白縫姫およしが池桃太郎和尚さんに化けたムジナ姥子さま猿橋

白縫姫

 今からおよそ800年も昔のこと、弓の名人で知られた鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)は、血気にはやる行いが多かったため父為義(ためよし)の怒りに触れ、肥後の城主・平忠国(たいらのただくに)の元に預けられてしまいました。
 忠国には白縫姫と呼ばれる美しい娘がいて、為朝はこの娘と結ばれたのですが、まもなく父に呼び戻され、保元の乱で父に従って戦うことになりました。為朝の留守中に姫は男の子を生み、為若丸と名付けました。保元の乱では為朝の軍勢は父為義が切られ、姫の父も滅ぼされてしまいました。この時白縫姫は、まだ乳飲み子であった為若丸と共にお付きの者に護られて密かに城を逃れ、世を忍んで諸国を逃げ歩く旅を続け、ついに甲斐の国にたどり着いて、追っ手の目を逃れながら山や谷の道もないところを歩き苦労を重ねてやがて鎮西山(初狩・滝子山)に着きました。そして、山上に小屋を造って住み、水の湧くところに池を掘って鎮西池と名付け、別れ別れになった夫の為朝を偲んでいました。
 しかし、山の生活は厳しかったので姫は麓の里に移り、里人の暖かい心に見守られてひととき平穏に過ごしたのですが、なおも追っ手の来るのを恐れ為若丸を彦太郎と名を変えて里人に預け、故郷の肥後へ旅立ったと伝えられています。


およしが池

 今から700年前の昔、親鸞聖人が甲州路に足を踏み入れたときのことです。
 笹子川のほとり、吉が久保に「およし」という女性が住んでいました。およしは働き者でよい女房でしたが、夫の浮気を嫉妬して哀れにも池に身を投げてしまいました。そして、口惜しさのあまり死んでもなお成仏できず、毒蛇となって村人を悩まし続けるようになりました。
 これを聞いた聖人は、早速吉が久保に行き、付近の小石を5・6個拾って『何無阿弥陀仏』と6文字の名号を書き、一心に念仏を唱え池に投げ入れました。するとたちまち毒蛇はもとのおよしの姿に戻り、成仏したのです。村には再び平和な日々が戻りました。
 その後造られた念仏塚から掘り出された名号石が、真木の福正寺に伝えられ、昔を今に伝えています。
 また、およしの父親小俣左衛門は、このことに感激して親鸞聖人の弟子になり、「唯念」の法名をいただいたということです。

別の本では・・・・。
 昔、吉久保村のはずれに七町(770b)余りの長い池がありました。村人はこの池を葦が池と呼びました。
 当時、お吉という娘が若い旅の若い僧に恋をしましたが、僧との恋は実らずこの池に身を投げました。お吉は毒蛇と化して村人を悩まし続けました。その後この甲斐路を通った親鸞聖人は64,884個の小石に南無阿弥陀仏の名号を書いて池に投げ入れお吉の霊を済度しました。やがて池は枯れ小さな池になりましたがこの名号の小石は病魔退散などに御利益があるという口伝えにより人々に持ち去られ再び災禍にあうようになりました。村役人は名号石を取り戻しここに名号塚を建てたと言われています。

およしさんは実在の人物で、池の近くに住んでいたそうです。現在でもそのお宅はあります。
現在はともかくも、そのお宅では代々およしという女性を嫁にもらっていたそうです。物語の後半の蛇になったというのはどうかと思いますが実在の女性であったことを知って驚きました。
30年程前には追分人形の演目になっています。



岩殿山の鬼退治(桃太郎)

 昔、昔、岩殿山に大きな赤鬼が棲んでいて里にでては女や子供をさらったり、牛や馬を盗んで食べたりしたので里人たちはたいそう困っていたそうです。
 この山の東の方に百蔵山という山があって、その麓の葛野川に大きな桃が一つ転がり落ちて、川下へ流れていきました。
 上野原の鶴島と言うところに仲の良いお爺さんとお婆さんが住んでいて、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川で洗濯をしていると、川上からドンブラコドンブラコと大きな桃の実が流れてきました。「なんとでっかい桃だんべぇ」と拾い上げたお婆さんは、家に持って帰りお爺さんと一緒に食べようと思って割ったところ、中から可愛い元気な男の子が生まれてきました。
 桃太郎と名付けられたその子供は、やがて強く逞しく成長し、岩殿山の鬼のことを聞き、「ひとつ退治してやろう」と、お婆さんにキビ団子を作ってもらって出かけました。
 途中、犬目というところで犬を、鳥沢でキジを、猿橋で猿を家来にして岩殿山に向かっていき、麓まできたときに大声で呼んだところ、鬼は怒って持っていた石の杖を二つに折って左手でそれを投げましたが、その杖は途中の畑に物凄い勢いで突き刺さり、その辺り一帯に地震が起きたそうです。
 このことがあってからここを「石動」と呼ぶようになり、今でも畑の中に残っている石杖を「鬼の杖」と呼んでいます。その後西の方へ廻った桃太郎めがけて鬼は残りの杖を投げました。それは笹子の白野という集落の境に突き刺さり、こちらは「鬼の立石」と呼ばれるようになりました。
 桃太郎は鬼の攻撃に負けることなく、やがて岩殿山の頂きへ攻め上がって行きました。あまりにも勇敢な桃太郎に追い立てられて逃げ出そうと、東の山へ足をかけたところを待ちかまえていた桃太郎に腹を切られて死んでしまいました。死んだ鬼の腸が固まったといわれるところを「鬼の腸」と呼び、赤い色をした土のところは「鬼の血」と呼ばれています。

                                               2001年11月、笹の子文化で
                                                        3年生が立石伝説の劇をしました



和尚さんに化けたムジナ(”たぬき和尚”と言う似た話もある)

 大月市七保町葛野の福泉寺は、鎌倉にある建長寺の小寺で、昔からとても栄えていました。ある日のこと、一番偉い和尚さんが福泉寺にきて、それは、それはありがたいお話をしてくれるという知らせが村名主のところにありました。
 そこで名主は村中の人たちを集めて、”和尚さんはお話が終わった後私の家に泊まることになっているが、犬が大嫌いだそうだから、村中の犬を一晩だけだけつないでおくように、それから粗相の無いようにしてご馳走をたくさん用意しておくように”と村人に申しつけました。
 2・3日して、和尚さんは村へやってきて、ありがたいお話を済ませると、お駕籠で名主の家に着きました。そして名主にいうことには「部屋は暗くてもよい。もてなしなどしなくてよいから、私のいる部屋に絶対に入ってはならぬ。また食事が済んだらお風呂にはいるが、その時も決して覗かぬように」とかたく言いつけて人払いをさせました。
 やがて食事やお風呂を済ませた和尚さんは部屋に戻りましたが、偉い和尚さんにはとても見えないほど食事やお風呂の入り方が乱暴だったということでした。
 ともかくこうして和尚さんは、手厚いもてなしを受けながら、村から村をまわった末、鎌倉に帰ることになったのですが、ある山に差しかかったところで、突然大きな犬が和尚さんのお駕籠に襲いかかりました。和尚さんは大声を上げて助けを求めましたが、とうとう犬に噛み殺されてしまいました。大慌てをしたお伴の人たちが見ると、大きな白い毛のムジナがそこに死んでいたそうです。
 みんなが偉いとあがめていた和尚さんは実はムジナが化けていたのでした。


姥子さま

 昔々のお話です。
 ちょうど今から二百五十年ほど前、今の大月町が真木村といわれていた頃のこと、この真木村の沢中に、花という大変信心深く心優しいお婆さんがいました。
 お婆さんは、毎日毎日人様も自分も、どうか病気などせずに村中が幸福に暮らせるようにと神様にお願いをしていました。
 ある夜のこと、お婆さんは夢を見ました。それは、金色の光の中に白い着物を着た1人の老人が現れて「わしは明日の朝宮ノ沢にいる。社はいらぬから、そのままわしを神として祀ってくれれば、どんな悪い流行風邪でもきっと治してしんぜよう。」と言って消えてしまいました。ハッとして目覚めたお婆さんは、東の空の白むのを待ちかねて、示された川へ行ってみました。すると今まで見たこともない不思議な形の石がありました。
 お婆さんは「ああ、ありがたい。私の日頃の願いを神様が聞き届けて下さったのだ。」とうれしくて、うれしくて仕方ありませんでした。早速その川の近くにある大きな石の陰に、雨にかからないようその不思議な石をお祀りしました。
 そうしてその頭の当たりに柔らかい真綿をかけ、前垂れも掛けてあげました。
 その日は一月二十四日でしたが、とても暖かい日でした。お婆さんは煎り豆をして、近所の人や子供を誘って賑やかにお祭りをしました。
 それから後は、どんなに悪い風邪が流行っても、この神様にお参りし、真綿の帽子をお借りして、風邪で苦しんでいる子供の首に巻いてやると、咳も次第に楽になりました。
 また、この宮ノ沢の水は目やのどの病気によいと言われ、人々はビンに入れて持ち帰ったという話もあります。
 この話を聞いて、遠く甲東村(今の大月市)の方からも、この真綿を借りにきたそうです。
 風邪が治ると、新しい真綿とブリキで造った鳥居を持ってお礼参りをしました。
 今でも姥子さんは新しい真綿の帽子をかぶり、前垂れを掛け、その前には沢山の鳥居があげられています。


猿橋の誕生

 昔々、大月市の猿橋あたりは、ビク島と呼ばれていた。海のない甲斐の国のこと、ビク島といっても離れ島をさすわけではない。
 ここは、桂川の切り立った谷川に遮られて、村人も旅人も遙か遠い上流をまわらなければ、村を出ることも入ることもできなかった。それで、陸の中の孤島のようだと言うことからこんな名前が付けられたのだ。
 もし、桂川の険しい崖に橋ができたら、たった四キロほどの山道を越えれば、鳥沢という賑やかな宿場に出られるのだ。
 そうなれば、村人の暮らしはどんなに便利になるかもしれない。
 「橋だ、橋だ。橋が欲しい。」
 ビク島の村人は代々この願いを抱き続けていた。
 さて、千四百年ほど昔の推古天皇の御代のこと、ビク島に、白い衣を着た白い髪と髭の老人が現れた。そして、桂川の崖っぷちに立って、じっと深い谷底の流れを見下ろしていた。
 「はて、いっさら見かけねえ年寄りじゃんね。仙人ずらか。」
 村人は、ひそひそささやきあった。
 この人こそ、遠い百済の国(今の韓国)から日本に招かれて渡ってきた、橋かけや庭造りの名人シラコだった。
 それを知った村人は、丁寧に橋を架けてもらいたいと頼んだ。
 シラコは、村人の昔からの願いを叶えてやりたかったが、深さが三十数メートルもある谷間の上に、橋を架けるなど今まで手がけたことも聞いたこともなかった。
 「水面は、遙か下。橋支えの柱を立てることなどとてもできぬ。はて、どうする。」
 シラコは、崖っぷちに小屋を建てて、毎日、たにまをのぞいたり、両岸の隔たりを測ったり、図面を引いたり、工夫を凝らし続けた。だが、良い考えは浮かばなかった。
 ある朝早く、シラコは、猿の叫び声で目を覚ました。小屋を出てみると、向こう岸に沢山の猿が動き回っている。何をするのかと、じっと目を凝らしていると、一匹の大猿が崖っぷちに生えている太く絡み合った藤づるに手を架け足を絡ませた。
 藤づるは、水面近くまで垂れ下がっている。大猿は、するするとつるを伝って端まで行くと止まった。すると、次の猿が下りていって、大猿の尻尾に自分の尻尾をしっかりと絡ませた。今度は、三番目の猿がするするっと下りていって、二番目の猿と両手を絡ませあった。
 こうして、尻尾と尻尾、両手と両手というように、四匹、五匹、六匹・・・・・と、順々に藤づるにつかまった猿の数珠繋ぎができた。
 と思うと、猿の縄ばしごは、谷間の真ん中に向けて、ゆらーり、ゆらーりと揺れはじめた。その勢いがついたとき、こちら岸に生えた太い藤づるに、先頭の大猿の手がとどいた。大猿はすかさず藤づるをしっかりとつかんだ。
 猿の群は、両岸の藤づるをつないで、猿の橋を作ったのだ。向こう岸にいた小猿たちは、猿の吊り橋を渡って、みんなこちら岸にたどり着いた。すると、向こう岸の藤づるにつかまっていた猿たちが、握りあった両手を離し、尻尾を離して、順々にこちら側の藤づるに移り、とうとう一匹残らず谷川を渡りきってしまった。
 「ふーむ、見事だ。」
 シラコは、猿のすばらしい知恵を見て、橋造りの工夫がひらめいた。
 「両岸から材木をのばしていけば、橋を支える柱が無くても橋はできるはずだ。」
と、早速、図面を作り上げた。
 「おおい。谷川に橋が架けられるっちゅうぞ。」
 村人は、狂ったように知らせあった。
 シラコは弟子を集めた。木こりも大工も村中の者が先を争って集まった。そして、橋かけの仕事に力の限りを尽くした。
 完成した橋は、長さ三十一メートル、幅三.五メートル、橋の上から水面まで三十三メートル。両方の崖から突きだした屋根を重ねたような六つのはね木が特徴で、その上に、ゆったりと曲線を描いて橋が架けられている。名は猿にちなんで<猿橋>と付けられた。
 木曽(今の長野県)の桟かけはし、周防(今の山口県)の錦帯橋きんたいばしと、この<猿橋>は、日本三奇橋と呼ばれている。今も、橋のたもとには、猿を祀った山王宮があって、毎年七月には例祭がおこなわれている。