五月の庭


 彼は一よりはニ、二よりは三を欲する人だ。
だからほんの少しの譲歩でもしてはならない。
戸口に足を立てて、外を窺う隙間に身体を滑り込ませることは彼の得意とするところだ。
そのくせもったいぶった左手には大きな花束が握られているらしく
間一髪閉まったドアに挟まれた花弁がはらはらとローデリヒの重々しい玄関に散った。
「いつ私が貴方を呼びましたか?」
無粋な客人に家主はあからさまに嫌そうな顔をした。
「頃合かと思って」
言い終わりに騎士のような所作で花束が差し出される。細い茎にはリンネルの白いリボンが巻いてあり
てっきり花屋で調達したと思われた大きなブーケはフランシスの家で何気なく見知った草花が束ねてある。
ローデリヒはおや、と思った。
「どうしたんですか突然」
「これは代わりに」
花束は春先のこの時期、彼の国で咲く大小様々な花が束ねられていた。
色も形もまるで一貫性がない。
自分に贈るにしては随分私的な贈り物だ。少なくとも彼とはそういった間柄ではない。
 嫌な予感がしてローデリヒは差し出した手を下せないまま、ふと無造作にまとめられた
フランシスの髪の毛にまたもやおや、と思った。
夜会などで見る綺麗に梳かし込み絹のリボンで結わえた髪型ではなく、彼自慢の金の髪がまるで見当違いに
あちらこちらへ自由に跳ねるのを花束と同じリンネルのリボンでくくっている。
服装も襟を緩め、ローデリヒにしてみれば人の家に来るにしてはだらしがない格好だと思う。
 いつまでも受け取らないローデリヒにフランシスは頓着せずに春の草花を押し付けた。
「お前の庭を見せて」
ね?と、いつもは皮肉に歪められる口元が微笑む。
毒気を抜かれたようだ。
「何故連絡をなさってからお出でにならないのです」
仕方なく、ローデリヒは押し付けられた花束を抱え直した。
鼻腔をないまぜになった草花の芳香が過ぎる。
「まあまあ。散歩のついでにお前の家の薔薇が見たくなったんだよ」
言いながらフランシスの手が腰に回る。
払い除けたかったが、両手は零れ落ちそうなブーケを抱えている。
「やめてください。案内しませんよ」
そのまま撫でるように下に降りるかと思ったフランシスの手は、しかしエスコートの形を取った。
 今日の彼はどこかおかしい。
そこでようやくローデリヒは確信を持った。


 5月の庭は騒がしい。
手ずから植えた早咲きの蔓薔薇が出迎える庭園は花盛りで、ビオラやクロッカスが群生している横で
真っ赤なアネモネが思い思いの方向を向いて咲き、秋に実をつける果樹の枝は慎ましやかな
白い花を雪のようにつけている。確かに頃合だった。
自分の瞳の色と同じ紫色のリラの花が、新緑にこぼれる日光と共に頭上に降り注ぐ。
植えた覚えの無い国花さえも高地ではないのに色とりどりの花の間に散見していた。
忙しく巣と花を往復するみつばちに導かれるように着いて行くとそこが薔薇園だった。
品種改良の為のスピーシーズ・ガーデンにはフランシスさえ見たことがない薔薇が大切に育成され、
今年もかの似非紳士国との熾烈な品評会へ向けての大輪の薔薇があった。
彼とのこういった話は尽きない。
熱心な愛好家でもある彼は敵陣視察のような真剣さで自分の家に咲く5月の薔薇を見ている。
鑑賞の為の庭へ案内すると自分の家でも見慣れているだろうに、フランシスは見るからに浮き足立った。
「あれとあれを頂戴。それもひとつ」
途中から面倒になって年代物の園芸鋏を手渡すと嬉々としてフランシスは薔薇を切り取った。
あちらこちらの品種の違う薔薇を見分け、丹念に出来を確かめながら手折る彼の後姿を見守る。
花から花へ渡る彼は気まぐれなみつばちのようだ。見守る分には可愛らしいが、刺されるのは遠慮したい。
 自分のシャツには先程押し付けられた花々の花粉や花弁がひっそりと付いていた。
あれだけの量の草花を、一度に自分の庭から切り取ったら彼の庭はずいぶん寂しいものになっているだろう。
ローデリヒは嵐が過ぎ去ったかのような彼の庭を想像した。自分とはまた違う美しい庭園だったはずの彼の庭を。
何の為にこんな事をと不安になった頃、妙に仰々しい足取りでゆっくりと彼が戻ってきた。
恭しく両の手に掲げているのは片手に収まるような小さな花冠だった。
「頃合だと思ったんだよ、ねえ」
しゃきん、と最後に編んだ薔薇の棘を鋏で切り落とす。
朝露に濡れた様々な品種と色と花弁の薔薇が頭上に捧げられる。
思わずローデリヒは目を閉じ、心持ち頭を下げた。どうしてだかはわからない。
ただ、とても遠い昔、そんなことがあったような気がするだけだ。
その頃の自分はまだ幼くて、何も知らず、力も無い小国だった。
それなのに彼は自分を見つけ、すぐに枯れてしまう花冠ではあったけれど祝福し認めてくれたのだ。
ゆっくりと目を開き、一歩下がった片足を戻すと思いの外近くに金色の髪があった。
「キスしてくれないかな」
顎を反らし、子どものようにフランシスは胸を張る。髪の色と同じ金色をした髭が日光を透かしている。
どうしたんですか。随分疲れているんですね。何か落ち込む事でもあったんですか。
言葉は声にならなかった。扱いの難しい男は苦手だ。
 彼の空洞を覗き込むのは勇気がいる。
それなのにどうしてこういう時だけ自分の家へ来るのだろう。この人は。
目を閉じて笑いながらフランシスはキスをねだる。
花冠の白薔薇を抜き取るとローデリヒは黙ってそれを彼の唇に押し付けた。
「ローデリヒ?」
目を閉じたまま困ったように彼が微笑む。
「あなたの庭は」
ローデリヒは続けた。
「あなたの庭は無事なんですか?」
くすくすとフランシスは笑った。
「お前に心配されるなんて心外だなあ」
そうだな 俺の庭はとても広いし、とても多くあるんだ。
──お前と違って。
囁くようにフランシスは答える。
「だから、お前に贈るあんな花束くらい大丈夫なんだ」
白薔薇を握る手を取られる。棘を落された薔薇はその箇所からじくじくと内部の水を落している。
多分明日には枯れてしまう。
てのひらに未だ目を閉じたままのフランシスの唇が近付く。
それがシャツを汚した花粉を求めて這い上がるのも時間の問題だろう。
甘い香りを運ぶみつばちが耳のすぐ傍を羽音を響かせて通り過ぎてゆく。
ローデリヒはため息とも感嘆とも取れない吐息を吐いた。
5月だった。