ない交ぜの境界線 冷たい指先が目尻を拭う。優しい手付き、人間らしい柔らかな皮膚、そして僅かに残る余韻は名状し難い感覚を徐々に育て上げていった。ともすれば意識を手放しかねない倦怠感に身を委ね、子供はふいに泣き出すかもしれないと思った。 いやもしかするともう随分長居い間泣き続けているのかもしれない。茫洋とした眼差しで見上げた端整な顔には苦笑が刻まれ、ああ大分困らせてしまっていると。手を焼かせたくはないと思う。それは物心付いた時から抱いている強迫観念にも似た教示で、あの気取った微笑、自分らしいと他人が勝手に評価している言葉の一つでも吐かなければと思うのに、どこまでも人間味溢れる男の仕草にはじめて悲しいと思った。 子供は精巧な人形の如く何の感情も刻まれていない顔を歪め、些か乱暴な手付きで男の手を振り払う。男は何も言わない。ただ興味深そうな顔で観察しているだけだ、生まれながらの役者、補整された道路をさも自分が切り拓いたような顔で突き進む子供が服を拾い上げる度に感情をそぎ落としていく様を面白そうに。 子供は肌を隠そうと全てのボタンをきっちり止め、最後に麻のジャケットを取り上げると、数歩で届く距離にある扉に手をかけた。ノブを回したときふいに声がかけられる。 「また遊ぼうか」 肩越しに振り返った少年は僅かな驚愕をセルリアンブルーの瞳に刻んだが、誘いの言葉を吟味するかのように暫し黙りこみ、そして驚きを殺意を纏っていないことが不思議なほど強い眼差しに塗り替えると何の感情もなく吐き捨てた。もう遊ばない。 「二度とね」 その顔はもう愚かな子供のものではなかった。 ついに三ヶ月前までは連日のようにやってきていた子供、あれから暫くの間姿を見せなかった彼がやってきたのは唐突だった。 研究所の奥にある一室、本来は仮眠室だったにも関わらず今ではすっかり男の私室となっているその部屋に何事もなかったかのように押し入った少年は、甘い笑みを口元にはいて持参したワインを男に勧めた。 気取った動作でやはり持参したワイングラスに液体を注ぐ彼は、子供でありながらも最早子供ではなかった。たった三ヶ月、一見しただけでは何も変わっていないが、それでも世の中の汚さを誰より理解しながらも一縷の望みに縋る甘っちょろさ、それゆえに持ちえた無邪気さは見事なまでに消失し、あけすけな欲望或いは慎ましやかな愛情だけがセルリアンブルーの中に取り残されていた。 「もう来ないと思った」 「どうして?」 「どうしてだろうね」 答える気のない男は思わせぶりな台詞を返すのみだが、少年がそれを追求することはない。昔から物分りのいい子供だった彼は子供らしい好奇心を滅多に見せず、そう今と少し前の言動は何らかわることがないはずなのにこうも印象が違うのは何故なのか。 「君は秘密が多いね」 ああその声のせいかもしれない。久しぶりに聞いた少年の声音は記憶にあるより幾分低くなっていた。とは言えその微々たる変化は彼の中性的な美しさを何ら損ねるものではなく、寧ろ男と呼ぶにはあまりに繊細でか弱すぎる容貌に良く似合っている。四六時中傍にいた頃には気付かなかった変化、少しはなれて見れば分刻みで織り成されている変貌はこうして積み上げられ、何時しか彼を支配者然とした美丈夫に追い立てるのだろう。膝をついて話さなければならなかった子供がここまで成長したことは快い。例えて言うならば苦労に苦労を重ねて作り上げた最高傑作が、英雄の尊称を手にしたときのような。 自分にとっての子供は、ある意味実子より息子に近い存在なのかもしれないと男は思う。生まれてこのかた父性など持ったことがないから解らないけれど、それでも多分、この子供に愛情はある。それは愛情というよりも執着或いは興味と呼ぶに相応しい感情なのかもしれないが。仮にこの感情が真実息子に対するものならば、幾ら誘われたからといって未成熟な少年に手を出したりはしない。男を相手に出来ないわけではないが子供に興味はなかったし、手折れそうな体は性的興奮どころか躊躇いばかりを呼び起こした。無論それだけでないのは否定出来ないが、後悔というほど大仰ではないものの偽りない苦々しさを抱いたのは事実だ。 どうして彼は泣いたのだろう、この三ヶ月間ふとした折に考えるのはそんなことばかりだ。その回数は片手で足りる程度の回数だが、科学にしか興味を注がない男にとって人間関係に振り回されるのはこの上なく苦痛だった。失われた何かを求めて祈りを捧げる殉教者のような顔が目に焼きついてはなれない。直接口に出して聞いてみようかと思ったが、多分彼は答えないだろう。意識的に弱さを切り捨て、強さの破片ばかりを集めつぎはぎのプライドを作り上げている彼が本音を語ることはないのだから。 「今日は珍しく口数が少ないな?」 「それほどおしゃべりなわけじゃないよ」 寧ろ研究が絡まなければ無口なほうだ。必要な言葉を惜しむほどではないが、無駄な言葉を並べ立てるエネルギーがあるなら顕微鏡を覗き込んだほうが余程マシ、今まで子供の相手を過不足なく務め切れていたのは子供が話題を提供するからこそ、そしてそれが興味深いものだったからに過ぎない。子供が変われば、興味は殺がれこの関係は続かないだろう。 「まぁ俺もお喋りしにきたわけじゃないからいいんだけどね」 「では何を?」 「セックス」 育ちの良い子供は両親を疎んでいて彼らを悪く言うことは度々でもそれは遠まわしの非難、他人が聞いて不快に思う言葉はオブラートに包んで話すクセを持っているのに、このあけすけな言葉は何なのか。些かの驚愕を覚えざるを得ない。 「生憎だが、私は子供に興味をもてない。そう言った意味では」 「俺は、もう子供じゃない」 子供は強い口調で一字一句かみ締めるように告げた。白い壁に向けられたセルリアンブルーの瞳はどこか遠くを見つめているようだった。まだまだ幼さを残す顔とはつりあわない大人びた表情、ああこの子供は本当に子供ではなくなってしまったのだと気付く。執行猶予のモラトリアム、誰もが多くのことを許されたその時間の中でゆっくりと成長を遂げていくが、無邪気でいることを許されない環境におかれた彼のモラトリアム終了期日は年齢によるのもではなく自覚だったのだろう。あえて子供でいることに固執していたようにも見受けられる彼が何を思い自覚をしたのか何を以って自覚を促されたのか気になるところではあるが、少なくとも今目の前にいる彼が、ほぼ自分が面倒を見てきたといっても過言でない子供でなくなってしまったことだけは確かだった。 子供はテーブルにワイングラスを置いて立ち上がると、男の眼前まで歩を進め、そして黒髪にそっと触れた。屈められる腰、唇は吐息が触れそうな距離で止まる。 「拒むなよ。そんな贅沢な真似」 「高級品か、お前は」 「とてもね。拒んだらタークスが怒り来るって殺しに来る」 笑いの滲む声音は本音と冗談の境界線をない交ぜにしているが、そんなことはどうでもいいことだ。もとより拒むつもりはない、まだまだ発展していくだろう少年はとても興味深いサンプルなのだから。男は少年の後頭部に手を置いて頭を引き寄せる。 忍び込んでくる舌の感触を楽しみながらも男は思わずにはいられなかった。可哀想に、と。 見も蓋もなく言ってしまえば。セックスなんて適当に弄って適当に突っ込んでいや自分の場合は突っ込まれて?そう自分の場合はあらぬ場所をこすられて本能赴くままに声を上げるだけの、本当に在り来たりなプロセスを踏むだけの行為、一人でやるか他人がやるかの違いで病気さえ貰わなければ誰と寝ようが大差ないんだと思う。 勿論だからといって誰もでもいいわけじゃない相手選びは慎重に、もとより自分の周りにいる男たちの身元と健康は保障されていてその点では問題ないのだけれども、ことさら慎重にいかなければ破滅への転落コースまっしぐらだ。体を差し出しさえすれば魂まで捧げようとするかのごとく与えられる愛情と忠誠、体一つで権力への階段を築き上げられるなら娼婦さながらに喘いでやったって構わない、だがそれでも、それでも愛情と憎悪は常に紙一重、体と引き換えに魂を捧げた犬どもは扱いを間違えれば害になりかねないのだから。 そう考えればこれはギブとテイクの関係なのだろうか。勿論中には忠誠を誓うどころか冷笑をたたえてセックス、抱かれたというより犯された気分にさせられる行為を求めてくる相手もいるけれど、愛を捧げない彼は何も求めない。純然たる性欲の捌け口、お互い楽しんでいることを思えばそれだってギブアンドテイク。 ならどうしてこの男は自分と寝るのかいや違うどうして自分は彼を“選んだ”のか。愛してるから?笑わせるなそんなの陳腐すぎる。一回目は興味だったと言い切ることが出来るだが二回目は?傅いてくれる相手なら腐るほど、楽しませてくれる相手もそこそこに、なのになぜ、なぜ彼がいいと思ってしまったのだろう。 時には狂気の科学者とまで呼ばれる男、人間嫌いで名高い彼ならさぞかし自分勝手に上り詰めるだろうと思っていた、そう一回目は初回だったから兎も角として今回は違うと思っていたのに、繰り返し名前を呼ぶ男の手は苛立つほどに優しい。こういうのを労わりに溢れた行為というのか。それとも確認、か?信じられないほど丁寧に、体の全てを撫でていく冷たい掌は悦楽を引き出すというよりも三ヶ月の変化を確かめていると言うのが相応しいかもしれない。 「気色悪いほどに丁寧だね。君の息子とは大違いだ」 「攻撃的なアレと比べたら、誰でも優しいだろう」 男が息子と関係を持ったところで気にしないのは解っていたが、こうもあっさり返されると些か面白くない。嫉妬して欲しいわけでも興味を持って欲しいわけでもない、ただペースを崩したかった。その何時も変わることない表情を。 「気にならない?」 「下世話な趣味はないよ」 「確かにそうだね、息子をモルモット扱いしてるんだから下世話より外道というべきだ」 ベッドの中ではおよそ相応しくない辛辣な言葉、男は何も答えず面白そうに笑っただけだった。彼が不快感をあらわすのは実験が失敗した時だけ、どんな嫌味を言おうとも一笑して受け流してしまう。 胸にわだかまる感情をどうすれば解消できるのか明晰な頭脳は必死になって答えを探っているが、ぬるい快感しか与えない手管、じれったくなる愛撫が考えることを放棄させた。柔らかい部分に舌を這わせる男の髪を掴んで顔を上げさせそのまま押し倒す、科学者という職業から連想させるほど貧弱でない腹に手を付いて男の下肢にまたがれば漆黒の瞳が僅かばかりの驚きを刻んだ。 「積極的だな」 「盛りつきたい年齢なんだ」 十分に屹立したものに手を添え位置を定める。 「セックスが好き?」 体が沈むたび駆け抜ける快感を味わいながら反芻する、セックスが好きか、だって?別に好きでもないし嫌いでもない、ただたんに盛りつきたいだけだ。なんとなく吸いはじめて何時しかやめられなくなる煙草、日常生活の一部となる喫煙に誰が快楽を求めるというのか。煙草もセックスも単なる惰性と習慣だ。ああでも。 「セックスで得られる・・・変わる関係を見ていくのは好きかもしれない」 全部おさまったことに満足げな溜息を吐き出す。どの角度が一番綺麗に見えるかを自覚している子供、気を惹くためなら努力を惜しまない子供は仕草一つで相手を魅了する。まるで高級娼婦だと称された顔で男を見下ろせば、陶然と目を眇めるさまに精神的な悦楽を覚えた。 「変わる関係?」 「愛情信頼憎悪に嫌悪、良くも悪くも寝れば何かが変わると思わない?」 「私は何も変わらない」 「ああそうだね、お前は何も変わらないだろうさ」 長年観察し続けているサンプルが風変わりな行動をしたところで所詮はサンプル、愛憎も信頼も含まない純然たる興味はどうやたってそれ以上にもそれ以下にもならないだろう。でもそれはお前だけだと詰ってやれたらどれほどいいか、少なくとも自分は変わってしまった。もう戻れないくらいに。 「お前が変わったのは、」 「もう黙れよ、宝条。お喋りをしに来たわけじゃないって言っただろ」 感情に左右されやすい自分が些細なことで怒るのは何時ものこと、何時もだからこそ対処の仕方も学んだというのに、急激に競りあがってきた不快感は抑えることも出来ず、ともすれば男の首を締め上げてくびり殺しかねない。後一言でも喋ったら本当に殺してやると意思を固めるが、懸命な男はそれ以上何も言わなかった。 不自然に終わらせた会話はぎすぎすとした空気を作り上げ、宥めるはずの不快感は収まるどころか激しさを増すばかりだが、理性が崩れてしまえば雰囲気など些末な問題だ。それこそ相手が犬だって自分は気にしないだろう。結局やれればなんだっていいのだと思って子供は密やかに笑う。 快楽を追い求めやすいかわりに体力を消耗しすぎるこの体位はあまり好きじゃない。出来るならこの男にもっと能動的に動いて欲しいが彼にそれを求めるのは土台無理な話、だと言うのに時折ペースを崩そうとするかのごとく突き上げられるのが忌々しかった。予想外の箇所をこすられるたびに悲鳴が漏れて体が崩れそうになる。 「・・・動く・・・な、くそっ・・・」 「そうは言ってもね」 乱れていない声が苦笑を刻み、上半身を起こした男に繋がったままの態勢で押し倒された。衝撃に喉が反り返る、そのまま達してしまわなかったのは幸か不幸か。 「乗られるのは好きじゃないんだ」 「俺は好きなんだよっ」 「なら一緒に楽しんでくれる相手を選ぶんだね」 男はお前にあわせる気は毛頭ないのだと冷笑に近いものをたたえ、少年の膝裏に腕を入れてシーツに手をついた。余裕じみた軽い突き上げが忌々しくて堪らない、あと少し好きにさせてくれたら終わることが出来たのに。 「ねちねちやる・・・な・・・!」 「可愛がってると言ってほしいな」 どこがだくそったれ。毒づきは心の中におさめ、背中に手を回して強請るように腰を揺らす。それでも男は望みに応えてくれないが、口を開いて舌を出せばキスは容易く与えられた。要らないところに気が回る男だと笑って頭をかきいだく。正確に見極めた限界まで追い詰める息子に比べたとき彼の手管は酷く稚拙或いは大人で、その生温さはもどかしくてたまらない。いい加減にしろよと思う反面、ゆっくりと染み渡っていく快楽に心地よさを覚えるのは何故なのか。安心してる?そうかもしれない。 実子に父親らしい側面を一度たりとも見せたことがない男は、実父に頭すら撫でてもらったことのない子供を良く抱き上げて他愛無い童話を語ることすらしてくれた。自分の居場所、何の気負いもなく息をつける場所はここだけだったのだと今になって気づく。それを惜しいと思うのは取り戻せないからこそだ、けして欲しいわけじゃない。 「ね、もっと」 「堪え性がないね」 「我慢できないんだ、宝条」 これ以上余計なことを考えさせるな、ここにきたのは甘っちょろい感傷に浸るためじゃない。 その気にさせようとあざとい言葉を吐き続ける子供、それに乗せられたわけではないのだろうが男はやれやれと嘆息して、子供に一瞬の死を味わわせるべく侵略を開始した。 男は繋がりを解いたあとも体を離さず、傷ついたガラス細工を修復するかのように至る所に口付けを降らせてきた。そういえば初回もこうだったと思い出す。 「どうして泣いた?」 唐突な問い掛けの意味を理解するには僅かな時間を費やさなければならなかった。ずっと聞きたかった、そんな顔している男とは対照的に、子供にとってそれは些末な問題ですっかり忘れていた。 「ああ・・・喪失感かな」 「処女性の?」 可と不可或いは保留、科学者らしく理論を愛し曖昧で不確かな要素を嫌う男が、男の自分にその言葉を用いてくるのは些からしくないが、胸中で反芻すれば極めて妥当だと思った。 「特別だと思っていたんだよね。でも結局、そんなものはありはしなかった」 「少なくとも愚昧な大衆と比べれば、お前は特別だと思うが」 「変わらない」 英雄と呼ばれる男、絶対的な権力を得るべくして生まれてきた自分は大衆と違うと思って生きてきた。そう確かに特別だと思い込んでいたけども、何を以って特別というのか、命の価値かそれとも能力か。その点で言えば確かに自分たちは特別な存在、けれど結局のところそれは固体の差に過ぎないのだと。 「・・・ああ俺がどうのと言うよりもね、多分俺は、お前が男だったことにショックを覚えたんだ」 「どうして?」 「両親の性交シーンを見て衝撃を覚える子供の心理・・・ってやつかな。俺にとってのお前は、俗世から切り離されているという意味での特別だったから」 狂信的なまでに科学だけを信じる男は今でも世俗的ではないと思う、思うけれど普通の人間と変わらないことを解ってしまった。他人とは違う、そんな風にはもう思い込めない。それは子供か頭のいかれた人間だけが持ちうる特権、後生大事に抱いていたらとてもじゃないがこれからやっていけない。 「後悔してるか?」 ぼんやりと天上を見つめていた少年は男に視線を移し、薄い唇の端を持ち上げた。まさか。 「今この時期だからこそ、俺はとっかえひっかえ色んなやつと寝れた。いいんだよそれで、それで十分だ」 さして興味のなかったこの容姿に利用価値があることを、体を差し出せば得られるものがあることを知った。欲に塗れた大人を嫌悪しながらも己とて大差ことないを自覚した自分はもう二度と迷わない。それだけで十分だと思うし、それに―――。 「子供の綺麗事にはもううんざりだ」 吐き捨てた子供に男は哀れみの視線を向けた後、声をあげて笑った。 |