誰だ、これは。

 ツォンは胸の内で呟いた。そう言えるくらい軟な身体は抱きこむほどにツォンの腕をその身の内に纏わせている。輝く金の髪は水滴に濡れ、重そうにしなってシーツに流れ、同じく濡れた二対の目は底が知れぬ程に澄んでいた。
透けるような目の色に目の前の人間は青い色の血を流すのではという思いさえ過ぎった。
 馬鹿馬鹿しいことだ。だがそれほどの非現実感が眼前にある。
ぞんざいに羽織ったシャツの合わせから成長途中のゆるい曲線を描く薄い胸が見える。そしてそれから頼りない腰にかけてひとすじ、どちらのものとも言えぬ汗が流れ落ちるのを見咎めて眩暈のする思いだった。

誰だ、これは。

 細く、白い腕が自分の首に巻きついている。もう、ずっとそうしていた。彼は驚くほど自分に縋っていた。
こんな彼は知らない。大人にこんな媚態を見せ付ける子供など知らない。
不意に顔を上げた彼の唇が笑みの形を結んで開いた。
その倣岸な笑みだけは昔のままだ。
「行くな」
笑顔で言う言葉か。自分に絶対の自信を持つ者特有の笑み。全てを持つ者が持たざる者に潜在的に向ける笑みだ。今まで何度も見てきた。激励、慰労、叱咤、賞賛…その全てに彼はこれを忍ばせている。
それを思い奥歯を噛み締めると自然眉が寄った。苛立つ自分を見下ろすもう一人の自分を感じる。
「…もう、何もかもが遅いのです」
張り付いたかのような彼の腕を取る。重く引き掴む片腕を無理矢理剥ぎ取ると爆発したように彼が怒鳴った。
「遅いわけがあるか!俺が、この俺が間に合うと言っているんだ。今からでも遅くない。
 親父の命令に従う謂われはない。俺の命令に従え、ツォン」
「あなたにはなくとも私にはあるのです」
激昂したルーファウスの声に負けないくらい大きな声で怒鳴った。
見下ろすもう一人の自分はそこまでする必要性を考えている。いや、何もかもが遅いのだ。
彼も自分もタークスと神羅上層部の関係改善も主任が死んでからでは遅すぎる。
 人柱よろしくプレジデントの怒りを静めるための礎となった主任には悪いが、それで全てが丸く収まるわけがない。
タークス内部は疑心暗鬼に揺れ、何より自分自身が納得出来ない。
もうこうなっては離反も止む無しとさえ思うツォンとは対照的にルーファウスは自身の価値を分かった上でタークスに乗り込んできた。それがまた簡単に自分たちを御せると言った思惑が透けて見えるようでツォンを煽った。
今の仕事に納得出来ぬまま諾々とプレジデントに従う自分をルーファウスは言葉巧みに自分自身の野心へと誘う。
己の価値を分かった上で。
『貴方のその細い首をへし折って父親殿に献上して差し上げても宜しいのですよ、あなた方親子はそれ程の事を主任や私たちに対して行ったのです』と、面と向かって言っても良かった。
 そうしなかったのは僅かに残った自尊心のせいだ。それだけだ。

 ルーファウスは取られた片腕を振り払い、ばねのように勢いよくツォンのネクタイを掴み上げ、それを支点に馬乗りになった。彼の両手には余る首囲ながら頚動脈を押し潰さんばかりの馬鹿力にツォンは初めて焦り始めていた。
「なぜあいつの命令には従う!なぜ!」
「それが前主任のご遺志だからです!」
ギリギリと締め上げるルーファウスの予想外の力に純粋に驚きながら、それでも大声でツォンは叫んだ。
ルーファウスの顔が更に歪む。
「くそっヴェルドめ…あいつ」
その口が呪詛の言葉を並べる前にツォンは身体を大きく捻り、バランスを崩した彼が床に倒れるのを荒い息の中見た。
 受け身さえ取らないまま肩から床に落ちた彼は激昂に頬を染めていた。長めの前髪が凶暴な瞳を隠すように覆い、まるでルーファウスが知らない誰かのように見える。お互いの呼吸音だけが室内に立ち込めていた。
心臓は割れそうに痛み、動悸が肺を過剰に鳴らした。腋の下はびっしょりと汗で濡れていた。
いつも固く引き詰めている自分の髪もほつれながら額に落ちかかっている事にややあってツォンは気付いた。
 とにかくひどい有様だった。シャツの小さなボタンは部屋の隅に追いやられ、ネクタイは裏地が取れかかってだらりと首に垂れ下がり、糊のきいたスラックスはめちゃくちゃな皺が寄っていた。自分の顔もこれらと大差はないだろう。
ツォンは粘つく意識を振り払い苦労して立ち上がった。様々な憂鬱が自分の身体を床板へ再び縫い止めようとしている。酒を飲んで夢も見ない程深く眠りたかった。だが、それでも明日は仕事がある。
「申し訳ありませんでした」
床に伏したまま身動きもせずじっと蹲っている彼の肩に手を掛ける。
ルーファウスは無言のまま身体を更に縮こませ、次に足を起こし、手をついて顔を上げた。そしてそれらを非常にゆっくりと行った。根気強くツォンはそれらを助けた。一時の激しい激情が過ぎ去った後に動きが緩慢になるのは彼が幼少時から良くある事だった。彼は概してこういった場合には決して謝らないけれども、ツォンにとってはそれが拗ねているようでもあり、彼なりの反省の意のようにも映った。
─自分に都合のいい解釈も必要となれば幾らでも創造出来る。
「大丈夫ですか?」
そ知らぬふりでツォンは続けた。
しかしあらゆる出来事は理解出来た頃には遅すぎる。
 ツォンは宝条の実験解剖に付き合った時の事を思い出した。宝条はあれでいて暗示的な男だ。
彼は水音の反響する手術室内で得体の知れない生物相手に助手の数字を読み上げる声だけを聞き、そしてそれがゼロを告げた時解剖刀を皿に置いた。今の今まで取っ組み合っていた肉と骨の残骸に一瞥を恵むような視線が、光の失せた瞳で行われた。そしてそれが実験解剖終了の合図だった。
「これだけの情報を得る為に貴方自らが執刀するのですか?」
「そうだ」宝条は答えた。
「なんて顔をしているんだ?お前たちも情報の為に殺しているだろうに」
真っ赤に塗れた宝条の両手はそのまま広告にでもなってしまいそうだった。老いの刻み込まれた皺の襞がラテックスの不透明な手袋で引き伸ばされ、乾いた肌を覆う乳白色は往時の繊細な手指を想像させた。へばりつく血糊は普段自分が見慣れているものよりも、もっとずっと鮮やかだった。
「『寛容さは無関心の最大の形態』、だ」
独り言のように宝条は続けた。
「どこかの金言ですか」
「ただの皮肉さ」
 彼が滅菌手袋を脱ぎ捨てると赤い色は一瞬で払拭された。彼の助手が忙しく死体の周りを立ち回り、すべてを片付け、消毒した。排水溝は汚れた音を立ててそれらを飲み込んでいき、濾過された空気は何事もなかったかのように流れた。
 死体になった情報の塊。たとえ理解を得られてもそれからでは遅いし、その為に死ぬのは馬鹿げている。
(そんな事はわかっている)
ツォンはかぶりを振った。ルーファウスが立ち上がるために手を貸し、身なりを整える。
「何を言っても無駄なんだな」
彼の革靴の紐を結び直してやるとルーファウスが背中へ吐き捨てるように言った。
「ええ、明朝発ちます」
ツォンは立ち上がり、平坦な板のようになった青い目を見、決然とそう言った。
ルーファウスはただ一言そうか、と返しやおらツォンの首に手を掛けた。
ぎょっとして僅かに後ずさると彼は撫でるような笑みを浮かべ、ツォンの首に引っ掛かったままだったネクタイを手ずから外し、そして捨てた。名残のように金の髪が頬を滑り、遠い国の花の香が霧散していった。

 もしかするとこのまま自分(あるいは彼自身)は少しずつ切り取られ、数字を取られ、消毒され、処分されてこの部屋は何事もなく過ぎ去るのかもしれない。濾過された感情は次の獲物を待ち望んで、手に入れる前に死んでしまった目の前の実験動物など見えないのだ。
(好都合だ)
ツォンは恭しく一礼し、ドアを閉めた。