夜の痛み

 

夜毎、痛む。
昼間は何故か感じないこの痛み。
左頭蓋骨の内側から響く重い鈍痛。こめかみがその頂点だ。
上顎と下顎をつなぐ蝶番がぎしぎしと痛む。
思わず少しでも痛みを和らげようと指を伸ばすが、痛覚が引くのは指が触れる一瞬の間だけ。
それを過ぎれば何故傷を悪化させる行為をしたのかと後悔する羽目になる程痛みは増す。
その繰り返しに肺からもうたくさんだ、と重い息が吐かれる。


ああ、痛い

声を上げる程ではない。だが我慢していられる程穏やかなものではないのだ。
仕方なくルーファウスは机の引き出しの奥深くに埋められている薬に手を伸ばす。
いつも飲む薬の箱を見ると苛ただしさに余計痛みを意識してしまう。
(クソいまいましい)
叩きつけるくらい引き出しを派手に戻すと衝撃に机上の書類が数枚床に舞った。
拾う気も起きない。
下顎と左目付近まで痛みは広がってきた。
焦ってアルミの包装で指を切りそうになる。
ルーファウスは舌打ちするとその箱を力まかせに握りつぶした。
薬を飲んだところで耐性がついたのかなかなか効かないのだがそれでも少しはマシだ。
この時間が最もイライラする時間だった。
もうすぐ痛みが引くんだという期待と他に手の打ちようがない事からくる焦り。
二時間待っても薬が効かない事も最近ざらで、その間痛みで眠れもしないし
酒は余計に痛みを増す。
「……ッ」

宝条のラボには行きたくなかった。
かといって他の医者を呼びたくも無い。

だがこうやって毎夜痛みに悩まされるのもうんざりしてきた。
このくらいの痛みにいい年をした男が騒ぐなんて、と思っていたが
だんだん自分が病院に行くのを嫌がる子供の様に思えてきた。
十日程我慢してみたが十分じゃないだろうか。

ああ、クソ、でも、どちらにしろ宝条は呆れるだろうな。

その会話を想像してルーファウスは再度うんざりした気分になった。
まばたきしても感じる程ひどく、痛みは静かに悪化しているように感じられた。




宝条のラボは薬のツンとした匂いと絶えず動く機械の音と埃の味がする。
彼の白衣にぽつりと染み付いた血の跡がこの研究所で行われる実験を物語っている。
ルーファウスはそれに本能的な不快感を感じたが宝条は特に気にしてはいないようだった。
「ストレスだろうな」
予期していた理由が宝条の口から上がるとルーファウスは短く嘆息した。
「…つまり?」
「原因は不明だ」
「……」
「いっそなにかの疾患なら良かったんだろうが、原因が分からないとなると治療も
 難しいねぇ」
「藪め」
「と、言われても」
宝条は言いながらコツコツとキーボードをペン先で叩く。
その音に合わせてルーファウスの痛みもリズムを刻んでいる気がする。

馬鹿にしやがって

「原因が分からないなら仕方ない。薬、痛み止めをくれ今すぐ」
さっきより痛みが酷い。
夜が深くなる程に痛みも進む。一体これはどういうことなんだ。
「早く!」
掴んだ手のひらに爪が食い込む。
「そんなに痛むのか」
僅かに宝条の目が見開かれた。
「わからない…うんざりしてるんだ。早くしてくれ…!」
宝条はらしくないな、と言って一寸笑った。
「分かったから爪を立てるな。そうならそうと何故もっと早く来ない」
「…」
言いながら使い捨てのプラスチックの注射器から透明な液体を、空気を抜くために僅かばかり押し出す。
ルーファウスはふと、ガラスなら綺麗だったのに、と思いそれでもそれを扱う宝条の長い指に少し見とれた。
ひどく時間が遅く感じた。
「腕を出せ」
頭は早く、と願っているのに体は一気に逆転した医者と患者という立場に戸惑い怯えてさえいた。
のろのろと腕を上げてカフスを外すと、宝条は逆にこんな事は早く済ましてしまいたいというかのように
性急にルーファウスのシャツを繰り上げた。
ひやりとアルコールが申し訳程度に静脈を撫ぜると宝条は強く血管を押さえた。
長く繊細な指に不釣合いなその握力に、針を突き入れるという目的以外のものを感じて
小さく体が震えた。白衣の血痕が宝条の動きに合わせて揺れていた。


「……子供じゃあるまいし」
針を抜く時に、小声で呟かれた言葉をルーファウスはぼんやりと聞いていた。




この痛み。

夜が明ける。少しずつ少しずつ骨から引いていく。
薬のお陰か夜が終わるお陰かルーファウスには分からなかった。
宝条はすぐ終わると言ってパソコンからずっと動かない。
強い薬に足元が覚束無くなった自分を彼は私室のベッドに運び込んだ。
事後経過の観察でもするつもりなのだろうか。
眠いような気がするが妙に気分が高揚していた。
 
眠るのが惜しい気がする。

「……子供じゃあるまいし」

煙草を吸わない宝条のベッドサイドに灰皿があるのを目の端に、
数刻前の宝条の科白をかすれた声で繰り返していた。