予兆

 

 

 

 出立の日まで時間はあまりなかった。
暇な間は干されたのかと疑うくらい音沙汰がないソルジャー部門は
今や矢継ぎ早の任務に人手不足だった。
 次の魔晄炉調査地は名もない小さな村だ。
山間に囲まれた村は携帯の電波が届くかさえ定かではない。
まさか軍の無線で愛の告白をするわけにも行かず、ザックスは早急に
用事を済ませなければならなかった。
 しかし、伍番街スラムの教会に彼女の姿はなかった。
いつも手入れの行き届いている淡い花々たちが、彼女の姿を探すようにさわさわと揺れていた。
「おい、お前」
頭上の番犬然としてるモンスターに話しかける。
「エアリス知らない?」
翼の生えた番犬は穏やかな目でただそこに佇んでいるだけだった。

 

 


 仕方なくぶらぶらとザックスはスラムを歩いた。
雑多な町並みは田舎生まれのザックスにとって眩暈がするほどで
プレート下の陰鬱な空気もあいまって、何度も時計を確認しなければならなかった。
──今は何時だっけ?
 いつまでも夜のようなスラム街は時間の感覚を鈍らせ、そこここにぶら下がっている
照明器具が幻惑するようにザックスを誘った。
人が押し合いへし合いしながら流れていく。
誰もが何かを探しているようであり、どこかへ行こうとしているようでもあり
今一緒に歩いているのはただの偶然でしかないようだった。
その人波に揉まれながらザックスは時間を殺して歩いた。
本社に戻って、トレーニングの後もう一度出直したっていいはずだった。
だが、足は円のようにミッドガルを巡るスラム街の端を探すように止まらなかった。
今すぐ彼女に会いたかった。
 目の前で笑い声が弾け、怒号が飛び、赤ん坊の泣き声が響いても歩き続けた。
任務の中で見てきた様々な風景や事象が街中のささいな影に断片的に浮かび、消え、それでザックスは
悲しくなったり懐かしくなったり、改めて怒ったりした。
目はもう時間を追わなくなっていた。
足は急ぎ気味になり、段々と追い立てられるように進んだ。固く握った両手の皮手袋がギュウギュウと鳴った。
通り過ぎる雑踏の景色の中で、容赦ないネオンライトの明かりが、ザックスを派手な赤や青や黄色に染め上げたが
目まぐるしく変わる光には目もくれず、ザックスは街中の影を求めて歩き続けた。
時折無遠慮に肩や腕を引っ張られたが、それすらも払いのけた。
 ついにあまりにも強く腕を引っ張った客引きの男に、ザックスは感情に任せて怒鳴ろうとした。
今思えば、きっかけが欲しかっただけなのかもしれない。
顔の上に張り付いた能面的な感情を動かす何かが欲しかった。
 怒りに任せて振り向くと、不意にその視界の端に小さな女の子が見えた。
スラムに軒を連ねる出店で買ってもらったらしい赤い風船をもった少女はザックスに怯えていた。
その小さな肩を震わせてじっとこちらを見ていた。
「…悪い」
男に謝罪し、ザックスは息を吐いた。どうかしている。
怖がらせてしまった女の子に笑いかけようと顔を上げたが、通りに小さな女の子の姿はもうなかった。
時計を見ると2時間も経っていた。
暇つぶしの散歩にしては長すぎる。
「あーあ」
立ち止まり、空を仰ぐ。頭上はプレートのせいで薄暗く、見えない重圧が肩に圧し掛かっているようだった。
(ここはあまり好きじゃない?)
昔、出会ったばかりの頃彼女にそう言われて初めて自分が面食らった顔をしている事に気付いた。
紛れもない地面の上なのに地下のような雰囲気に圧倒されたのは本当だ。
(でもオレ、こういうの好きかも。秘密基地みたい)
彼女は子供のように笑うと、笑い声のまま(変なの)と言ってまた笑った。
(でも、分かる)
 彼女は、ザックスの先に立って歩き出した。
初め戸惑い、騙されたスラムの住人も、蓋を開ければ自分の故郷と変わらなかった。
(ね、みんないい人たちでしょ?)と彼女は言った。
 
 よし、とザックスは気合を入れなおした。
考えたって始まらない。当たって砕けるしかない。
 ザックスは大きく息を吸うと、今まで暗鬱と辿っていた道を戻るために踵を返した。
「わっ」
どすんと尻餅の音が響く。
急の方向転換に相手を吹っ飛ばしていた。ファーストはこれだからいけない。
「す、すまん。大丈夫か?」
慌てて駆け寄ると金髪の少年がびっくりして目をしばたいていた。見覚えがある。
「クラウド?」
「ひどいよ、ザックス」
クラウドは吹っ飛ばされた自分に幾分腹を立てているようだった。
少年兵は、背も体重も力も足りない自分に気落ちしながら、それでも差し出されたザックスの手を素直に取った。
「ごめんな、クラウド。でも、どうしてここにお前が?」
よく見ると、クラウドの右手にも風船が握られていた。苦笑しながら「今日は非番?」とザックスは聞いた。
「うん」と、クラウドは答えた。立ち上がる動作の中で風船がふわふわと揺れていた。
「偶然、ザックスを見掛けたんだけど様子がおかしかったから…」
クラウドと一緒に恥かしそうに赤い風船が揺れた。
「それ持って?」
ザックスが笑いながら風船を指差した。
「違う。これは、さっきそこにいた女の子が…」
先ほどザックスが見かけた女の子と同じ場所をクラウドは探した。
「あれ、おかしいな…」
きょろきょろと見まわしたが、結局クラウドも見つけられないようだった。
「その女の子ならオレも見たぜ」
「うん、俺いきなり風船渡されて…」
クラウドはばつが悪そうな顔をした。
「返すつもりだったのにな」
雑踏の中で頭ひとつ分浮いた赤い風船は目印のように目立った。
「いいよ、お前それ似合ってるよ」
ザックスがからかい半分で褒めるとクラウドは
「ひどいよ、ザックスは」
と言って笑った。


 雑踏から離れ、静かなミッドガルのふちに並んで座ると、遠くから建設工事の音がかすかに聞こえた。
今のミッドガルはどこもかしこも建設途中だ。神羅ビルも例外ではない。
鉄骨が剥き出しの神羅ビルはとても脆く見えたし、クレーンで引っ張り上げられる冷たい鉄板は
ずり落ちそうなほど不安定な形をしているのに、それらはとても頼もしく見えた。
 これから、この街はどんどん大きくなるんだろうな、とザックスはなんの気なしに思った。
今よりもっと大きくなって、人もいっぱい増えて、物もたくさんあって、そういうのがみんな影響しあって
今のオレ達みたいに、遠くの人同士が友人になったり、ごく近い奴らが敵になったり、
色々な事が起きていくんだろうなあ、と柄にもなく思った。
(オレはどうしてソルジャーになったんだっけ)
「ねえ、ザックス」
不意にクラウドが「あれ」と指差した。
クラウドが精一杯指差したプレートの天井に、かすかに小さな人影が見て取れた。
まさか、と思うくらいの高所でその人影は働いていた。
「すごいな。あんな高いところに」
クラウドは目を細めて影を追っていた。
人影は工事現場の一員らしく、天井の合間を行ったり来たりし、おそらくは何かを留めたり、
設置したり、溶接したりして、この大きなミッドガルの小さな区画を形作っていた。
 張り巡らされた細い骨組みの上を、その驚くべきバランス感覚で真っ直ぐに歩いている。
厳重な命綱あっての仕事だろうが、遠目にそれはとても軽やかに、楽しげにさえ見えた。
「すごいなあ。怖くないのかな?」
クラウドはわくわくと、まるで独り言のように呟いた。
「さあ、どうだろうな。眩暈がしそうだ」
対して、ザックスは大袈裟に身震いして見せた。クラウドが笑う。
「あそこから見たらここってどういう風に見えるんだろう…」
相槌を打ちながら、ザックスも同じことを考えていた。
上から見たら、ここはどういう風に見えるのだろう?
 一人一人の顔は見えないだろう。声も届かないに違いない。
その窓の奥の生活も、葛藤も、遠目にはやはり軽やかに楽しげに映るだろうか?
「なあ、ここから手を振ったら見えると思う?」
悪戯っぽくザックスは笑った。クラウドは面食らったような顔をした。
「絶対気付かないよ。遠すぎるし」
「でもやってみなきゃわからないだろ?」
そう言うとザックスは人影に向かって大きく手を振った。
腹の底から声を出し、その人影に呼びかけてみた。
「おーい!」
上半身を大きく揺らし、スラムの天井に向かって思い切り腕を伸ばした。
スラムの蓋である天井と、この地面の上の距離は広大な空間で隔てられていた。
それでもザックスは懸命に腕を振った。
「なあ、これ向こうが気付いたらメシお前のおごりな!」
「絶対気付かないよ!」
そう言いながら、クラウドも期待に目が輝いていた。
人影は相変わらず彼の仕事を忠実に守っているらしかった。
吹き上げる地上からの風も、あまりの高みにも怯えず、ただ淡々と自分の担当区域を作り上げていく。
─自分はどうしてソルジャーになったのか。
張り上げる声や、腕にいっそう力が入った。
頭の中でこだまする疑問に、体の奥から湧き上がる答えが力強く叫んでいた。
(オレがソルジャーになったのは…)

 ザックスはいつまでも遠く隔てられた彼に、何かを伝えようとしているかのように手を振り続けた。
クラウドの右手に絡まった糸に繋がれた風船が、二人の頭上で優しく揺れ、
それが目印のように地上に赤い点を残していた。