない。


ずい、と彼に陶器の灰皿を腹に押し当てられた。
件の灰皿だ。
俺ではない誰かの為の灰皿。
「いい加減にしないとここから落っことすぞ」
暗闇の中でも淡く輝く目をクラウドに向けながらルーファウスは軽口なのか
それとも本気なのか分からない程淡々と言うとあっさり離れた。
クラウドのいる部屋の明かりは点けないまま、隣室に明かりが灯る。
細く棚引く煙草の煙はちっとも美味しくなんかなかった。
「なあ、ルーファウス」
手持ち無沙汰な唇に、ふと、彼の名を乗せてみた。
彼の固有名詞は俺の舌にも唇にも滑らかに優しいけれど。
…きっと彼は答えない。

糸の様に細い雨脚が次第に強くなっていた。

 

 


「…分かってるよ」
「もうここで煙草は吸わないってば」
もう何度繰り返されたか分からない台詞をそのままに、彼に口付ける。
苦い口付けに僅かにルーファウスの眉が顰められた。
「もういい分かった」
「?」
軽い触れ合いに戯れていると不意にルーファウスが諦めたように言った。
「お前にはそう言う事はしてもらいたくなかったのに」
はあ、疲れた溜息。

…勝手だな、と思う。

「何の事?煙草の事だろ?」
「ああ、そう。分かってる。ただの俺の我侭だ」
言うなりルーファウスから深く口付けられた。
さっきまで吸い込んでいた嫉妬やら意地やらを拭い去るようなキス。
カッと全身の血が熱く沸騰した。
「…」
息を吸い込む為に顔を僅かに逸らして離れた彼を引き掴む。
彼の金色の髪を乱して、白いシャツに皺をつけて。
もっと。
夜の真っ暗な群青の部屋の中で、どうしようもなく彼が欲しい。
彼は荒い息の中で「満足なのか?」と、喘いだ。
俺は泣きそうな声で「そうだよ」と、答えた。

雨音なんか聞こえなかった。
彼がいれば。
彼がいればそれで。


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…それから世界が半壊したのは一年とちょっと前。
彼が消えたのも一年とちょっと前。
俺は随分前から、もう煙草を吸う必要もなくなってしまった。
あの灰皿の行方も分からないまま、俺は二度目の冬を迎える。
ただ一人。




…昔とは違い、今は耳朶を穿つみずおと 
誰か この世に君がいない事を 僕に証明してよ
過去の断片が頭の片隅で泣いていた