砂上の城

 

 

 

 

一、

 

 

 

 初め僕はそれを出来損ないの杖か山火事で焼け残った枯れ枝だと思っていた。


 それはゆるく湾曲しながら、ある一点で曲がるのをやめその状態で留まっているように見えた。
ゆるい湾曲は長年放置された乾燥からくるようだったが、木目はうつくしく白い木肌はつややかだった。
「父さん、それは?」
父はその木切れのようにゆるく笑うとだしぬけに枝の一旦を引いた。
するどい刃物が軽く空気を滑る音がして、突然1メートルはあろうかという鋼鉄の刃が僕の目の前に現れた。
先ほどまで気の抜けたようだった室内に緊張が走る。
 刀は袂が厚く、切っ先に向けて剃刀のように薄く、そしてまるで波頭のような波紋が刀身の際に散っていた。
薄く油を引かれた抜き身の刀は鈍く外の光を反射している。白い鋼鉄の輝きは初めて見るのに妖しく眩しい。
幼な目にもそれが名のある物だとわかった。
女性的に華奢で優美に見える外観とは裏腹に、幾度も血を吸ったような雄雄しさに子供らしい悪戯心が湧いて出る。

凄い。あれに触って見たい。僕の手で動かして見たい。本当に切れるのか試して見たい。

曲線を描く刀身は先につれて刻々と美しさを増してくるようだった。
特に鋭い光を発する切っ先は、今にもその身の内にあらゆるものを一刀両断してしまうような抗いがたい魅力があった。
きらきらと目を輝かせて父親を見ると、父は刀を白鞘にしずかに収め直して
「どう?やってみたい?」
と言ってきた。願ってもなかった。
「刃を抜いたら喋ってはいけない。抜くだけだ。いいね?」
いつもの柔和な父親の顔が悪戯っぽく微笑み僕は勢い込んで返事をした。
 父親から渡された木の枝のような白鞘は中に刃を隠し持ってるとは思えないほど軽く、しっくりと手に吸い付く。
見様見真似で父が引いたように柄を引いた。鍔にぐっと力を入れるとゆっくりと先程の光が室内に満ち始める。
僕はだんだんとわくわくしてきた。
普段は母親に怒られてばっかりの父親が、こんな刃物を持っている事態が驚きだったし、
男二人で小さな部屋に篭って秘密のように中性的な金属の刃を眺めているなんて、なんだかいけない事のようだった。
好奇心は刀身が見えるにつれて大きく肥大化していった。見た目とは裏腹なしっかりした重さが手首の筋を震えさせる。
鞘がその間細かく鳴った。つま先に力が入る。
しかし三分の二まで鞘を引いた途端、僕は突然手のひらを返したように怖くなった。
もうすぐあの切っ先が出てくる。あの鋭い切っ先が。
銀色の刃なのにそこだけ青い光が発しているように見えた、あの鋭すぎる切っ先が。さわる?あれを?
もうすぐあれが出てくる。柔らかく魅力的な刀身は誘うように光を投げかける。
それに目を奪われそうになると、自重で滑るように刃が落ちそうになった。
─怖い。
「…やっぱりまだ無理かな?」
父が苦笑しながら鞘と柄に手を掛ける。
「もう離しても大丈夫だよ」
僕ははっとして恐る恐る手を離す。
強張った指先がまるで真冬の井戸水に浸したように白い。短い落胆。
「父さん、僕…」
「そこで止めたのはいい判断だったよ」
父は僕の名を呼ぶ。怖くなったんだね?うん、と僕は言う。
「偉いよ。よく分かったね。多分キミはこれにとても触りたかったんだろう」
僕はうんと言った。
「でも怖くなった。そうだよね?」
うん。
「好奇心が強いからね、キミは。僕の子だものね」
そう言って父は音も無く刃を鞘に戻した。
「キミがなんでこれに触りたかったのか、僕はとてもよく分かるよ。だってキミは僕の子だものね。
 初めて見るものね、こんなもの。だから本当に本物なのか確かめたかったんだろう。
 触って見て指を切るかどうか、確かめたかった?」
「うん」と、僕は言った。
「でも途中で止めた」
 父は微笑んだ。父の笑顔は不思議だ。なにかを安心させるかのような笑顔だ。
母もこの笑顔を見ると、怒った手をぎゅっと握り締めて仕様が無いわね、と笑う。
僕はそんな父が好きだなあと思う。
「キミは賢いね。見て本物だと分かったんだろう。これに触ると指を切って痛いって、ちゃんと自分で分かったんだろう」
指に薔薇色の血色が戻ってきていた。僕は勢い込んでうん、と言った。
「それはとても大事なことなんだ。見て、自分で判断するって言う事は。良かった。
 キミには想像力がちゃんとあるみたいだね」
「ソウゾウリョク?」
「もしも、が考えられる事だよ。もしも、手が滑ったら。もしも、支えきれなかったら。もしも、怪我をしたら。
 もしも、止められなくなったら」
そこで父はじっと僕を見た。黒い眼差しが翳りを帯びて僕を見ていた。
「私は心配なんだよ。お前は少し物事にのめり込む癖があるから。
 周りが見えないほど何かに打ち込んでいる時があるね。一つの事にこだわる事がままあるね。
 そういう事でお前の身が危なくなったりしたら私たちは困るんだよ。悲しいんだよ。
 キミは私たちのたった一人の息子なんだもの」
「父さん?」
「もっと大きくなったら教えよう。私たちの故郷のこと。お前自身のこと。
 今のように自分を大切にする事を心掛けなさい。"もしも"を必ず物事の前後に考えなさい。
 困ったときは一人で思い悩まないで私たちに相談しなさい。いいね?
 "もしも"それを忘れそうになったら、この刀を見て思い出しなさい。これは今日からお前のものだよ」

 

 僕はそうして父から一振りの刃を譲り受けた。

 

 

 

二、


 僕の頭の裏で今しがた投げかけられた言葉がぼんやりと渦巻いている。
外の乾いた風のせいかは知らないが、相手の言葉が一呼吸遅れて聞こえた。ひどく暑い。
男は諦めたようにもう一度言った。
「お前の武器はそれか?」
ええ、と僕は眼鏡の位置を直しながら言った。
目の前の黒ずくめの男から掛けろと言われた伊達眼鏡はいつまで経っても顔の上で馴染まず、それでしょっちゅう僕はその眼鏡を気にしていた。こんな物で元犯罪者の顔を誤魔化せるんだろうか?初老の男は無いよりマシだ、と言った。
僕は眼鏡を弄るのを止めた。
「我が社は今非常な人材不足だ」
タークス。それが僕が宣告された部署だった。
犯罪者を受け入れる企業なんて、ろくでもないところに違いないと毒づいたら神羅だった。言葉も出ない。
「選べ。私たちと共に来るか、それともここで野垂れ死ぬかだ」
「主任…」
初老の男に付き従っている黒髪を束ねた若い男が怪訝そうに尋ねる。それを制して再度初老の男が繰り返す。
「お前のその剣の腕を私は買っている。友の為にあれだけの敵陣営へ飛び込むことは並み大抵の奴が出来ることではない。どうだ、お前はこの砂漠の中で一生過ごすつもりなのか?それがその剣を未だ持つ理由なのか?」
暗い室内に熱砂の風が吹き付けていた。
まともに水も飲めないこのコレル・プリズンでは刀の手入れもままならない。答えは半ば決まったようなものだった。
今なら父の言葉が端から端まで理解出来るような気がした。
「私たちは君を無理にタークスにスカウトしようとは思っていない。私たちの組織に入るならば自らの意思で来て欲しい」 
 つまり、父はこういう事態を憂慮していたのだ。

 


「っていうのを思い出した」
 そう言うと僕はにこっと相手に微笑みかけた。相変わらず僕の相手は退屈そうだ。
僕はゴンガガの小さな部屋とコレル・プリズンの薄汚い牢獄を経て世界の中心とも言われる神羅カンパニー中枢に近い部屋にいた。全く人生は不思議だと思う。時折ゴンガガからミッドガルへの総移動距離を計算すると目が回る思いがする。
そして僕はゴンガガの民族衣装から拘束衣へと転落し、今はあの時目の前に現れた男と同じ全身黒ずくめのスーツに身を包んでいる。これは栄転なのかな?わからない。あそこで野垂れ死んでいた方がマシだったと思う日もあれば、自分は僥倖だと思う日もある。平たく言えばタークスはそういう部署だ。
「それで?」
僕のお相手は金色の髪を払いのけるとつまらなそうに続きを促した。
「ヴェルド主任も同じ事聞いてたなーって思って」
ルーファウスはじろりと青い双眸を巡らせて僕を見た。
「お前の昔話を聞いたつもりはない。剣を使って長いのかと聞いたんだ。年数で答えてくれれば良い」
どうして神羅の副社長が僕の刀にこだわるのかさっぱりわからなかった。
「でも、」僕は意地悪く口答えした。
「それは僕の昔話に関わりますので」ここまできたら笑顔もおまけだ。
「なあ、」急にルーファウスは猫撫で声で切り出した。
「私たちはどちらも忙しい。ここで無闇にお互い意地を張るより君が折れてくれないか」
「十五年です」
すかさず即答するとルーファウスは大きく息を吐いた。
「君って男は分からんな」
「全くです」
 そして人生も分からないものだ。その日を境に僕はいつの間にか副社長のお気に入りの座にランクインするようになった。多分、副社長は僕じゃなくて僕に使い込まれた刀を気に入ったのだろう。
何故かそんな気がした。



 

三、


 


 ある一定のルールを自分に課している人間はその所為で幾分退屈に見える。些細なことでもいい。
たとえばコーヒーカップは右手で持つとか、部屋を出る時は左足とか、ファイルの留め金は両手で押さえるとか、そういうことだ。そういう事と同列に僕は美しいものを好む。
けれど僕は自分で言うのも何だけど日常生活では非常に謙虚だから、ミッドガルの場末の路地裏や、夏場のうんざりするスモッグは大人しく受け入れている。理想と現実は違うのだ。
でも、こと戦いの事となると歯止めが掛からない。正直に言うと歯止めを掛けない。(ツォンさんが聞いたら何て言うかな?)僕に言わせればルールを遵守する人物は退屈で単調なんかじゃない。
普段、自分で自分を抑えておかなければ混乱してしまうのだ。いちいち細かく判断していれば、その分だけ自分を抑えるのが難しくなる。一番危険な人種だと思う。だから僕は美しいものが好きだ。
美しいものはそれだけで成り立っていられる。どこにも行かない。安心だ。
自分で決めたレールの上を歩いていれば世界は美しい。
ルールは単なる目くらましに過ぎない。僕の父親に言わせると、それこそ『ソウゾウリョクの枯渇』だ。
あの時父から教わったことを、僕はこの何年かで食い潰していた。
「一日中張り付いているつもりですか」
ルーファウスは椅子を半回転させて僕の方を見た。
朝見たままだった光景に僕はいささか呆れていた。
プレジデントのお陰で部屋は馬鹿らしいほど快適だったが、当の本人は重厚な塗りを施された、いっそ厳格とも言える机に笑ってしまう程不似合いなPCに夢中だ。
「お前か…。今日は呼んでないぞ」
照明の落とされた室内にPCからの無機質な光が彼を青白く染めていた。
瞳がモニタ画面を映して白くうつろに輝いている。唇も乾いていた。
「偵察ですよ。偵察。副社長に死なれでもしたら困りますから」
「社長になるまで誰が死ぬか」
ルーファウスに近付くと画面が残像を残して消えた。僕は肩をすくめて彼を見た。
「密告なんてしませんよ」
ルーファウスは答えずに乾ききった瞼を押さえた。
今にも音を立てそうに疲れた彼の骨は張った肩を見るだけで気の毒だ。
「情報収集なんて地味な作業を副社長がやるなんて」
「肩書きだけの副社長の方が地味の極みだ」
ルーファウスが瞼を押さえたままで言った。確かに。
 
「でも、この箱の中の事がほんとうだなんて信じているんですか?」
何気なくPCを指先で軽く叩く。ぎょっとした面持ちでルーファウスが瞼から手を離した。
「これは私の私物だ。あいつの手が入ってるなんて有り得ない」
ガタン、と彼の椅子が焦ったように鳴った。下ろした手が拳を作っていた。
「そういう可能性もあるって言っただけじゃないですか。最初に考える事ですよ」
 ルーファウスの意外なほど取り乱している様は滑稽にさえ見えた。
如何に快適と言えど長期に渡る軟禁は彼からそういった猜疑心を削り取っていったのだろうか。
何しろ彼はまだ若いのだ。腹の底で何を考えているかは分からないが、時折こうしたある意味純粋さを感じるにつれ僕は動けなくなってしまう。父親から刀を握らされたあの時と同じように。暗愚だ。
 この快適で、安全で、逃げられない小部屋。きれいで身の安全を保障された檻が彼の数年に渡る住処なのだ。
僕や、極一部のタークスを除けば、彼はいわゆる青年期というものをたった一人で過ごしているのだった。
そして彼にとって唯一開かれた窓は、この小さなPCしかない。
世界に巡らされた網の中で彼はじっと再起の為の情報収集と僕が時折差し入れる資料を読み耽っている。
結局のところ彼は世界の全てを知っているようでモニタ越しでしか物を知らないのだ。
僕はなんだか悪い事を言ったような気がしてきた。
彼の世界に亀裂を入れたって、彼にもタークスにもいいことなんてひとつも無い。
(どこかに連れ出せないかな?出来たらきれいなところに。社長になることがすべてじゃないようなところに)
ぼぅっと僕は考えた。でも一介のタークスが出来るようなことでもなかった。当たり前だ。僕は彼の父親ではないのだから。彼には彼の、僕には僕の領分がある。何より彼自身がそれを望まないだろう。
「いや、でもプレジデントからそんな命令がいったなんて聞いたこともないし。きっと大丈夫ですよ」
自分でもびっくりするくらい下手な慰め方だ。他のメンバーなら何て慰めるだろう?
でもルーファウスは僕があれこれ考えているうちに自分のルールを設定し直したようで、既にいつもの表情に戻っていた。
「…調べれば分かることだ」
 でも、と僕は言いそうになった。
でも、どこまでいったらほんとうだなんて誰にもわからないじゃないですか。
君にも、僕にも。

 モニタはいつの間にか星空を駆けるスクリーン・セーバーに切り替わっていた。
真っ暗な画面に小さなドットの星々が中央から外へ放射線状に走っては消えていく。
小さな宇宙は小さな箱の中でいつ終わるのか知れぬままどこまでも続いていた。
僕はそれを横目に眺めながら彼に口付けた。ルーファウスは星空を眺めることなく瞳を閉じた。
賢明だった。





 

四、








 外した腕時計がサイドボードの上で微かな秒針を響かせていた。
外周にミッドガルの現在時刻、内周に軍本拠があるジュノン要塞の現地時間。
僕は豪奢なベッドの上で寝返りを打った。柔らかすぎるベッドは寝転がるには最適だが、一晩を明かすにはそぐわない。
思い切って目を開くと、隣でルーファウスが僅かに身じろぎした音がした。
もうすぐ夜が明ける。
逡巡して片手を瞼の上に置くと、意外にもしっかりした声が寝室に響いた。
「眠れないのか」
「…ええ」
 副社長、起きてたんですか?という僕の問いかけに答えずにルーファウスはのそりと起き上がると僕の顔を覗き込んだ。乱れた髪が、汗で額に張り付いている。
「眼鏡が無いとお前じゃないみたいだ」
あれは伊達ですよ、と言おうとして止めた。彼はじっと僕を見ていた。
「不思議なものだ。昔から気になっていた」
「何を?」言いながら落ちかかる彼の金の髪を耳に掛けてやる。彼の汗のにおいがした。
「お前たちは気付いていないのかもしれないが、刀剣を持つ奴は皆同じような目をしている」
「お嫌いですか?」
「まさか」ルーファウスは一旦言葉を切ると事も無げに言った。
「好きだよ」
「光栄です」
「禁欲的だ」
 今度は僕がびっくりする番だった。
「お前たちはどこかで自分を律している感じがする。
 きっと誰にも、自分にも止められない何かを、それを持つことで紛らわしているんだろう」
突然に大真面目な顔で自分の愛刀への言及を始めたのでなんだか可笑しかった。
この時間帯は夜とも朝とも付かず、彼も仕事と私事の狭間で急に子供のような目をしている。
「大仰ですよ。ストレス解消の為に振り回しているんじゃありませんし、仕事なんですから」
僕がそう言うとルーファウスはふと微笑んだ。
年相応の可愛らしい笑みで、好きだと言われた時よりも数倍動揺させる笑顔だった。
「そういうことじゃない。私は、そこで踏み止まる事が出来るお前を好ましいと言っているんだよ。私には出来ないことだ」
ルーファウスはつと視線を外した。壁に立て掛けてある刀を見ているのだ。
「…僕は、そんな君が好きだけど」
「ありがとう」
 実際、ある一つの目標に向けて生まれた時から努力し続けているルーファウスは瞠目に値するものだった。
その情熱は今回の件で行き過ぎを露呈することにはなったけれど、それすらもルーファウスの情熱に歯止めを掛けるには到らなかったらしい。彼はどこまで駆けるのだろう、僕は思った。
自分の父親や、自分自身さえも秤に掛ける事が出来る彼が、世界に何を望んでいるのかが気になった。
彼は一時の迷走では無く父親に対するはっきりとした殺意を常日頃から滲み出していた。
それは目標の為の排除なのか、排除のための目標なのか判別が付かなかった。
僕に何が出来るだろう。父親でなく、友人でなく、恋人でもない、部下である僕が。

「お前に頼みたいことがあるんだ」
案の定ルーファウスはそう切り出した。子供のように円らな瞳は逆説的に彼の心の内を照らし出す。
 言わせてはいけない。瞬間過ぎった感情に任せて僕は口火を切った。
「いや、僕は引き受けないよ」
「…」
 プレジデント暗殺は実行するに易いだろう。だけども確実に僕は死ぬ。
そして彼は一時社長の座に君臨することは出来るかもしれない。でも、そんな栄光が何になるだろう。
世の中は親殺しをする男を許しはしないだろう。彼は砂上の城のように父親と同じ末路を辿る。
そうはなって欲しくなかった。
そして、彼が世界に君臨するようになった世界を眺めたい僕にとっても、同じくそれは望まない結末だった。
僕はゆっくりと息を吸って彼の青い瞳を見た。
「僕はその代わり君を信じてみようと思う。君が、君自身の手で作る世界を最後まで見届けようと思う。
 だから、僕は君の懐刀にはなれないよ」
僕を見下ろす彼を両手を開いて抱きとめる。相手が生きている重みを、触れ合う身体にゆっくりと感じる。
熱も、汗も、吐息も、全て彼の生きている証拠だ。彼はここにいる。
僕の、すぐ傍にいる。
「それに君は僕よりよっぽど強い。僕なんかよりよっぽど…」
 僕を懐柔しなくても君は立派にこの世界を渡っていける。
障壁に恐れずに向かっていく強さ、実力差をものともしない傲慢さ、己の身を省みらない情熱。
普段自分が抑えているそれを惜しげもなく晒せる彼は眩しいくらいだ。
知らず忠告めいてその輝きを遮ろうとしていた自分に気付いた。それはあの時の父との小部屋に似ていた。
眩しい切っ先を見たくて見たくて堪らないのに、恐れから白く凍りついた手。
後ろから優しくどうすべきか教えてくれる人には、もう会えないのだ。
退くか、進むか、それを判断するのは父親の言うところのソウゾウリョク、それしかない。
「…君は私を買い被りすぎている」
 抱き込んだ背が熱い。肩に顔を埋めるその声がくぐもっている。
部下の自分勝手な同情に怒っているのか泣いているのか判断がつかなかったが、僕は強くその背を抱き締めた。
そうして、多分僕は僕自身もきっと抱きしめていたんだと思う。



 ゆるゆると夜明けの気配が足元から近付いていた。
空気が緊張し、輝く朝日を迎えようと東雲が空に集まり始めている。
重くカーテンを引いた室内が、よりいっそう暗くなる。
深く抱きこんだルーファウスの首筋から、故郷に咲いていた花と同じ匂いが漂っていた。
白銀に輝く部屋の中で、父親が最後に言ってくれた言葉が心の奥底から這い出てきそうだった。
 父さんは僕に自分の刀を譲った後、何て言っていただろう。愛していると言ってくれただろうか。
長く記憶の底に置いてきた言葉は、形にしようとすればするほど捉えどころがなく、匂いと同じように甘く香ってこの室内に霧散した。
 空が白みはじめる。
遠く世界の一端から始まる夜明けは等しく地上に降り注ごうとしていた。