樋口一葉、ということばから連想するのは「桐一葉」という季語。
「初秋、大きな桐の葉が風もないのにばさりと音を立てて
落ちることを「桐一葉」という。
桐の落葉を秋の象徴するものとして、和歌や連歌、
俳諧で多く詠まれきた。

有名なのは高浜虚子の「 桐一葉日当たりながら落ちにけり 」だろう。
教科書にも採用されているため、目にした人も多いかもしれない。
ほかにも、 久保田万太郎の「桐一葉空みれば空はるかなり」や
芭蕉の「我宿の淋しさおもへ桐一葉」など名句が多い。

この季語は中国の前漢時代の古典『淮南子』の「桐一葉落ちて天下の秋を知る」に
由来して、万象の秋を知らしめるものである。
したがって、広大な天地間の一現象に焦点を当てたにとどまらず、
その背後にある大自然の気息、衰微へと向かう自然の運行へと広がり、深まっている。
そういう季語の持つ象徴性によって風景の象徴化が遂げられているのである。
作品の中に詩的主体をうち出すことを捨象して、風景を見る眼となったその眼は、
このように自然の奥行きにまで届いている。

樋口一葉の本名は「樋口奈津」。
ちなみに樋口とは、山梨県に多い苗字だ。一位の功刀(くぬぎ)、
二位の秋山についで第三位。
山梨県の古い樋口家の菩提寺に行くと樋口家の卒塔婆が多い。
また、その多くの家の家紋が桐一葉だ。

一葉という筆名は、貧乏でお金がないから付けたのだという。
生前、一葉は「達磨(だるま)大師には足がない。私にもおあしがない。
達磨さんは葦(あし)の一葉(ひとは)に乗って海を渡ったというでしょ。
だから私も一葉(いちよう)よ」と冗談のようにいっていたと言う。

けれども、「桐一葉」は没落の予兆。兄亡く、父亡く、
財産無しという樋口家を背負って作家になろうとした時、
心によぎった幻影ではないだろうか。




桐一葉心の隅にひるがへる     下村非文