Do It Yourself

 

 彼は潔い意味を取り違えているのではないかと時々思う。
ローデリヒの住む家は大きいがそれに負けないくらい古めかしい。
電気が歴史に登場する以前に建てられた家なので蝋燭だけでは薄暗く空気も淀んでいる。
家人にとってはそれでいいのかもしれないがたまに訪れるとぎょっとするくらいだ。
もう蝋燭を取り替える使用人もいないのだからと渋る彼を説き伏せて電気を通したのは自分だったが、それでもこの家には光の及ばない箇所がある。
「あら、ルートヴィッヒ。どうしたのです?」
「少し雨を凌がせてくれ」
急な夕立に気の進まぬ彼の家に向かうと思いの外室内は明るかった。
暖炉に火がくべられているからだ。
(暖炉か…)
彼の匂いがするタオルに包まれ、ちょうど時間ですので、と渡されたコーヒーを啜ると遠くで雨だれが落ちる音が聞こえた。
「…雨漏りしているんじゃないか」
「そうかもしれませんね」
どうもローデリヒは生きていく毎に増える不都合を受け入れすぎていてどうにかしてそれを解決するよりは、折り合いをつけて妥協するほうが性に合うようだった。
 彼の中では雨が降ったら家は雨漏りするものなのだ。
「今度業者に見せた方がいいぞ」
「そうですね…」
「ただでさえ古いんだ。柱が腐ってしまう」
どの箇所だ、と聞くと、でも今すぐ悪くなるわけではないでしょうとの答え。
「だからって放って置いたらこの家が持たないぞ」
「まあ…貴方という人は本当に頼もしくなってしまって」
ローデリヒはそっと指を額に付けると唇を歪めて咽喉の奥だけで笑った。
「…今すぐは少し難しいですね」
何故、と言おうとして言葉に詰まる。
金の工面だ。すぐに思いついた理由を彼にぶつけるのは憚られた。
いざとなれば引っ越しますよ、と心にもないことをローデリヒは呟いた。
その合間合間に屋根裏から伝わった雨だれがバケツや花瓶や琺瑯(ほうろう)の器に落ちる音が聞こえる。
「俺でよければやってみるが」
そうして頂けると助かります、とローデリヒは疲れたように笑った。


「あまり無理はしないで下さい」
 数日後、屋根へ掛ける梯子をこれまた黴臭い物置から引っ張り出すと後ろから心配そうな声がした。
逆光で表情は見えないがどうも彼は命令慣れしている為かあまり言葉通りには聞こえない。
「任せておけ」
むしろますます自分がなんとかしなければ、という気持ちになってしまう。
それも手管だとしたら立派なものだ。
少なくとも自分には出来ない芸当だ。
「お前は家事でもして待っていろ。どうせ今日一日でどうなるものでもないだろう」
今日はただの確認だ、と放っておくとずっと庭から屋根を見守りそうなローデリヒに声を掛ける。
先日の雨漏りの様子からどうも修繕箇所は一箇所二箇所ではなさそうだった。
「…そうですね…」
先日の約束を違わず館を訪れた自分を出迎えた時とは違って、案外素直にローデリヒは引き下がった。
庭をふらふらとされるよりは良いと思ったのもつかの間、屋根に登ってしばらくすると6本ある煙突の一つから黒い煙が立ち昇った。
「……」
そして相変わらずの爆発音。続くのは打撃音に破裂音。
耳慣れない謎の音まで聞こえる。
「本当にあいつは不可解だな…」
屋根裏の雨染みから推察した瓦の位置と破損状況を一つずつ丹念に調べ、その修復計画を頭の中で整理する。
修復するに必要な日数と道具と原因とを。
うろうろと屋根上を歩き回りながら腰に挟んだ小さな黒革の手帳にそれらを書き込んでいるとやっと階下の騒音が止み、菓子らしい甘い匂いが漂ってきた。
「お茶にしませんかー?」
昨今聞いたことがない彼の大声は屋根の上までよく通るが語尾が間延びしている。
それを頭の片隅で兄と比べてルートヴィッヒは手帳を仕舞い、短く返事をした。

 

「俺が上にいる時はオーブンを使わないでくれないか」
彼お手製の焼き菓子を口に放り込む。
生地には杏のジャムが入っており噛むと柔らかく舌の上で崩れた。
ローデリヒは渋面だ。
「何故ですか」
「どうしてこの菓子には焼き焦げがないのに煙突からは黒煙が上がるんだ」
「私にもわかりません」
「俺が煙まみれになるからオーブンは使わないでくれ」
「お菓子はどうすればいいんです?」
「俺のことは構わなくていい」
そう言いつつも手は菓子に伸びる。
手についた粉砂糖を舐め取るとローデリヒがじっとそれを見詰めた。
「如何です?」
「菓子は相変わらずうまいが…」
「そうでしょう。この杏はトルコから取り寄せました」
簡潔な感想にも関わらずローデリヒは満足げだ。
わざわざ外国から果物を取り寄せ、それを何時間も煮詰めてジャムを作り菓子に混ぜる工程は酔狂と言っていいくらいだったが、ルートヴィッヒは黙っていた。
確かにこれはちょっとないくらい美味しい。
「オーブンの件は考えておいた方がいいですね」
ルートヴィッヒの食欲にすっかり気を良くしたローデリヒが目を細めてコーヒーを啜る。
「そうしてくれるとありがたい」
今度はいついらっしゃるのです?
週末、とルートヴィッヒは答えた。

 

 なんのことはない。ローデリヒの言う対策とは前日にトルテを焼けば文句はないでしょう、というものだった。
屋根に登りとりあえずの応急処置をした後、以前よりもまた複雑な工程を経たトルテが目の前に鎮座するとルートヴィッヒは思わず唾を飲んだ。
「またお前は…。他で節約してもこういう所で使ってしまったらなんの意味もないだろう」
「お金には使いどころ、というものがあるのです。それにこれは貴方のお駄賃なのですから気にしなくていいんです」
言いながら長く波打ったケーキ・ナイフがトルテを等分に切り分けていく。
 わざと自分を子ども扱いする物言いは少しの懐かしさと苦さがある。
「だが二人では明らかに多いだろう、これは」
トルテの上に乗る艶のある香り高いチョコレート。真っ赤な瑞々しい赤スグリ。
銀色のナイフが切り分けた断面にはふわふわとした白いクリームがついている。
「お包みしますよ。どうせ家にもう一人いらっしゃるんでしょう」
「む…」
実際彼のトルテは魅力だった。
屋根の修繕は思ったより骨が折れたが、それが終わると毎回違ったトルテが二人きりのテーブルにお目見えした。
果物をたくさん使ったトルテは輸入元との折り合いが良ければ登場したが
ほとんどはミルクやクリームやチョコレート、コーヒー味のムースやバタークリームにハーブやスパイスといったところだ。
舌に濃く、咽喉に甘いトルテや焼き菓子、リキュールに漬けられた果物に氷菓やパンケーキを益体もない世間話をしながら
コーヒーと共に食べることはルートヴィッヒの新たな楽しみの一つになった。
 以前、彼と同居生活をした際もそれらを食べる機会はあったが、当時は戦時中の折であり今日のような贅沢とは比べるべくもない。
そういった丁寧な工程の果てに作られた小さな楽しみを、ローデリヒ自らが切り分け供する所作を眺めるのもまた楽しかった。
明らかに彼は手馴れていて、それを見詰められることにも慣れていた。
一家の主としてのその仕事がどんな意味を持つのかも十二分に知っていた。
ナイフを走らせる自分の手つきが待っている者にどんな思いを抱かせるのかも。
だから殊更彼はゆっくりとトルテを切り分けた。
 口の中に知らず唾液が溜まる。
それを飲み込むと咽喉仏がやけに大きく鳴った。
真剣にケーキ・ナイフを握りトルテに一筋切り込んだ彼がこちらを見ずに笑う。
銀色のナイフの背に乗せた指が白く、爪が水飴をかけたように光り輝いている。
「もう少し、お待ちになって下さいね?」
囁くようにローデリヒは言う。
ルートヴィッヒは大人しく待った。
 まるで自分が食事前のアスターとブラッキー、ベルリッツのようだと思いながら。


 困ったことには屋根は段々と直っていくのだ。
真面目にローデリヒの家へ通い、屋根を直し、菓子をご馳走になる時間を過ごしたおかげで着々と雨漏りは直っていった。
再点検で見つけた軽い破損の兆候まで完璧に直してしまうとローデリヒの家に雨漏りの音は聞こえなくなったが、
自分の心からは何かが抜け落ちていくのが分かった。
「屋根は直ったんだろ?」
弟が持ち帰ったトルテをぞんざいに口へ運ぶとギルベルトは言った。
「え?」
「屋根だよ屋根。雨漏り」
傍らに置いたノートパソコンを覗き込みながら答える。
「どうして分かるんだ」
ルートヴィッヒは読みさしの本を閉じた。
驚いて瞬きすると彼の兄が顔を上げた。
「だって手帳にスケジュール組んでんだろ。この前俺に相談してきただろうが」
雨漏り修理計画の妥当性を兄に承認して貰ったのは覚えていたが日付まで覚えているとは思わなかった。
「ああ…。もうすぐ終わる」
「じゃあ遅れてんだな。さっさと帰って来いよ。いつまでもあいつの小間使いじゃねーんだし」
とは言いつつもギルベルトも毎回ローデリヒの作った菓子は残さず食べる。
「そんなつもりではないが…」
「なんだよ。さっさと切り上げないとあいつ床下まで掃除させるぜ」
正直その手があったかと一瞬思ったが思い直した。
 兄の赤い目が思いの他まっすぐに自分を見ている。
「悪いこと言わねーから早く戻って来いよ」
ヴェスト、と兄が自分を愛称で呼ぶ。
確かにその通りだ、ともう一人の自分が答える。
でも、何かが自分の胸から少しずつ漏れ出て止まらないんだ。
もう屋根は直ったのに。
もうあいつの家からは雨の音は聞こえないのに。
この穴は彼の作るあの甘い菓子で収まるのだろうか。
収まると良いのだが。

 

 次の週末は雨が降った。
バケツと花瓶と琺瑯の器を持ったローデリヒは家の中で耳を澄ました。
「雨漏りがしないというのは素晴らしいですね」
「信用してなかったのか」
当日オーブンを解禁されたローデリヒが相変わらずの爆発音の末作成した砂糖菓子を突付きながらルートヴィッヒが答える。
「信用していなかったわけではありませんが、もう少しかかるかと思っていたので」
寂しくなりますね、ローデリヒが言う。
「何がだ」
「3時に私のトルテを振舞う相手がいなくなります」
「迷惑でなければたまには行くが…」
「あの人に止められているでしょう」
目蓋を上げるとローデリヒは続けた。
「全く、分かり易過ぎるんですよあの人は」
「…兄さんは悪くない」
「貴方にとってはそうでしょうけど」
はあ、とローデリヒは溜息をついた。
「大丈夫ですよ。貴方を取って食やしませんよ」
馬鹿馬鹿しい、と彼は肩を竦める。
「……」
「それよりお菓子はもう少し如何です?」
差し出す彼の手の内にある砂糖菓子。
菓子に彼のわずかな体温が加わり、表面に振りかけてある粉砂糖が溶けて芳しい甘い香りがする。
兄の言葉は正しい。
全く正しい。
「ああ、もう少し頂こう」
 彼手ずから渡される砂糖菓子を受け取りながら、休止していた趣味の菓子作りを再開する羽目になりそうだとルートヴィッヒは思った。

 

 

 それからしばらくして予定のなくなった週末にキッチンにガラス・ボウルや泡だて器、ゴムベラや秤を並べだした時兄は訝しんだ。
「どういう心境の変化だよ」
それは長い戦争が終わった後、何年も止めていた密かな趣味だ。
ルートヴィッヒは振り返ると言った。
「D.I.Yの精神だよ、兄さん」
この空腹感はおそらく自分でどうにかするしかないらしい。
その上でどうにもならないという確証を得てから、彼の家のドアを叩く事にしよう。
──その理屈のためにこれから普段の料理よりもはるかに多い手数を経て作られ、兄と自分の胃の中へ収められるであろう
甘いお菓子たちにルートヴィッヒは心の中で詫びた。