草葉の陰にひっそりとそれはあった。
透かし彫りの意匠が凝らされた小さな金属は、日の光を浴びて自己主張のようにギルベルトに存在を知らせた。
身を屈めてそれを拾うと、ぱらぱらとちぎれた雑草がニ,三絡み付いてきた。
まだ湿っているそれはほんのひと時前、同居人が庭仕事に精を出していた事実を知らせてくる。
(あいつのか)
くるりと鍵を引っくり返す。こういった細かな小物を持ち出して外に仕事に出るような彼ではないと
思っていたが、よほど大切なものなのだろうか。
宝飾箱か銀食器棚、あるいは楽譜の引き出し、もしくは封蝋印の鍵かもしれない。
日光を強く反射する銀白色の輝きは確かにどこかで見た覚えがある。
少しの悪戯心で、ギルベルトは黙ってそれを自身のポケットへ滑り込ませた。



 ローデリヒには自分たち兄弟が困る悪癖が多くある。
例えば彼の空間把握能力の無さ、調理中の謎の擬音、異常な節約心などだ。
加えて彼は音楽を愛しすぎている。
これらが組み合わさると、どういった事が起きるか。
同居するその時まで、ギルベルトはローデリヒがまるで子犬かなにかのように
古くなったピアノを拾ってくるなどと考えた事も無かった。
もちろん道端にピアノが落ちているわけもないので、彼がそれを見つけるのは旧家の
奥まった遊戯室などであった。そうして、どうした理由だか芸術にも造詣が深い”心ある”旧家の主人は
誰も弾くことの無いまま調律が日に日にずれてゆくピアノを見つめる彼を捕まえてこう言うのだ。

もし、あなたがあれを弾いてくれたらとても嬉しいのですが。

 言われるまま彼は音叉と工具と楽譜を携えて旧家に出入りするようになり、いつの間にか
老いた主人の為に小曲を爪弾くようになり、短い人生を終えた主人の形見として家族から
古びたピアノを譲り受けるようになった。
そういった事が何十年という単位の中で雨だれのようにぽつぽつとあった。
ローデリヒは黙ってそれを自分の屋敷に運び入れ、広く寂しい屋敷のそこここに安置した。
一日に弾くピアノは一台と決まっているので奥のピアノはそれだけ音色が歪み、
家の中でもローデリヒは音叉と調律道具を持ち歩いた。
革のかばんにそれらを詰めて決して服装を乱さない彼は、まるで家の中でも旅行をしているようだった。
実際、彼は旅をしているのだ。
思い出の中から思い出の中へと。
友人から友人へと。
いとおしく、惜しむように一日の最後に輪舞曲を奏でて鍵盤の蓋を閉じる。
穏やかな横顔は過去に漂っている。
自分がすぐ後ろに立ってそれを聞いていても、彼は終曲まで気がつかなかった。

 ある日とうとう耐え切れなくなり、そんなことはもうやめろ、とギルベルトは言った。
毎日、過ぎ去った思い出を撫でさするようなことは。
ローデリヒは驚いたような顔をして答えた。
少なくとも、ギルベルトにはそう見えた。
「貴方はずいぶんと感傷的なのですね」
そのように見えるのですか?
深いすみれ色の瞳はむしろ微笑んでいるように自分を見つめていた。
誇った栄華は崩れかけ、没落する旧家は年を追うごとに増えていく。
救え切れないピアノたちがその暇もないまま、次々とローデリヒの手を離れていった。
彼はそれでも奔走し、そのために日々憔悴してゆく。
ぼんやりと窓の外を見つめる彼に気付いたのはルートヴィッヒが先だった。
「大丈夫なのか?ローデリヒ」
「ええ、大丈夫ですよルートヴィッヒ」
二人の上滑りの会話を聞きながら、ギルベルトはため息をついた。
まったく、これだから坊ちゃんは。
自分が何を望んでいるのかも分かっていない。
彼の夕闇の色をした瞳を覆う重い睫毛。そこに暗く、濃い翳が見える。
壁の時計が十二時を打った。

 無理にピアノ屋敷から自分たちの家へと連れ出したローデリヒは以前にもましてぼんやりとしているので
危ない仕事はこちらの手間が増えるだけだ。
だから、草むしりだの家事だのおおよそ仕事と言えないような仕事を割り振ると
諾々とローデリヒは従った。
境界地を奪われた時の猛々しい彼を知っているギルベルトはその態度に拍子抜けした。
こうも年月が彼からあったはずのものを奪っていくものなのか、ギルベルトには不思議だった。
彼は何十、あるいは何百年もかけてそれらを獲得していったはずなのに。
それには自分も関係してはいたが、だからこそ何故なのかという思いは消えなかった。
こんなことはもう何度も繰り返したはずだ。彼は挫折を知っている。それなのに。
 彼は人間ではないはずなのに、時々何もかもが人間らしい。
滲み出る音楽への愛情や、湧き上がる愛国心、それらへの反動としての深い憂鬱質(メランコリア)。
心の奥底は隠すくせに、一つ飛び出た癖毛のように分かり易過ぎるのだ彼は。
そう一人ごちりながらポケットの中に手を入れる。
指の先には冷たい金属の塊。明るい月夜に翳すとそれはいつか拾った小さな鍵だった。

 


 細かな意匠で飾り立てているわりには簡単な構造の鍵だ。
まるで彼のような、と思い立ってギルベルトは舌打ちをした。月光に銀色の鍵が光る。
彼の屋敷に忍び込むなんてフランシスじゃあるまいし、と思っていたが思いついてしまったものは仕方が無い。
昼間のように照らす青白い月の光に彼の屋敷は自分を招くように不用心だ。
乱暴に鍵を回す。
音も無く、中で歯車が噛み合った感覚がした。
思っていた通り、庭で拾った鍵はローデリヒのピアノの鍵だった。
それも何十、何百とある全てのピアノの共通鍵だ。
ギルベルトはひとつひとつの部屋を回って彼のピアノの鍵を閉めてまわった。
ローデリヒにしては解せないが、確かめてみると全てのピアノの鍵は開いていた。
なめらかな象牙の白鍵が、蓋を持ち上げると隙間から覗く。
その奥に静かに並ぶ、喪に服しているような整然と並んだ黒鍵。
葬列に加われないローデリヒがその代わりのようにこれを求めている。
(そんな事をこの俺が許せるか)
ひとつひとつ部屋を確かめてピアノの鍵を閉める作業は滑稽ささえ感じる。
飾り棚のようなピアノや、書き物机のようなピアノがあった。
小さな子供用のピアノや、大きなコンサート・ピアノがあった。
古いものや新しいもの。安価なものや高価なピアノがあった。
 自分にも確かに大切な人や王はいた。
しかし、こんな愛し方は知らない。
「オーストリア……」
彼の国の名前を呟く。胸が痛いのは何故なのだろう。
自分はこのピアノの持ち主を知らない。彼がどのような思いでこのピアノを譲り受けたのかは知らない。鍵は投げ捨てようと思った。
しかし嫉妬という言葉だけではないものが自分の心を押し潰そうとしている。
銀色の鍵は昔、自分が譲り受けた銀色の楽器と同じ色をしている。
冷たさも肌触りもそのままだ。
自分の手が一瞬戦慄く。
フルートの一旋律が脳の中を駆け巡った。
「ああ、全く」
その時、突然後ろで声が上がった。
「貴方はお馬鹿さんなんですから」
何故勝手なことをなさるのです?
ざり、と土と寄木床が擦り合う音がする。彼も自分と同じ経路を辿ってこの部屋に辿り着いたのだ。
庭の黒土で汚れた靴底が近付いてくる。自分のすぐ傍に彼は来る。気配を感じて背中の産毛が逆立った。
 しかし、ローデリヒはそれ以上近付いてこなかった。
おそらく手元の鍵を見ているのだろう。
ギルベルトは目線だけで振り返った。月光に薄い眼鏡が反射して彼の真意は見えない。
「……どこでそれを」
ぽつりとローデリヒは呟いた。案外、その声が普段通りだったのに息を吐く。
──なにを自分は恐れているんだ
不意に浮かんだ考えにぎょっとする。暗い紫紺の瞳は自分を映しているのか不安で覗き込みたい衝動に突き動かされる。
 「お前は俺のだ」
抱き込んだ身体は驚くほど冷たい。柔らかい彼の髪の毛先が瞼の上でたゆたう。
「なあ、そうだろう?」
重ねて問うとローデリヒはびくりと震えた。自分の声は地を這うような声音だ。
彼の革のブーツから匂い立つような土の香りがした。そして乱暴に踏みしだかれた青草と幾つかの花の匂い。
それが、彼を逸らせてこの部屋に導いた証のようでギルベルトの胸を打った。
「ええ、そうです。そうだと貴方が仰ったじゃありませんか」
ローデリヒの腕が背中に回る。夜気に濡れた冷たい指先が自分の背骨を辿る。
満身の力を込めて強く抱きしめているのに、どうして彼はこんなにも儚いのだろう。
目に見えず、耳にだけ聞こえる旋律の最後の一音のように儚く、そのために余計に鮮烈な印象を残す。
「ローデリヒ」
彼の名を呼ぶ。
「もうこんなことはするな」
腕の中の彼は答えない。
しかし、無言のくちづけがゆっくりとギルベルトの瞼を濡らし、そしてそれはおそらく優しさではないのだろうとギルベルトは思った。