「喪服の似合うエレクトラ」初日まで、あと一週間強。
岩波文庫はしつこく貸し出し中のため、
電話帳のように厚い全集を取り寄せた。
登場人物、あらすじをざっと斜めよみしたあとで、
いまさらながら、気がついたこと。
「エレクトラ」という登場人物は、どこにもいない。

では、「エレクトラ」とは、一体誰だ?





「姉と弟が父の復讐のために母(とその情夫)を殺害する」物語は、
アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスというギリシャ悲劇の
三大詩人がそれぞれに作品を残している。
オニールが参考にしたのは、ソフォクレスによる『エレクトラ』である。

「エレクトラ」は、血塗られた家系アトレウス家の娘エレクトラが
盲目的な復讐の情念に燃える凄惨な復讐劇。

母クリテムネストラとその情夫エギストに父を殺されたエレクトラは、
母と義父に対する憎悪を燃やしていた。
父への思慕と、復讐を果たすであろう弟オレストへの期待を支えに
生きるエレクトラを、妹クリソテミスは必死でなだめる。
オレストの死が伝えられ、エレクトラは絶望して独力で復讐を実行しようとするが、
実はオレストは生きていた。姉弟はついに喜びの再会を果たす。
そしてオレストの手によってクリテムネストラ、次いでエギストへの復讐が成就される――。

                          … 「エレクトラ」 新国立劇場HPより引用



この作品を踏まえ、「喪服の似合うエレクトラ」を再考すると、
「エレクトラ」が誰なのかは明白。
今回、大竹しのぶさんが演じる「ラヴィニア」が「エレクトラ」である。

ちなみに、原題は「mourning becomes Electora」。
意味は同じだが、日本語訳のほうが雰囲気が出ている。
「喪服」の「喪」は二つの部分にわけられる。

まずは、上の部分「哭」は声をあげて口々に泣くこと。
「亡」は人の死を意味する会意文字。
「喪」は一説には、木の葉がそぎ落ちて枝だけになった状態を
(ガク)といい、遺体が骨だけになってやがて失われてしまう様子を
表した文字ともいわれている。





ソフォクレスによる復讐劇「エレクトラ」。実は一部の臨床心理学でなじみが深い。
フロイトは、息子の母親に対する執着を「エディプス・コンプレックス」と名づけたが、
それと対になる概念、「エレクトラ・コンプレックス」(娘の父親に対する執着)の語源が、
ソフォクレスの「エレクトラ」なのだ。

女性にもエディプス・コンプレックスに対応するコンプレックスが
あることを指摘したのは、フロイトの弟子ユング。
この女性版エディプス・コンプレックスが、「エレクトラ・コンプレックス」。
女児においては始めは母親に愛着心をもつが、5、6歳頃になると、
異性としての父親が愛の対象となり、
そのライバルとしての母親を敵視する、というもの。

フロイトは、エディプス・コンプレックスを、コンプレックスのなかで、
もっとも基本的なものであるとし、他のコンプレックスはこれから派生されると考えた。
コンプレックスとは感情の複合体。
したがって、そこには愛憎の感情が入り交じり、親しみと反撥がない交ぜとなって現われる。
単純に、異性の親を愛し、同性の親を憎むことにはならない。

ユージン・オニールは、このフロイトやユングの考えを
作品に取り入れてていたと考えられる。
自身の父親への嫌悪と複雑な愛情、母親への想い、
それがユングの心理学と結びつき、作品として昇華されたのだろう。
めまぐるしく移り変わる感情と、その凄まじいエネルギーにも
彼の持つ闇の深さが窺い知れる。