神様、もう少しだけ




朝靄の白い紗がかかる中、歩き出す。
せめて明るい光の中で、この街を自身の目で確かめたかったが、
クラウドにはまだその勇気が足りなかった。
うす寒いその都市の門は開け放たれ、早くも錆びだらけのID検知器は狂ったように
赤の点滅を繰り返すだけだ。かつて立派に舗装され幾千本の街灯に輝いていた
ハイウェイの面影はそこにはない。道は乗り捨てられた車で埋まっていて、
そこここは陥没し、あるいは隆起して暗い穴をあんぐりと開けているものもあれば
狼の牙ように鋭く尖ったまま静止しているものもある。その間を埋め尽くす
街灯の鉄くずとガラス、魔晄炉が停止した今その光はもう二度と煌めく事はない。
道という道はほぼ全てガラスのようにひび割れてこの都市全体が
まるでコンクリートの蜘蛛の巣にかかって滅んだようでもあった。
馬鹿馬鹿しい、とクラウドは考えを止める。
何になぞらえてもこの都市が壊れた理由にはならない。
(なぜ、あんなに遅くなった…?)
いつもの後悔。何故自分はもっと早くメテオを止められなかった?
何故もっと自身をしっかりと保てなかった?セフィロスを止められなかった?
そして何故全てを忘れて…彼の事をも。


答えは、この街にあるような気がする。


また歩き出す。街の中心部に向かうに連れて進む事も難しくなってくる。
道は殆どなく、建物は崩れているか倒れているかで切れた電線が風に吹かれて
リボンのように踊っていた。あまりの困難さに息が上がる。
つま先に力を入れて目の前のビルの残骸を駆け上がろうとしても
膝が震えて思うように足が進まなかった。

疲れの為ではなかった。
この高いビルの向こうには。

たまらずその場に膝をつく。掌を見るとわずかに震えていた。
呼吸が苦しく、汗が額を流れた。
細かいコンクリート片が更に細かく磨り潰されて下で悲鳴を上げている。
白い靄は全てを灰色に覆い隠してくれる。クラウドは吐き気を辛うじて抑えた。
星に還元された人間は形を残すことなくそのエネルギー体に組み込まれてしまうらしかった。
こんな事は今までなかった。死体がない分ミッドガルは清浄に見えたがあちらこちらに
残る血痕までは消えてはくれない。打ち付けられたヒトの痕がありありとわかる
壁から視線を逸らす。もしこの朝靄がなければ自分の周りは白ではなく赤かもしれない、と
クラウドは考え、ゾッとした。血溜りをなるべく避けて来たはずなのに靴底は滑って仕方がない。
それでもクラウドは進んだ。息はもう随分前から上がりっぱなしで、
足もなかなか言う事を聞いてくれない。そして時折見えてしまう生き残ったミッドガル市民が
残した粗末な鉄の十字架の簡素な墓場が彼の心を何度も何度も抉った。
その墓の下には何もないのだ。小さな遺留品にコンクリート片を重ねて長さもバラバラな
鉄クズを組み合わせた即席の十字架がその人の消え落ちた地点に目印のように打ち立てられている。
生き残った市民は誰も見当たらなかった。上はこの有様だが下のスラムはここよりは
まだマシらしい。元神羅の仲間に聞いた所によるとこれだけの惨事にも頑なに、もしくは
仕方なくこの地で暮らす事を選択した人々は多い。
上の都市は本当に、直視出来ない程に酷い。
なにもかもがひっくりかえされ、混ぜ込まれてヒトにはどうしようもない力に打ち付けられている。
全てのものはひしゃげて、歪み、思わぬ災害に完全に打ちひしがれていた。

これがあの都市なのか?

クラウドにはもう何も考えられなかった。

白い靄とコンクリートの海に目が慣れると今度は小さな生活の為の道具が現れた。
やめてくれ、叫びだしてしまいそうだった。
自分は咽喉の熱い塊をさっきから何度も押し込めようと躍起になっている。
その度に呼吸を詰まらしては、胸を押さえている…
ここにはそれを見咎めてくれる人は唯の一人もいないと言うのに。
転がったランプや細い椅子、あるいはこんがらがったミシンやぼろきれに成り下がった子供服。
それでも進まなくては。
街は掘りつくされ、埋め立てられ、滅茶苦茶にその身を着飾った装身具を全て剥がされ、
その裸体をクラウドの前に晒している。しかしその身体もひどく傷ついて、乾ききっていて、
あるのは血の川だけだ。
しかし認めなくてはならない。これはあの都市だ。
紛れもなく、俺の人生の多くを過ごしたあの都市なんだ。

そしてお前が手に入れようと夢に見た都市なんだ、ルーファウス…。

ふいに目の前がひらけた。
見える。昔は見えなかったこの通りからでもそれは見えた。
それは丁度重なっていたビルが足を折ってその頭を地面に預けたから。
全ての建物が倒れたその都市で、彼の城だけは昔のままだ。


斜めに下がった看板には「神羅」
やっと俺はそれを見た。


割れた窓ガラスからどこまでも走る光はもう朝のそれではない。
あの白い靄の助けもいつの間にか消え失せてしまった。
大きく開いたドアーが自分を招いている。

 

::::::::

 


 誰もいない廊下に響く靴の反響音はまるで泣いているようだ。
赤い水音がそれに伴う事もあったから、ますます誰かが泣きじゃくるような音に
聞こえる。幻聴ならばいいのに。
ビル内は外よりは幾分マシだったが、ぱっくりと裂けた壁から平和な日光に照らされた
明るい階段にも血は残っていた。日の光に埃が反射してゆっくりと舞っている。
周りは奇妙なくらい静かだ。
エレベーターももちろん使い物にならない。あの階段を、クラウドは昇っている。
ここを昇っている時、確か仲間の一人が「永遠に続くようだ」、と言ったんじゃなかったっけ。
「冗談じゃない」
出した声が自分でも驚く程大きかったので、クラウドはびっくりして瞬きをした。
どこかで水道管が破裂した音がした。

階段は天国へ続くはずもなく、きっちり59階で終わった。
この無限ループから弾き出された事が罰のようで、弱りきった顔で非常口のドアを開ける。
上へ、目指すはもちろん最上階。この都市の主のもとへ。

 

風が廊下を自由に吹きぬける音がする。
…最上階は今までの崩壊が嘘のように綺麗だった。
何故なら剥がれた幽霊のような壁紙も、薄暗い暗闇もないからだ。
最上階は青空が広がる、吹き飛ばされた屋根が微塵も惜しくない空間になっていた。
あの暗闇の攻防の中見た陰惨な印象はすっかり塗り返された。
見下ろせば絢爛たるミッドガルは完全な廃墟。
かつて北の大空洞を狙った砲台は日光を反射して熱いくらい目を射るが、やがてあれも
錆びにまみれて老人のように老いさらばえるだろう。
都市の一番の高みでそれを見物する男は疲れきっていた。

金の髪が風にそよぐ。何故こんな悲惨な状況なのに空は馬鹿みたいに快晴なんだ。
もう一歩も動けない。
足はかつての社長室から離れられず、視線は壊れた街に釘付けだった。

…いつまでそうしていただろう。


「……また、私を殺しに来たのか?」


耳を、疑った。
背後からの問いかけ。気配を全く感じなかった。
振り向くと昏い目をした男がひっそりと笑っていた。
──信じられない
全身が震える。
見開かれた目は瞬きさえ忘れてチリチリと痛んだ。
「どうしたんだ…また、ひとりなのか?」
かつて自分を殺そうとした男を迎える彼は武器を持っていなかった。酷く疲れている声。

言いたい事、言ってやりたい事はごまんとある。
でも、その顔を見た瞬間情けない事に全て吹き飛んだ。
─ただ一言、その名を。


…俺の声…掠れてやがる…
情けないったらない。


「俺、思い出したよ何もかも」
「…」
「俺…」
「いいんだ」
分かっている、と彼は言う。過去見たこともない程穏やかな顔。
この街に来て初めて、クラウドは緊張が緩んだ気がした。
それでもこの邂逅が幻影なのを恐れるように足は相変わらず地面に縫いとめられたままだ。
「大丈夫だ、消えないよ」
ひたり、と彼の冷たい手が俺の頬に伸びる。
それにしては冷たすぎるんじゃないか?
問いかける前に抱き締めていた。
呆気なく崩れた涙の堰は決壊してる。
奴は力なくされるがままだ。
彼の焦燥ぶりも物凄かったが、俺には及ばないと思う。
こんなにも力を込めてきつく抱きすくめているのに、まるで俺があやされているようだった。
「ルーファウス…」
「言わなくて、いい」
じゃあ、飲み込んだ言葉はいつ吐き出せばいいんだ。その時までお前は俺の傍にいるのか?
聡いアイスブルーの瞳がすべて分かっていると告げていたから、俺はそのまま口付けた。
二人の深い吐息の合間に囁かれた、許しを請う声は確かに聞き届けられた。
ルーファウスはあの頃とは全く違う瞳で、5年前の彼そのままに。
太陽の光に晒された彼は以前と違い、とても儚く脆い。

その時、突然の強い風がルーファウスの髪を混ぜた。
強い焦りが俺を突き動かす。
…いやだ。

「行かないでくれ!」
「クラウド」
彼の目に涙はない。
…微笑んでいる。
「大丈夫、大丈夫だから…」
深い恐慌状態に陥った俺を救い出してくれるのはその声。
その存在を確信させるように心の奥底のどこまでも深く響く。
「…もう、どこにも行かないでくれ…」
強く抱き込んだ身体が自分をこの世界に引き止める唯一の糸のようだ。
涙で濡れた視界の端に、青いピアスが彼の替わりに泣いているように煌めいていた。
─自分たちはあまりにも多くの物を失った。
全てが瓦解した世界の中、せめて…

 

 

 

もしいるのなら、口汚く罵ってやっても足りないけれど。

  
─神様、 もう少しだけ  。






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