労働と報酬


幹部等重役が会議室に集まり始めた。
会議までの時間を害のない談笑でごまかしては、時々押さえた笑いが上がる。
しかし、すでに自席に座って書類を眺めているはずの金髪の青年の姿がない。
プレジデントは相も変わらずゆったりと足を組んで葉巻をふかす。
彼の息子が姿を見せないことに、他の幹部等は特に頓着しない素振りを示した。
ルーファウスの副社長という肩書きは、次期社長の椅子を追うものだけで、まだ
20歳にも満たない彼に権限は無いに等しい。
普段彼は形式的に会議に参加している。
プレジデントは思い出したように煙草の灰を落とすと、傍らの男を呼んで低く言った。
「あれはどうした」
それまでプレジデントの後ろに隙なく佇んでいた黒服に黒髪、
心を写さない昏い闇の瞳の男がそれを受けた。
「それが私室にもいないのです。携帯もつながりません」
「・・・面倒事か」
「いえ、先ほどメールがありまして。今日は過労で静養する、と」
しばらく考え込んだプレジデントは面倒臭そうに、紫煙と一緒に言葉を吐いた。
「・・・・あいつも偉くなったものだ。まあいい、勝手にさせておけ」
「プレジデント」
ツォン・・・・タークスの制服に身を包んだ男は声をひそめた。
「副社長のメール送信場所は、宝条博士の研究所からでした」
舌打ちをしてプレジデントは思い出したように会議室を見回した。
科学者の姿はない。
「奴の遅刻は珍しくもないが・・・。ちょうどいい。ツォン、宝条を呼
んで来い。ついでだが、あれの様子もな」
プレジデントの声は普段と変わらない。彼にとって自分の息子よりも長年育て上げてきた
会社のほうが大事なのだろうか。
ツォンは短く返答すると、音もなくざわめいた会議室を後にした。


ルーファウスが幼少の頃から彼を警護し、プライべートに関することまでも
ツォンは請け負っていた。
実父よりも彼を知っている自負もあるほどだ。
最近はその自負も揺らぎつつはあるが。
今日の彼の行動はおかしい。
会議に来ないのは、ルーファウスの意思ではないだろう。
彼は真面目とは決して言い難いけれども、ビジネスに関してはプレジデントを凌ぐかと
思われるほど有能だ。いつも今以上のポストを奪おうと鈍重な幹部の席をねめつけている。
その彼が会議を蹴った。理由はおそらくあの人物にある。
科学者、あの扱い辛い男。
66階重役会議室から一階上にある研究所施設に着くと、ツォンは幾分乱暴にカードリーダーを通った。
ゆっくりと開くドアを目で追って、換気ファンの回る音だけが響いている所内に入り込む。
嗅ぎ慣れた匂い。空気清浄機と消臭剤だけでは拭い切れない血の匂いが漂っている。
一体何人の研究員がこの匂いに気付いているのだろうか。
職業柄そういった匂いを嗅ぎ分けてしまう自分以外に。
血の匂いに慣れそれを引っ掻き回す彼等。
その考えにらしくもなくいらつく。
今の自分はひどく感情的だ。その原因はおそらくルーファウスだろう。
ツォンは歩調を早め、宝条の私室を目指した。
最近宝条は私室を執務室と研究施設に兼任しているらしい。
どちらにしろマスターキーを所持しているツォンにそんなことは問題ない。
手早くリーダーにカードを通す。
しかし、リーダーは耳障りなブザー音を響かせた。
(宝条め、警備システムを書き替えたな)
仕方なくそばのインターフォンに手を伸ばす。
「調査課のツォンです。宝条博士」
中からはことりともいわない。ツォンは待った。
「宝条博士。会議が始まっています」
「博士・・・」
もう一度呼びかけようとしたその時インターフォンが不意に鳴った。
不機嫌そうな科学者の声。もっともツォンにはこの男の機嫌の良い日など想像も出来ないが。
「うるさいぞ、タークス。まだ会議まで10分ある」
「失礼しました」
「全くだ」
さも当然のように言ってのける科学者の態度は彼に似ている。
それとも彼が科学者に似たのか・・・。
「お急ぎ下さい、博士」
「分かっている。いいから行け」
面倒臭そうに言い放つ宝条の言葉に引き下がるツォンではない。
「博士、そこに副社長はいらっしゃるでしょうか」
「・・・だとしたらなんだというんだ」
「いらっしゃいましたら会議に出席して頂きたいのですが」
「・・・・・・」
宝条は答えない。
無意味な時間にツォンはいらいらとドアに目線を移した。
「宝条博士、会議の時間が迫っています。お急ぎ下さい」
「それぐらい時計を見れば分かることだ。黙っていろ」
またしばらく沈黙が続いた。インターフォンからはかすかな衣擦れの音がする。
今更着替えをしているのだろう。
それに一段落ついたらしくやっと宝条は答えた。
「・・・・副社長はここにいる。会議には出れんが」
突然の宣告にツォンはうろたえた。
「何故です」
「自分で見てみればいい。入れ、タークス」
いままで固く閉じていた扉が音も立てず開く。
ツォンは迷うことなくそれを通った。
「ルーファウス様は?」
「なにを狼狽えている?」
いつものツォンを見慣れている宝条は、珍しいのか興味深気にタークスを眺め回した。
その視線をはねつけてツォンは毅然と宝条に向き直った。
「どこにいらっしゃるのです」
「その右のドアだ。言っておくが、彼を起こすな」
宝条が示したドアを開けると、その部屋は暗闇だった。
執務室とはうってかわった暗さにいぶかしげに宝条を見やる。
しかし彼はもう自分の事など忘れたように机でファイルを眺めていた。
夜目が効く彼は、すぐに彼の主の姿を見付け出した。
寝乱れたにしては不自然なシーツにくるまってルーファウスは眼を閉じていた。
時折苦し気に息を吐いては、眉根を寄せている。
もし部屋が暗くなければツォンにもルーファウスの頬が上気していたのが見えただろう。
時々怯えたように細かく震える彼の長い睫毛と白い瞼も。
「ルーファウス様・・・一体・・・・」
会議欠席の理由は仮病だと信じていたツォンは面喰らってそれ以上言葉を告げれなかった。
「見てのとおり、会議は無理だ」
執務室からファイルに目線を落としたまま宝条が言った。
「病気、なのですか」
執務室と寝室の境目に立ち尽くしたままツォンは押さえた声で言った。
「メールを読んだからここに来たんだろう、貴様は」
過労で静養する。それは真実だった。
「しかしこの苦しみようは・・・」
「クスリの副作用だろう」
「一体なにを飲めばこうなるというのですか。なんの薬です」
宝条を責めてもどうにもならない事だが、疑心で一杯になった心を静めようとは思わなかった。
この男ならやりかねないかもしれない。
「お前にそれを説明してやった所でどうするというのだ。適切な処置は
した。その熱は仕方がない」
「・・・・まさかLSDのたぐいじゃないでしょうね」
鋭くなる眼と気配を隠すことは止めた。
宝条は軽く肩をすくめるとくだらないとでも言うように、持っていたファイルを机に投げ出した。
むしろ楽しげな視線で眼鏡をかけ直した宝条は、ツォンを初めてその視界に入れた。
「面白い。貴様は何を根拠に言う」
「職業柄、見慣れているので」
いまにも掴みかかりそうな自分を宝条は鼻で笑うと書類をまとめ始めた。
いつもの白衣が宝条の動きに合わせてひらめく。
それすらも彼に似ている。
「馬鹿を言うな。半日もすれば熱は引く。明日には職務に復帰しようと
思えば出来る。その程度だ。事を大ごとにしたくないから彼自ら診療
を受けに来たんだぞ」
「・・・・」
「今は安静が一番だ」
「本当ですか」
馬鹿なことをいう、と宝条は一笑に伏した。すっかり嘲った表情で。
「そうでないはずがあるまい?」
行くぞ、と科学者は先頭に立つ。ツォンは諦めてルーファウスの眠る寝室を閉ざした。


頭の中も真っ白だった。
自分以外の全てが白い。ルーファウスはその何もない空間にただ一人取り残された。
一応、地に足はついているのでそこが地面だということがかろうじて分かる。
しかしそれ以外、全く何もないのだ。
ルーファウスは茫然として、そのままその場に座り込んだ。
何かから己を守って、子供のように膝を抱える。
静寂が耳に痛い。
痛みはいつの間にか耳鳴りに変わった。
たまらずにルーファウスは膝に額を押しつけた。
すると大きく早鐘のような鼓動が聞こえて、ルーファウスはハッと怯えたように顔を上げた。
しつこく耳に残る脈動の音を出来る限り無視して、周りを見回す。
・・・・・・・。

何もない。
見回してもこの空間でもない奇妙な場所に、なんの変化もない。
全てがただただ白いのだ。
恐怖がルーファウスに襲いかかった。
驚く程凄い勢いでぞわぁっと背中に鳥肌がたつ。
ここにはなにもない。
ルーファウスは自分でも気付かないうちに息を止めていた。
その事に驚き、おそるおそる息を吐き出す。
最後に大きく息をつくと、額から汗が一筋、顎へ伝った。


ゆるゆると靄が晴れるように目がさめた。
だが体はいままで寝ていたのはベッドではなく、水の中だったというように激しく酸素を求めた。
上半身を起こして肩で息をしながら、ルーファウスは汗でぐっしょりと濡れた額を押さえた。
確認するように周りを見ると、夢とは反対にそこは暗かった。
思わずどきりとするが、目が慣れてくるとそこが見慣れた宝条の寝室だと分かった。
呼吸が整うのを待つと、気持ちも幾分落ち着いてきた。
安堵の溜め息が自然に出る。
不意に会議の事を思い出し、時計を見ると午後をとっくに過ぎていた。
「畜生・・・・」
ルーファウスは会議出席を諦めると、憤りから再びベッドへ潜り込んだのだった。

「宝条博士!!」
やっと目当ての人物を見つけたツォンは、思わず彼に駆け寄った。
実験室に向かう廊下で彼をつかまえられたのは幸運だった。
姿をくらますことにかけてはタークスに劣らない宝条は、その声に立ち止まることなく言葉を返す。
「また貴様か」
「博士、カードを渡して下さい」
「カード?」
「貴方の執務室のカードです、無断で書き替えた」
「貴様らがくだらん詮索で部屋を荒らすからだ」
ツォンはそのセリフを当然のように聞き流した。
一瞬の静寂に二人の靴が廊下を鳴らす音だけが響く。
それを破ったのはツォンだった。
「副社長をお迎えするのに必要なんです」
ふん、と宝条は鼻で笑う。
「彼をまだ子供扱いしてるのか。副社長就任は形だけか?」
「それとは関係ありません」
「どうだか」
押し問答がついに実験室前まで続くと、宝条はしぶしぶカードキーを放り投げた。
やはり研究の邪魔はされたくないようだ。
彼は片手で実験室のドアを軽く押さえ、立ちはだかるようにこちらに向き直った。
どうやら実験室には『入るな』ということらしい。
「キーはすぐにお返しします」
「いらん。返ってきた時には使えなくなっているだろうからな」
宝条の皮肉にツォンはわざとらしく溜め息をつくと、カードキーをポケットにしまった。
「・・・博士は私たちが介入するのがお嫌いなようですが、その火種は
御自分がお作りになっていることをお忘れなく」
「なるほど、肝に命じておこう」
眼鏡の銀の縁を押さえた宝条が不敵に笑う。
「さあ、もう用は済んだだろう。お帰り願おう、タークス主任」


夕日がその光を半分に減らした頃、宝条の執務室とは名ばかりの私室は赤い色素に染まっていた。
宝条のカードキーで室内に入ったツォンは、真っ直に寝室に向かった。
今日のところは、机の上の書類やフロッピーには手をつけないことにした。
ルーファウスは午前に訪れたときと同じく眠りに落ちていた。
サイドテーブルに飲みさしのミネラルウォーターの瓶が置いてあるのをみると、一度は起きたのだろう。
(全く・・・)
ツォンは癖になった溜め息を吐くと改めてルーファウスを見た。
以前のような苦しげな呼吸ではなく穏やかで安眠しているのが分かる。
シャワーでも浴びたのか、かすかにシャンプーの匂いのする前髪が額に落ちて、
いまだあどけなさが残る顔にいっそう幼さを加えている。
その天使としか言い様のない寝顔に、ツォンは少し微笑んだ。
窓に目を向けると夕日が月に場所を譲るように落ちていく。
強い朱色の光を投げかけ続けた日も、だんだんと弱く細く消えていく。
刻々と暗さを増してくる部屋でツォンはぼぅっと、今日ルーファウスがキャンセルした
アポイントメントの数を思い出していた。
「?」
わずかに感じた背中の感覚にツォンは気が付いた。
寝返りを打ったルーファウスの手が自分の背中に当たったようだ。
いつのまにか自分はベッドの端に腰掛けていたらしい。
さっきまで朱かった空は、その色を払拭して闇が地上を塗りつぶそうとせまっていた。
思いがけなく失った時間にツォンはしばし瞠目した。
ふと、振り返って彼を見た。自分にとって彼の立ち位置はいまだつかめない。
そして彼にとって自分の存在は・・・。
ツォンはしばらく躊躇すると、屈みこんでルーファウスのこめかみに唇をつけた。
すぐにそっとそれを離す。
そして乱れた彼の金の髪を優しく撫でた。
時計を見ると、もう起こしたほうがいいのだろう。
だが、ツォンは待つことにした。
(あとで面倒だから言い訳でも考えておくか)
ツォンは早くも星が出てきた夜の空を、様々な嘘を捏造しながら眺めたのだった。