食料品店、とそっけなく書かれた看板。苔くさい木板。
壁から飛び出した釘が通りの車のヘッドライトを受けて寂しく光っている。
「…いらっしゃいませ」 
愛想の無い一人きりの店員の横を青年は通り過ぎた。
ゆるゆると、気だるく、埃っぽい店内を見回す。
品揃えは前回と変わらない。
不安定な裸電球の照明に照らされた、綺麗な橙色の果物を見ても
どうにも気乗りしなくて無機質な缶や瓶をカートに詰め込む。
顔が、どんよりと重い暖気に自然に赤く染まった。
生暖かい店内は暗く、侘しい。
カラカラとカートを転がして店内を進む彼の他はみんな無言で。
止まったような時間の中で裸電球の点滅音と、
銀の枠の時計の秒針が同じ音で響いていた。



蜜柑


 

店を出ると、底冷えするような夜に爪月が出ていた。
ツンと痛むような鼻頭につめたい空気が通っていく。
先ほどまでぬくぬくと暖かかった体は急激に熱を奪われる。
瞳を切るような鋭い風は、青年のだらしなく開けていたジャケットの間をぬって身体に響いた。
ずず、とクラウドは鼻水をすする。
(そうか、もう冬なんだ)
星が、遠い。
後少し、夜が暖かければ溶けてしまっただろう細い月。
もうナイフというよりも糸のような月は弱々しく、申し訳程度に中空に漂っていた。
まるで欠けた自身を探して彷徨い歩いている様。

でも馬鹿だなあ
それは明日にでも見つかるのに
すぐ近くに


「うー、寒」
言いながらジャケットのジッパーを手で探る。
片手に紙袋を持ったままなのでひどく時間が掛かった。
ジッパーの金属部分がもう冷たい。
「あー…、…チクショウ」
はあ、息が白い。
クラウドは薄着で部屋を出て来た事を今更ながら悔やんだ。
(家に帰ったら、滅茶苦茶暖房かけてTシャツでビール飲みてぇ)
長い上り坂を踏みしめながら、冬の夜の空気に浸透されていく。
紙袋を持つ手、片方だけがかじかんでうまく動かない。
宙に昇る様な長い上り坂。
その中ほどには随分昔から電信柱がぽつんと立っている。
ふと見ると季節外れの蛾が、電球に一匹だけ張り付いていた。死んでいるのかもしれない。
しかし、どんなに強い風が吹いても蛾は依然としてそこにあった。
 
 持ち手を交互にジャケットのポケットに押し込む。
耳が冷気に痛くなってきた頃、ようやくアパートの明かりが見えてきた。



遅れて、
俺の部屋も見えてくる。

…?

はた、と足が止まる。


おかしい。


俺の部屋にも明かりが点いていた。



…俺の部屋にも橙色の明かり。

 

 



…なんで?

 

 

 

 

 

可能性は一つ。



 


 


 

 

「……」
…やっぱり。
玄関に無造作に革靴。


…俺の部屋の家賃一ヶ月分くらいしちゃったりするんだろうか。
無言でそれをに脇にどかす。
そうしないと俺の靴が部屋に入れない。
収納、なんて設計の時に抜け落ちてしまったような部屋だ。
一人暮らしなのをいい事に玄関は脱ぎ散らかした自分の靴で一杯で。
その最後のスペースを取られてしまった青年は、むりやり作った隙間に自分の靴を押し込んだ。
自分の部屋なのにそろりそろりと忍び足で居間に進む。
ほんわりと温かさが少しずつ近付いてくる。

軋む木のドアを恐る恐る開けてみた。


橙色の照明。


がさり、と紙袋の中の豆の缶詰が音を立てる。
(勝手に…俺の部屋に上がりこんで…)
クラウドは脱力してへなへなと床に座り込んだ。
騒がしげなテレビをBGMにして、自分と同じ金色の髪の青年がいる。
(勝手に…寝やがって…)
静かに寝息を立ててルーファウスが寝ていた。
俺の部屋で。
読みさしの本が胸に乗ったままだ。
栞を挟む間もなく何時の間にか寝入ってしまったのだろう。
それにしても。
(いきなりすぎ)
合鍵は渡したけどさ。
でもこういうのって。

暫し逡巡。
部屋を暖めてくれたことは感謝してる。
でも突然の来訪はあまりに不意打ち。



─俺は、氷のように冷たい両手を奴の頬に押し当てた。



「…いッ!!!!?」
途端、大きな音と共にルーファウスの上体が面白いように跳ね上がった。
突然の悪戯に驚いた足が毛布に引っ掛かって、着ていたYシャツが露になる。
いつもの彼らしくなく、それは子供のように皺くちゃになっていた。


一瞬で瞼が開いた。
コイツ、狸寝入りしていたな。

先ほどまで寒さに固まっていた顔が緩む。笑い声が自然に零れる。可笑しい。

毛が逆立った猫みたいだ。

 


ザマアミロ

 


何時の間にか俺の部屋に上がるなんて猫みたい。

 


硬い冬の空気が、橙色の明かりで綺麗に吹き飛ぶ。

クラウドはふと、あの陰気くさい店で
唯一明るかった蜜柑を買っておけば良かったと、

少しだけ 

ほんの少しだけ残念に思った。