なんてったって地元です!
笹子から離れていった人達に、自慢できる町にしたいですね。
若い頃は町を出て空の広いところに住みたいなんて思っていましたが、いざそういう計画を立てたとき、やっぱり近くに山を見ながら暮らすことが自分にとって一番落ち着く場所であることがわかりました。
保育園・学校と、自分の通ったところへまた子供達が通い、行事で再び訪れるるとやはり懐かしさが込み上げます。
世代が代わりつつある今、町もまた少しずつ変わってきているように感じます。



明治十三年六月十六日、明治天皇は山梨・長野・岐阜。愛知・三重・滋賀・京都を巡る巡幸の旅に出発した。
総勢四百人に及ぶ一行は、馬車・騎馬・人力車わ整えた威容で、甲州街道を西へ向かった。
八王子に一泊して十七日に山梨県に入り、上野原・大月にそれぞれ一泊し、
十九日に笹子峠を越えて甲府に着くと、ここに三泊して各施設を視察。
二十二日、甲州街道を西へ向かい台ヶ原に一泊して二十三日に山梨を後にした。
この一行に加わった長崎出身の池原香穉(こうさい)は、出発の一ヶ月ほど前に呼び出され、
随行中の記録を記すように命じられた。

その紀行『みとものかず』に

・・・・・雨はやみたれど、霧ふかくたちおほひて行手もさらにみえわかず。
風にさそはれて吹まよふ霧の、いとひややかなるがきぬさえしとどになりにけり。
    笹子山朝霧しめる衣手に
       寒さおぼゆる夏にもあるかな
かかる中に子規のうちもらしたる、みやこ近くにてはあるべきさまともおもほえずなん。
    霧まよふみやまの杉の朝霧に
       なくねしめりて行くほととぎす

と記されています。

この紀行名は香穉を見送りにきた友人の高崎正風の歌った

おもふ友みともの数にいりぬるは
わがゆくよりも嬉しかりけり

香穉の返した和歌は

いかにしてつかえまつらんおろかなる
わが身御ともの数にはあれども
書名の『みとものかず』はこの二首の和歌からとったものらしい。

また、甲州街道筋の民謡である馬子唄でも

わけは追分 黒野田泊り
あすは猿橋(えんきょう)日の七つ

と唄われています。
座興唄では

笹子峠に 追分なけりゃ
信州中馬にゃ 宿がない

と唄われています。



黒野田村から寛文9年、検地に際して白野村・吉ヶ久保村を分村。
宿は黒野田宿・阿弥陀海道宿・白野宿の3宿。
のち、明治5年黒野田村・吉久保村・白野村が統合され笹子村となり
昭和29年、笹子町となり大月市に属する。
現在でも住所の表記は黒野田・吉久保・白野の3部落であるが
実際には追分・黒野田・阿弥陀海・吉久保・原・白野の6部落からなっている。
また、峠入り口の集落を新田と呼んでいる。

笹子が宿場であったころ                   
白 野 阿弥陀海道 黒 野 田

家数 84 65 79

人口 318 272 334

宿屋 14
                       であったらしい。



追分といふところあり、是より坂路を半登れば、箭立の杉とてめくり六ひろあまりなる大木たてり。
峠近くなれば、七曲りとて・・・桟道のあらき道に、まして雨風いたくふふきてこしかた行すえきりふたかり、雨衣破れ笠をたに取あへねは、目もくれたましひも消えかへりて、心ほそくおそろしき事たとふるにものなし。
こは笹子峠とて、登り降り二里余なる、街道第一の難所なりけり。
峯より東は都留の郡、西は八代の郡につけり。                                                                              並山日記より
黒野田を立て、ささご峠にかかる。半分程のぼりて休む。
江戸男女姉弟連、遠州掛川の人男女三人つれ、甲州市川在、禅坊主と俗一人にあひ、ものいふ、夫より又のぼりて、矢立の杉、左にあり。
樹木生茂り、谷川の音、諸鳥の声、いと面白く、うかうかと峠を越えて、休。下りにかかる。                                                                                                 重甲州道中記より


明治のころの駄馬賃は、笹子峠の頂上までで参拾銭、一日に三回ほどの稼ぎとなった。
また、下り大和村鶴瀬の立会橋の手前、駒飼の天神坂下まで七拾銭、荷物馬車や籠などで峠を越したと云う。。
宿屋では甲州街道一と言われた三好屋、商人宿の扇屋などの屋号は現在も残っている。
当時はその他一膳飯屋、茶屋等が軒を並べ賑わっていたと言う。
                                   天野 兼利 著  ”よしの池”より

国道二十号線の道路拡張工事前は、黒野田部落には大きく軒の出た家が沢山並んでいたそうです。
桐屋、桜屋、桔梗屋、丁字屋、小松屋、油屋、四国屋、高砂屋、大黒屋、井桁屋、恵比寿屋などが大きな家だったそう。。
阿弥陀海宿では、中村屋、栄喜屋、山県屋など。
同級生の家である中村屋は、私が小学校のころはまだ旅館をやっていました。中庭を囲むように部屋と廊下があり、お風呂は船の形をしていました。中庭のザクロの樹によく登って遊びました。^_^;


*笹子村の出来事*
明治二十九年、笹子トンネルが七年の歳月をかけ三十五年に開通、それにより甲州街道を行き来する人馬はばったりと減り、住民は山で働くか畑を耕す以外の道中稼ぎはなくなってしまった。
明治三十七年の日露戦争では十数人の戦死者を出した。
明治四十年八月の大水害では数人の死者を出し、家屋が流され田畑は一面に広河原と化し住む家がなくなり、北海道へ移住するものも数十家族に及んだ。
この水害で笹子トンネルの出入り口は土砂に塞がれ不通となった。電灯がないため松の根を灯りとし、復旧のため日夜の別なく仮のホームをつくり甲府方面への折り返し運転を行った。
                                                     天野 兼利 著  ”よしの池”より


*笹子町のダム問題*
1988年11月、大月市が県に対してダム建設を求める陳情書を提出。
1989年4月、当時の建設省が88年度から始めたばかりの生活貯水事業として建設が採択された。しかし、地元において基本協定が締結したのは採択から三年半後であったという。
事業費が85億から100億に増加、一緒にダムの水を使うはずだった初狩町が降り宅地開発もとん挫、笹子だけの使用となり、しかも笹子の中でも地区によって意見が分かれ、、、、、、、で、2002年1月22日中止が決定した。
すでに35億3千万も投入したという。

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