<生い立ち>


ユ−ジン・グラッドスト−ン・オニ−ル (>>肖像画 1888年10月16日に生まれた。
父親のジェームズ・オニールは、アレクサンドル・デュマの舞台作に
数多く出演した有名な舞台俳優。
母親のエラはピアニストという表現者の一家に生まれる。

俳優である夫の周遊生活に同伴していたエラは、
ホテルでユージンを産んだといわれている。
幼いユージンは列車とホテル、そして劇場の舞台裏を住処としながら成長する。
母親が薬物依存症を患ったこともあり、不安定で無秩序な生活を嫌ったユージンは
次第に父親とその職業を疎ましく思うようになる。

しかし、「その血液に劇場を隠し持っていた」といわれる彼の才能には、
この原体験が少なからず影響を与えていたと考えられる。
母親の信仰していたアイルランド系カソリックへの畏敬と、父親への複雑な感情は、
しばしば彼の作品の中で「劇的な矛盾」や「神と宗教とのドラマ」として顕われている。

数年の周遊生活の後、一家はニューロンドンのコチカネット、テムズ川を見下ろす家に定住した。
ユージンは寄宿学校に入学し、教育を受ける。
しかし、1906年に入学したプリンストン大学は一年で休学(後に中退)。
ニューヨーク市職員となるがすぐに退職し、山師、父親の劇団の俳優や助手、
ニューロンドンの新聞記者など、様々な職を転々とした。
船乗りとしてブエノスアイレスやリバプールに赴いたこともあり、
その時期の経験はオニールの戯曲中(喪服の似合うエレクトラなど)に
題材としてたびたび取り上げられている。

また、ユージンは生涯に三度結婚しているが、家族の縁は薄かったようだ。
二番目の妻の息子は40歳で自殺。
娘はチャールズ・チャップリンの4度目の妻となり、それがもとで勘当されている。
1934年以降、神経性疾患を患い、肺疾患も併発。
ノーベル文学賞受賞が決まった時も入院中だった。



<劇作家としてのユージン・オニール>

放浪生活の後、肺結核を患ったユージンは、
入院中に書いた戯曲がきっかけで、一路劇作家としての道を歩み始める。

退院後、ハーバード大学ので劇作を学んだ彼は、
1916年、マサチューセッツ州プロヴィンスタウンに拠点を置く小劇場劇団を訪れた。
劇団員による朗読の後、オニール自作の戯曲は拍手喝采を浴びる。
これが、演劇の改革を志していた劇団の一つ「プロヴィンスタウン・プレイヤーズ」と
ユージン・オニールの出会いである。
その時朗読された作品が、オニールのデビュー作『カーディフを指して東へ』となった。

その後、ロヴィンスタウン・プレイヤーズはオニールと共にニューヨークへ進出。
有名なグリニッジ・ヴィレッジに劇場をつくり、一幕劇を次々に発表。
劇団・劇作家共に注目を集めていった。


代表的な作品は

「カーディフを指して東へ」 (1916年)
「地平線の彼方」(1920年)
「アンナ・クリスティ」 (1921年)
「奇妙な幕間狂言』」 (1928年)
「喪服の似合うエレクトラ」 (1931年)
「ああ、荒野!」1933年)
「限りなき日々」(1934年)
「夜への長い航路」(1956年)   などである。


彼の作品は、カール・ユングの提唱する「集合的無意識」をとりいれ、
主人公の心理を表現主義的技法で描かれている。
また、彼の作品は、自らが体験した原家族の悲劇を個人的視点で 描いたものが多い。
なかでも、互いに愛し合いながらも、苦しみの連鎖から逃れられなかった彼の母親と父親、
アルコール中毒で死んだ年上の兄弟、そしてオニール彼自身の苦悩と葛藤は、
彼の作品に何度も登場している。








<引用文献>

はじめて学ぶアメリカ文学(金星堂出版), ウィキペディア
画像:
EUGENE O´NEILL BEYOND MOURNING AND TRAGEDY  
Stephen A. Black
December 1999,Yale University Press.