鏡花


一番手は、私の大好きな泉 鏡花。

明治6年(1873)石川県金沢で彫金職人清次の長男として生まれる。
本名、鏡太郎。江戸加賀藩邸おかかえの大鼓師の娘だった母から
草双紙を読み聞かせられ育つ。

9歳で母と死別。12歳でミッションスクールの北陸英和学校進むが中退。
15歳で金沢専門学校(第四高等学校)を受験するが、数学がまったくできずに不合格。
尾崎紅葉の『二人比丘尼懴悔』に感激し文学を志す。
17歳で上京し、翌年の18歳の時、尾崎紅葉に初めて対面しその場で門下生になる。
「鏡花」の名は、牛込横寺町の尾崎家の冠木門を初めてくぐったその日に、
師匠尾崎紅葉により与えられた。

入門の2年後、20歳の時、紅葉の指導のもと畠芋之助のペンネームで
『冠彌左衞門』を発表。明治28年(1895)、社会的弱者の不幸や強者の頽廃を
硯友社流の文体で描いた『夜行巡査』、『外科室』で注目を集め、
明治30年代に入ると、幽幻・唯美を追求した浪漫的な作品世界を確立し『高野聖』『婦系図』などを発表し、
一躍花形作家になる。作品は次々と舞台化された。鏡花の小説は、虚構の美を求める作法に終始し、
筆致のさえと語感の生かし方には他の追従を許さぬものがあった。

明治36年(1903)、紅葉が亡くなり、おりから台頭した自然主義小説の影響から、
時代遅れと見なされるようになる。
鏡花にはもともと神経症的な部分があったが、不遇意識から症状がひどくなったといわれている。
明治43年(1910)、『歌行燈』と『国貞えがく』で再び注目され、大正13年(1924)には
後期の代表作『眉かくしの霊』を発表する。同時代人からはアナクロ、
マンネリの二語で片付けられていたが、その耽美の系譜は、舞台・劇作にも名作が多く
現代文学に強い影響を与える。
昭和14年(1939)9月7日、肺腫瘍のため麹町下六番町の自宅で幕を閉じた。65歳。



■玄関番時代

彼が尾崎紅葉の「二人比丘尼色懺悔」を読み、門下生になりたくて、
郷里金沢をあとにしたのは、19歳の9月のことであった。
それから、4年間常に師の玄関番として、一歩も一人で外出することはなかった。
外出する時は師と一緒であった。厳格であったが、可愛がってくれたと鏡花は回想している。
その時代の失敗談である。

ある時、くさやの干物がお昼のおかずにつけられたことがあった。これは腐っている思って、
そっと掃溜に捨てたり、桜餅を貰って、これも腐っていると思って窓から抛ったりした。

 ある晩、紅葉から大福餅を10銭だけ買ってこいと言われて、横寺町の家を出って、
船橋も紅谷も亀沢も通り越して態々大道の露天から買って帰った。
ところがそんなところに売っている物でなくて、通り越した紅谷などにある上等な大福餅と分かって、
そのまま貰った。通人として聞こえた鏡花にも、まだそんなものがあると知らなかった。

また、泉鏡花は、筆を持ち始めた当初「畠 芋之助」という
筆名を使っていたという。
「海神別荘」「草迷宮」「歌行灯」「人魚の祠」など
流麗でうつくしい作品を発表した彼が「はたけいものすけ」…。
一体いつから改心したのでしょうか?