氷華

かすかに空気の抜けるような音がして、ドアは開いた。
部屋の主はちらと音のしたほうへ視線を走らせた。
「なんだ、お前か」
言うなり、少し口の端を微笑みの形に歪める。
それなのに、何故か口調はあまりに素っ気無い。
わざと宝条は金の髪の少年を軽く一瞥して、パソコンに向き直った。
軽く流された方は、心持ち唇を尖らせて抱えていた紙袋を持ち直した。
「なんだはないだろ。折角来てやったのに」
堅い靴底の音を響かせながら、パソコンに近付く。
薄暗い研究室の中、二人に対峙するようにある宝条のパソコンはぼんやりとあたりに弱々しい光をなげている。
それをあやつりながら、研究室を眺め回している少年に根負けして宝条はとうとう声をかけた。
「…ルーファウス、悪かったよ冗談だ。
 君が珍しく一人で来てくれたからつい、ね。どんな理由であれ嬉しいよ、来てくれて。
 一体どうしたんだい?」
宝条の素直な謝罪に気を良くしてさっきまでのふてくされた態度はどこへやら、
ルーファウスは隠し切れない笑みを必死に押さえた。
ぽん、と近くのソファに弾むように座る。
「その仕事が終わったら教えてやる」
これはルーファウスなりの親切心というものなのだろうか。
珍しく機嫌の良いルーファウスの横顔をまじまじと眺め、再び無機質の箱の方を向く。
だが、キイを叩く指が不意に止まる。
モニターには自分の微笑。
ふと諦めの溜め息がこぼれる。
(全く)
宝条は薄い眼鏡の縁を軽く押さえた。


「早いな。まさかもう終わったって言うの?」
宝条がこちらに来るのを見咎めて、図鑑から顔を上げる。
口調は刺を含んでいるが、表情を見れば感情は手に取るように分かる。
少し苦笑いして宝条も返す。
「お前はどうすればお気に召すのかね。・・・顔が笑っているよ」
少年の柔らかい金の髪を撫でる。
その手をくすぐったそうにはねのけると拗ねた眼で見詰めてくる。
「君が仕事をしないと、怒られるのは僕なんだよ」
─どうしたらそうなるのかな。
と、聞くと。
─だって、君の所に僕があんまり行くから仕事の邪魔してるって言われるんだ。
…嫉妬ってわけだ。
「一体誰がそんな事を?」
少し驚いたフリをしてみせる。
するとルーファウスは酷薄な瞳で一笑に伏した。
「は、決まってるだろ。意地が悪いよ、君は」
(ばれてたか)
宝条はルーファウスの前のソファに倒れ込むように座った。
自身の暴言の反応を確かめるべくこちらに身を乗り出してきたルーファウスを強引に引き寄せる。
嫌がってもがくが、それは無視して後ろから抱きすくめた。
そして囁く。
「光栄な誉め言葉だね」
そんなことをルーファウスに吹き込む奴はあの男しかいないだろう、と分かっていた。
(可哀想に。とことんあれも報われない)
だが、もちろん宝条は潔く身を引こうとは思ってもいない。
だから一層あの男が不憫だと思うのだ。
「あのね、宝条…」
さっきまで腕の中で暴れていたルーファウスが俯いて、腕を掴んできた。
何か言い淀んで、無意味に両足をぱたぱたと動かしている。
「今日は暑いよね」
思わず耳を疑う。
「いやに唐突だな。…そうだな、そうなんだろうよ。ここからじゃ
分からんが」
日光が一筋も差し込まない研究室の天井を仰ぐ。
研究室には窓ひとつ無い。それがここの薄暗い理由の一つだが、その他に必然的という感じが否めない。
それにどんなに外が暑かろうが寒かろうが、世界を牛耳る神羅カンパニ−本社には魔晄という力強い味方がいる。
すなわち全室セントラルヒーティング。冷暖房完備なのだ。
天気や季節の話題は最早ミッドガルでは死語も同然だ。
話の対象となるそれをなくしたのは、魔晄。
季節をなくした報酬がこの完璧な室内、神羅カンパニーの技術の賜物である。
男はそれを開発した責任者であり、少年はその未来の上司。
ミッドガルに天気と季節とをなくした張本人が彼等だ。
「僕の部屋、外がよく見えるんだよ。
ミッドガルにしては上出来な天気なんだ、今日は」
ルーファウスは訴えかけるように体をねじってわざわざ瞳を合わせてくる。
(今日は本当に綺麗に晴れ上がっているんだろう)
ルーファウスの興奮した青い眼を見ると、目に染みるような青空が見える気がする。
信じてくれない、と考えたのかルーファウスは一生懸命空の説明を始めた。
いつも薄汚れたスモッグの空ばかりだったから嬉しいのだろう。
宝条は少し、抱き締める力を強めた。
愛おしくて、ついその首すじにキスを落とす。
「で、こんな時…くすぐった…ちょっと聞いてる?」
「はいはい」
ひとすじ、宝条の髪を掴むと軽く引っ張る。
それでも生返事ばかりで止めない。強く引っ張るとやっと顔を上げた。
「いたた…。−聞いているだろう。こんな時、何だって?」
「だからね、こんな時はさ、やっぱりこれ!」
持ってきた紙袋から数個のアイスカップを取り出す。
何故だか得意げなのが可愛いといえば可愛い。
「また庶民的な。こんな安っぽいのが社内に?」
「レノから前もらってね。あんまり不思議な味だからまた買って来てもらった」
色も不自然に鮮やかだろ?と、一個を手に取る。
下手な宝飾よりよっぽどキレイだ。
なんて讃美しながらルーファウスはうっとりと朱い氷菓子を見つめる。
「合成着色料だ。赤の56番」
「知ってるよ。だからこそだって気付いてよ」
鈍いなあ、と付け加えられる。
食べる?と、黄色いのを手渡された。
ルーファウスはもう先ほどの朱いアイスにスプーンを突っ込んでいる。
不思議な味、というのはどうやら誉め言葉だったらしい。
ルーファウスは好き嫌いが激しい。彼にとって嫌いなものが増えることはあっても好きなものが増えるなんてことは珍しい。
首尾良く自分のアイスを食べ終わると、ルーファウスはまだ半分ほど残っている宝条のカップを覗き込んだ。
「…」
スプーンでアイスを掬うところから、口に入れるまでの一部始終を明確な意思をもつ瞳に見つめられ、
なんとなく居心地が悪い。
すこし困ったような顔をするとルーファウスはちろ、と舌を出した。
…宝条はあることに気付いた。
「欲しい?」
「それ、僕がもってきてあげたんだけど」
上目遣いは反則だ。無条件で奉仕したくなるではないか。
「…ルーファウス、舌をだしてごらん」
「なんでさ」
「いいから」
さらに促すと、しぶしぶ従う。
「あぁ、やっぱり」
宝条はルーファウスの口の中をのぞくとうんうんと一人納得した。
「なにがだよ。教えてよ」
自分で舌を見ることが出来るはずもないルーファウスは、宝条の抱擁の檻から逃げ出すとふてくされた態度を取り始めた。
それには気付かないような風を装って、はぐらかす。
「食べるかい?」
檸檬味の黄色いカップを掲げる。
ふてくされているルーファウスでもこれは黙っていられない。
「本当?」
「もちろん。ただし、条件があるがね」
「だろうと思った。…何さ?」
薄いメガネを押さえて宝条は少し笑う。
「そうだな…キスをしなさい。上手かったら、あげよう」
腕を組んで自分を見下ろしていたルーファウスは暫し躊躇。
しかしそこは宝条の予想通り、すぐこちらに屈み込んできた。
まずは、確かめるように唇をかすめる。
それに焦れるころ、おずおずと触れてきた。
「もっと深く…」
注文をつけながらルーファウスの頭を引き寄せて、ふと囁く。
「舌が朱い」
「…え?」
潤んだ瞳が聞き返すのを無視して首すじに口付ける。そこも朱く染まる。
「アイスの着色だ。舌にうつって……誘うなあ」
感嘆を込めて言うと、最後の言葉にルーファウスが頬を染める。
たしかに、いやに朱く染まったルーファウスの舌は劣情を誘うには十分すぎるほどだった。
空気を求めて薄く開いている唇を押し開く。
まるで果実のように赤く熟れているそれを何度も吸った。
絡めては離し、なぞってはねぶった。
「ん…っ…」
つ、とルーファウスの細い顎を銀糸が伝う。
不思議な味。とルーファウスは言った。
「…苺と檸檬って」


キスだけでその場が収まるはずもなく宝条は満足げに食事を続けた。
もちろんルーファウスは不機嫌だ。
「アイス…溶けちゃったじゃないか…」




END