【更紗らんちゅうの観察】

  京都式の魚を振り返ってみると、その魚の元になったものは、昭和30年代から見られ、日本らんちゅう協会(以下「日らん」)と共通の体形をした魚でした(京都式の魚については本誌97年1月号に元京都金鱗会副会長橋本康雄氏の「長老愛好家が語る京都式らんちゅうの思い出」として詳しく掲載してあります)。当時、京都金鱗会の宇野仁松会長は、この「日らん」の創始者の一人であり、総本部理事、審査員、西部本部長をしておりました。
 氏の職業は陶芸家で、兄の宗棄氏は、釣窯、青磁の無形文化財作家として有名であり、弟の三吾氏は、トルコブルーの個性的な作品を作る著名な作家です。宇野さんは作陶の傍ら、幼少の頃よりランチュウに情熱を傾け、魚を鑑識する眼は、芸術家としての審美眼も加わり、当代随一の方でした。
 ある年、宇野会長の池から、頭が赤く腰白の魚が突然変異のように創出されました。これは計画的に創出されたものではありませんが、氏の長い経験の積み重ねによるものであります。この腰白の魚は目新しい色彩の魚ではなく、以前より存在していたものですが、これまでの魚と異なり、京都の風土に似合った品位がありました。
 後に、京都式の魚とは、頭から背にかけ赤く腰白の魚で、尾は刷毛で掃いたように赤く、味わいある魚で、この味わいと色彩が、京都式の魚といわれるようになりました。しかし、この魚筋は固定されたものではなく、宇野会長や京都金鱗会の会員の中で飼育されておりましたが、このような色彩の魚は当時多く創出されていた訳ではありません。
 京都金鱗会では、例年春に種魚の特販会を催しておりました。この特販会には、宇野さんの魚に加え、主だった役員も協力し供出しておりました。宇野さんは、晩年、生涯を理想とする魚の種魚作りに専念されており、特販に出されていた魚はその過程のもので、固定された魚ではありません。特に、京都式の魚と呼ばれるようになってからは数多く飼育し、高齢でもあり十分な飼育管理ができず、魚体も小さくなっていきました。それと同時に、宇野さんが憂慮していた近親交配の弊害が現れ、目が斜視になったり、色彩はきれいなものの、尾形が弱く華曹な体型の魚が創出されるようになりました。この弊害について、同会の役員間でも批判の声が出ていました。
 特販会には、関東や九州、大阪と、他県の愛好家が多く集まり、即売はセリで行われ、宇野さんの知名度もあり、かなり高額で売却されたものでした。この特販魚を、県外の愛好者の中に、あたかも小さく華著な魚が宇野さんの魚と誤解し、価値観を高めるため、宇野系と称し珍重する者が現れるようになりました。そのため、伝統的な飼育をしている「日らん」系の品評会では不評でした。
 しかし、宇野会長存命中の京都金鱗会の品評会では、華著で貧弱な魚は一尾も見当たりませんでした。不評になった原因は、種魚そのものを愛好する者が現れたからなのです。これについて宇野さんは、再三警告しておりました。
「関東や他県の方で、小さい魚が私の魚だと言っているようだが、私はそんなことを言った覚えがない。私が理想としている魚はまだできていない」と明言していたのです。これは金鱗会の会誌にも公表してあり、私も直接何度もその話を聞いておりました。
 また、金鱗会発行の宇野さんの著書に、魚の成長は「5月上旬頃に膵化した仔魚は、6月中旬には約3cm近くに成長しております。それがその秋には鶏卵大75g以上に育ち、翌年秋には150g、3年目には260g以上に発育して成長期が終わります」とあり、ちなみにこの重さの魚を目先から尾先まで計ると、当歳魚で約11cm、二歳魚で14cm、親魚で18cmです。当時、私の魚でも、もう少し大きくした方がよいと言われたものでした。
京都金鱗会の隆盛
 一方、京都金鱗会の会員の中から、素晴らしい魚が続々創出され、その評価が高くなりました。その魚は宇野系と称する魚でなく、京都式の魚として評価されるようになったものです。もちろん、その魚筋の始祖は宇野さんの魚ですが、氏は完成した魚を作っておりませんでした。会員がそれぞれ、志向する魚に精進した結果、京都式の魚が創作されたものです。これらの魚は華曹な体型ではなく、色彩がきれいで体型がよく†、立派な魚が多く品評会に出品されておりました。
 この京都式の魚が並ぶようになって、京都金鱗会は発展の一途を辿り、全国よりこの魚筋の愛好家が集い盛況でした。集まった魚は特販の魚のような華著な姿形でなく、会員はそれぞれ自分の魚を選択飼育し、京都という風土の中で、京都式独特の味わいを醸しだす魚でした。これは会貞の努力によるもので、宇野系と称する魚が出品されても、品評会の魚として評価されず、それらの魚は実績がありませんでした。
 私が一番印象に残っているのは、昭和50年頃の魚です。この頃の魚は、頭部が濃紅な面被りで背まで赤く、腹部から腰まで白く、鱗は整然と並び、尾鰭の赤いきれいな魚でした。頭部はそんなに発達しておりませんでしたが、背が低く尾付までの背成りは抜群に素晴らしく、背幅があって大味があり、尾は小さく、泳ぐと尾先がほどよくたわまり、品位と味わいのある魚で、大きさは「日らん」の魚よりやや小さいくらいでした。
 現今では、龍頭が持て嘲されておりますが、龍頭の魚筋ではこのような魚はできないものです。あれから25年、そのような魚筋が見られなくなってしまったのは残念です。

 栄枯盛衰は時の流れか
 京都金鱗会は昭和30年前後は一地方の同好者団体でしたが、当時の副会長桜井氏や、常任理事の橋本氏等の活躍により、「日らん」の全国大会で上位を占め、知名度が高まりました。また、京都式の腰白の魚が評判になり、会員数が増大し大所帯になりました。
 しかし、会員が増えたものの地元の会員はそう増えておらず、他県の愛好家が多かった訳です。それで、役員の中から、他県の会員の意見を開く、特別理事がいてもよいのではないかという意見も出されましたが、京都独特の気質と老舗の閉鎖的な所もあり、長老指導で運営しておりました。
 この組織運営が、会の衰退につながる大きな原因となっていました。全盛の昭和50年過ぎ頃から、知名度の高い宇野会長を担ぎだし、密かに他県の会員が発起人となり、体制に不満を抱く若手会員を中心に、別の会を作る気風が出て来ました。この会は当初、宇野さんの直接指導を受けるということで、30人程度を目標に、研究会的な会として発足する計画でした。それが、いつしか全国的な規模となり、既存の他の会を誹斉し、昭和54年の秋に発会し、金鱗会の県外会員のほとんどが脱会し参加しました。したがって、県外会員依存で発展していた同会が、以来、衰退を辿る原[削こなりました。
 私にも、宇野さんの単独審査だからと、発起人から誘いがありましたが、私は金鱗会で育った身でもあり、退会の理由がなく在籍のまま参加しました。在籍のまま参加したのは私だけで、もちろん、宇野さんは京都金鱗会の会長でした。また、この会が発足すると同時期に、他にも宇野さんを擁し、同じような名称の会が設立されました。
魚体の混迷
 この会が発足した後、昭和57年3月宇野さんは老齢のため亡くなりました。
在籍したのは僅か3年でしたが、評価は京都金鱗会と同じく、未熟魚は品評会の魚と評価せず、鑑識も魚の大きさも何ら変わることがありませんでした。しかし、重鎮を失い、宇野さんを慕って入会していた人たちはほとんど退会し、組織の改正がなされました。その時、私が同会の副会長に推されました。
 全国組織とはいえ、重鎮を失い、所詮寄り合い所帯であり、それぞれの主義主張が現れ、魚体も小さくなりました。そこで昭和57年7月31日、石川県の粟津温泉で、運営の諸問題と審査方法について協議しました。一番問題になったのは魚の大きさです。私はこれまで通り、京都金鱗会の大きさを継承すべきだと主張し、小さい魚をという相反する意見の方と対立しました。それで、中をとり百円ライターの大きさ、すなわち8cmと決めました。
 ところが、品評会の審査では、小さい魚を優先するようになり、年毎に小さくなっていき、この魚筋の伝統が守れなくなりました。それで、私の長い飼育経験と調査に元づき、平成元年本誌に「京都筋らんちゅう飼育考」として京都式の魚について寄稿掲載しました。現在もランチエウ飼育の啓蒙になればと思い執筆していますが、宇野会長亡き後の同会とは意見が合わず、京都式の魚を継承すべく副会長を辞任(解任)しました。その後、その会ではまた内部で意見が分かれ、別会派ができ、分裂後は魚が少し大きくなったそうです。
 京都式の魚は各地で飼育されており、宇野さん亡き後、この魚筋がさまようようになりました。宇野さんは「日らん」の元総本部理事でありました。したがって、氏の基本姿勢はそこにあり、加えて芸術家としての審美眼により、肌が美しく上品で、しかも太味を持つ魚だが、特に魚っぶり(バランスと味わい)の良い魚を理想としておりました。
宇野系と称する魚
 数年前、昔の京都式の魚が忘れられず協力してほしいと、ある地方の方から要請がありました。氏は地域で同好会を運営しており、宇野系と称し、この魚筋の魚を商いとしております。一応話を聞き魚を見ると、色彩は京都式でも魚体が未熟で、善し悪しが分からない状態の魚でした。それで、伝統的な飼育をするならと協力を約束しました。
 ある日その方より、本物の宇野系の魚を見つけたから、ぜひ見に来てほしいと連絡がありました。赴いたところ、4〜5人のグループで宇野系と称し、その魚を3筋目とか、4筋目とかに分け、分担して飼育していました。一軒一軒見て回りましたが、飼育歴も浅く、目新しい魚が見当たりませんでした。最後に案内された家の魚は、振り返ってみると、私が昭和40年頃に飼育していた体形の魚に似ていました。宇野系と称する魚ではなく、一時期の−つの経過点の魚でした。
 その後、その方よりこの魚筋の贈呈を受け、実験的に飼育してみることにしました。譲り受けた魚は3cm位で、いわゆる、京都式の色彩をした亘らんと称する部類の小さな魚です。伝統的な飼育法だと、6月頃の黒仔の大きさです。この大きさの時は欠点が凍れず、日本一の魚が池にうようよいるように見えるものです。ところが、成長するにしたがい欠点が現れ、淘汰を重ね、秋にエリートとして残る魚は、数尾しかおりません。これがランチュウ飼育の醍醐味であり、奥の深い趣味といわれる所以であります。
 豆らんの当時成魚は、この6月頃の欠点がそんなに現れていない大きさの魚です。ですから、当歳魚として完成されたものでなく、大きく成長させると欠点が出てくる魚です。また、魚体が小さいと、先行きが分からないものです。そこで、譲り受けた魚を、私なりに飼育しましたが、豆らんの飼育法により体質が固まっており、大きく成長しない魚でした。
 産卵期の4月、4cmと成長しなかったものの、仔引きしてみました。その結果、槌色を終えた8月、親魚は未熟魚であっても、仔は9cm以上に成長しました0色彩は京都式でしたが、背が琉金のように盛り上がった魚や、二段背の魚が多く創出され、せっかくの贈り物でしたが、次代に繋がる魚は一尾もおりませんでした。これは、三十数年前に見られた形の魚で、私の所では硯今見られない姿形のものです。これでは血筋が古く、背形を改良しなければ次代に繋がる魚とはいえません。この種の魚は小さく飼育し、手軽に楽しむもので、伝統的な品評会に適する魚ではありませんでした。
 また、このグループは、魚筋を3筋目とか4筋目とか称していましたが、私はこの魚筋を長く経験しており、宇野さんから、そんな筋論は聞いたことがありません。念のため金鱗会の古老に聞きましたが、そんな話しは聞いたことがないとのことでした。
 私は、毎年宇野さんの池を観察し、魚を何度もいただきましたが、その年によって姿形が異なっており、次代に引き継ぐべく、一つの過程の魚でした。したがって、宇野系として固定された魚ではありません。また、宇野さんが亡くなり随分年月を経ており、交配の仕方や志向により、現今では魚も代替わりしております。氏の功績は大きく評価されますが、京都式として引き継いでいる魚がいても、宇野系と称する魚はいないのではないでしょうか。
 この、京都式の魚を志向している同好会がいくつもありますが、強いて言えば、それぞれのグループの魚だと言った方が適切だと思います。私の魚も、元は京都式の魚ですが、すでに魚筋として「更紗廟鰊」と称し、宇野系ではなく、さらなる改良を重ねながら飼育しております。
 人間が作ったものは、進化してこそ進歩がある訳で、現状維持は退化に等しいことです。ランチュウは先達の趣味者の努力により、品種改良されたもので、長い年月を経て今日の姿形になりました。しかし、これで満足している訳ではなく、より良いランチエウを求めてこそ、それが進化に繋がっていくのです。
だからこそ、価値観の高い魚なのです。したがって、魚に権威を付けるためや、商いのために知名度を利用する呼称は、宇野さんの意思に反するのではないかとも思われます。