まがいものだって何かを作り出せるのなら大したものだけれど



砂を蹴って、レノが言いかけた言葉を切った。
革靴の中に砂が入り込むと忌々しそうに短く舌を打つ。
その仕草が、いつまでも海辺を離れようとしない自分に向けられているのは分かっていた。

「言えよ。なんだって?」
「なんでもねえよ。あんたに言ったって仕方ない」

突然敬語に切り替えて、帰りましょうよとレノは言う。
春の茫洋とした暖かさの中の海は気持ちのいいものではなく、
その上今日はあいにくの曇り空で海は灰色の繰り返しだった。
ジュノンから離れたこの海辺がレノにバレたのはいつだったか。
ふと気付くとここに一人来る自分に、ルーファウス自身も驚いていた。
この海辺が特に好きなわけでもない。ましてやこんな日に。
なんとなく握った砂は白く、細かく砕けた珊瑚の死骸を手に灰色の海を
見詰めると不思議と心が凪いだ。
珊瑚の死骸で作られた砂浜は見ようによっては美しくもグロテスクだ。
積み重ねられた白くからっぽの外殻に座り込む自分もそう変わらない。
はやくかえりましょうよ、とレノがもう一度言った。

「ここにいろと言った覚えはない」 
途端、レノがギロリと瞳を動かした。
「もう少し考えろよ。あんたが一人で来てるのを見過ごすわけにはいかないだろ」
「へえ」海を見詰めながら返す。
「義理固いんだな」

抑揚のない声でそう言うとレノは憮然と押し黙った。
風がない海岸に、少し冷たい風が吹いた。雲に隠れた太陽は存在感がない。
ふいにジッポーが開く金属音と、少し経って炎が点る音がした。

「いいでしょ、このくらい」
ちら、とレノを見ると自分が煙草嫌いなのを知っていたのか一応断ってきた。
まあ、確かにたまになら悪くない。
波は同じ繰り返しを遠くの海から運んできていた。
風に乗ってその音が響く。その音だけが響いていた。

 

「…帰ろうか」
暫く経って、どうしてだか許可を求めるように聞いた。
レノは額のゴーグルをちょっと上げて何本目かの煙草を咥えたまま口の端を歪めると、
砂にまみれた手を差し出した。
私は少しばかり苦笑を返すと、同じく白い死骸にまみれた手でその手を取った。
キリキリと互いの手の中で白い砂が軋んで鳴る。

この海岸は嫌いだ。この海も好きじゃない。
けれどこの海岸には安らぎと平穏があった。

 



 

ある日、同じく茫洋とした日曜日。私はまたこの海岸に来ていた。
特にこの場所に来る時は決まっていない。
ふと足が向かう時はあるものだ。

「奇遇だな、副社長」
「ああ、そうだな」
レノが先に海岸に下りてゆく。時折しかしない会話も、レノ相手なら時には軽快でさえあった。
相変わらずの白い空、砂、海。
色がない世界でレノの赤毛は帰ってくる目印のように際立っていた。

「泳がないの?」流木で巻貝を突っつきながらレノが言った。
「まだ春だろ」「それに泳ぎたいから来ているわけじゃない」
幾分ぶっきらぼうに答える。
「オレは泳ぎたいな」
と、レノは流木を海に向かって思い切り放り投げた。
「早く夏になんねえかなあ」

夏には仕事に忙殺されているだろう。海に来られる時間は以前程ではなくなっている。
けれどそうだね、とレノに合わせて相槌を打った。
凪いだ心の所為か意に反して子供のようなあどけない声が出た。


「だろ?」
レノはそう言って嬉しそうにぱっと笑うと波打ち際に歩いて行った。
その背中をぼんやり見送ると、突然私はこの海岸で柔らかい嘘を吐いた事実に打ちのめされた。

(そんなつもりじゃ…)

平らな心でレノを騙した事に、点のようだった罪悪感が醜い染みのように広がってゆく。
この海岸で嘘を吐くつもりは微塵もなかった。
そんなつもりじゃない。そんなつもりじゃなかったんだ。

ここは外界を遮断する防波堤だった。外のあらゆる柵や欺瞞を遮る灰色の防波堤。
堅牢に、と言うよりは一線を引く為に押し留めていた。もちろん、内からも。
それを踏まえた上での平穏ではなかったが、自らそれを崩してしまった事に愕然とした。



砂上の城が気紛れな波に壊される様まで、この海岸は何から何まで自分に似ている。




思わず抱いていた膝に顔を押し付けた。
視線から大量の水が消えると、大量の波音が迫ってくる。
何度海を見て昔の自分を取り戻そうとしても無理だった。
溢れる位の水を見ても、その身を浸そうとは出来ず、乾いた心は憧憬に
恋焦がれて苦しいだけだった。分かっているのに。
もう止めよう、と毎回決別するつもりで岸壁を後にしても
あの平穏な世界にどうしても惹き付けられた。弱い、その通りだとも思う。
が、それでもどこかで足掻いていたかった。
─でも、もう無理だ。
涙が出ることは予期していたが、こんな些細な切欠で露呈するのが堪らなく情けなかった。

 

砂を蹴る足音が近付いてくる。


「なあ」
目の前で足音は途切れた。
今まで聞いた事もなかったような波と風の音がすぐ側を横切ったようにごうと流れた。
その音に混じって静かに、もう何度もこんな場面に立ち会った事のあるような顔をして赤い目印が呟く。

「オレは一緒にいてやるから」




他愛の無い。
そんな瑣末な事にかかずらっているのはお前だけじゃない、と暗に示す匂い。
…だが何故今更。どうしてお前が?
白い世界。淀んだ風のこの海辺でレノだけが異質のように浮かび上がっている。
それは闇色のタークス・カラーでもその赤い髪のせいばかりでもなかった。
葛藤をとっくの昔に済ませた、全てを諦めた顔でそれでも軽妙に世界を渡る男。
先往く人は、怖がらないで歩けと血にまみれた足で同じ道を指し示す。
それはある意味絶望でしかなかったが、一人ではない事が唯一の救いだった。

──溺者は恐慌で救護者を沈める
聞きかじった記憶が不意に浮かんだ。

この場合、溺者は果たしてどちらなのだろう。
修羅に引きずりこまれるというのに、恐怖と、どうしようもない安心を抱いているのは。
からっぽの白い砂を見詰めながら、それでも微かに私は頷いた。



きっとまたあのジッポーの開く音が聞こえるだろう。
そして嫌いな煙草の匂いが甘く漂ったら、泣き止もう。
そう心に決めると、咽喉につかえている熱い息をやっと吐き出した。






もう この海岸には来ない。
奇妙な確信を持ってそう誓うと灰色の海と同じ水が頬を伝うのが分かった。







ルーファウスの身体の中の最後の防波堤は、
これから押し迫る現実に最後の一滴まで体外に搾り出そうとしていた。
レノはそれを苦しく思いながら、最後まで見届けた。
カラカラに心が乾いたら、海に戻る事は出来ない。
それは千々に千切れて流れてしまうからだ。
それを知っているレノは、海と同じ成分で身体に流れる熱い血潮を代用とする事で凌いでいた。
追い立てられてそうなる事を選択した自分と違って、そう歩まざるを得ない子供に哀れみを感じる。
しかしそれを嬉々として待ち望んでいた事も、事実だった。

「ルーファ…」
「レノ」

先まで肩を震わせていたとは思えない決然とした声が返ってくる。
ぞくり、とレノの何かがざわめく。

「これから、私の事は名前ではなく役職名で呼べ。不躾な物言いも許さない」

目の際まで赤く染まった、まだ潤みを湛えた瞳は魔性の宝石のようにレノを射った。
何者も恐れない自分が気圧されたのは後にも先にもこれっきりだ。
反射的に恭順を示すと、ルーファウスは凶悪とも言える笑みを湛えた。
前よりも似合ってるじゃないか。
いよいよ歯止めが効かなくなる自分が怖い。

面白くなってきた

立ち上がったルーファウスの手を取ると、反対にスーツが汚れるのも構わず砂に膝を付く。
そしてタークス入隊時のように恭しくその手を取った。
あの時は神羅に誓った。
今は貴方だけに誓う。





「死に至るまでの忠誠を」




ルーファウスは最後一度だけ海を見た。
そして二度と振り返らなかった。