生命のメッセージ展

悟は「生命のメッセージ展」に参加し、「命の大切さ」を伝えるメッセンジャーとして、全国を旅しています。


                  

悟と等身大(172センチ)のオブジェです。前に置いてあるシューズは、悟が履いていた靴です。

   2004年9月23日、悟のオブジェを製作している母です。次の日は悟の27歳の誕生日でした。

            生命のメッセージ集 [いのち 未来へ」

祝部(ほうり) (さとる) 25才 1976.9.242002.4.25   神奈川県

2002年4月25140分、職場からの帰宅途中、殺人ドライバーに夢、希望、未来、すべてを奪われました。犯人25歳、住所不定、無職、執行猶予中、免許取消手配中、飲酒で盗んだベンツを運転(他に2台窃盗)、制限速度40キロオーバー、追い越し禁止線を無視し、反対車線を逆走、悟に正面衝突、そのまま逃走(たった6年の実刑)。

 大好きな悟へ

「人と関わる仕事、人の手助けをしたい」と22歳で福祉の専門学校に入り、この4月に第一志望の知的障害者の福祉施設に就職でき、張り切っている様子を、私達はうれしく見ていました。
24日の朝、大きな声で「行ってきまぁす」と出かけた悟。その声は二度と聞けません。
何に願っても、取り返すことは出来ません。
急な残業でお腹をすかしたまま、寒くて暗い橋の上でたった一人で旅立った。
どれほど悲しく、無念だったでしょう。
 
お父さんと、いつも体をぶつけ合ってふざけていましたね。
 お母さんの手料理を、何でも「うまぁい!」と食べてくれましたね。 
 お姉ちゃんと仲良しで、何でも話していましたね。お姉ちゃんの子供達をとても可愛がっていたから、どんなに優しい父親になるのだろうと、来春の結婚を待ち望んでいました。 
 彼女が「さとちゃんは、優しくて素敵で頑張り屋だから、自慢の彼」と言ってくれてね。
彼女とはいっぱい旅行し、色々な事を経験している笑顔の写真は沢山あるけれど、私達を幸せにしてくれる悟の本当の笑顔が見たい。私達を元気にしてくれる悟の声が聞きたい。

悟の好きな物、サザン、サーフィン、サッカー、犬、ハンバーグ、青色、バイク・・・
25年間、幸せでしたか? そして今は? 笑顔でいますか? 
毎日悟のこと考えています。でも、何もしてあげられなくて辛い。ごめんね。
お姉ちゃんも子供達が大きくなったら、悟の事たくさん話して聞かせると思うよ。
彼女の幸せも見守ってね。 友達も皆、悟の分まで頑張っているよ。

悟は今も進和学園(職場)の皆さんと、いつも一緒にいるのでしょう?
事件の5日前に学園の皆さんと植えた湘南平のアジサイは、毎年優しい花を咲かせるでしょう。一緒に見に行きましょうね。

生命のメッセージ展で「大切な命」を伝える為のメッセンジャーとして、悟が再び誕生したから、私達も何が出来るか探しながら、もう少しだけ頑張れそう。悟 悟 悟。(父母)


    

in早稲田ミニスピーチ

                              

神奈川県茅ヶ崎市の祝部と申します。

 
平成14年4月25日1時38分に25歳の息子をひき逃げ事件で亡くしました。
普通にいつも一緒にいて楽しかった生活は一変し、味気のない、悲しいだけの生活になってしまいましたが、息子の事は周りの人には話せません。
どんなにこれからの人生を生きたかったか、無念さでいっぱいかを考えると、私達が息子の為に出来る事を精一杯しなければと、その時その時できる事をがむしゃらにやってきたと思います。
息子の事、息子の事件、感じた事、息子も為にしてきた事をお話させていただきたいと思います。

 
下の男の子と言う事で、私達はと娘は息子の事が可愛くてなりませんでした。娘とはとても仲がよく喧嘩をした事がありません。大きくなってからは良い相談相手で、2人で何でも話し合っていたようです。
サッカー、バレーボール、サーフィンなどスポーツが大好きでした。
いつもニコニコと笑顔で私達を温かい気持ちにしてくれます。

 高校を卒業後自動車会社に就職しました。、その間、彼女と一緒に色々な施設のボランティアをしていて、人と関わる仕事がしたい、人の手助けをしたいと思うようになり、退社して福祉専門学校に三年間通いました。専門学校に通っている間、交通費、教材費はアルバイトで頑張っていました。ボランティアも続けていました。そして1番希望していた知的障害者の福祉施設に就職できて、本当に張り切っていました。
仕事は大変そうでしたが、毎日張り切っている様子をみているのがうれしかったです。「名詞がもらえたんだよ」と大切そうに私達に1枚づつくれました。
 就職して25日目、4月にしては寒い日でした。初めてのお給料をこの日貰うはずでした。
 平塚警察から朝4時前に「事故で死亡。」と連絡を受け、主人と私と娘は「まさか、そんな筈はない。」という気持ちで平塚警察署に行きました。
平塚署の小さな暗い安置室にたった一人で、体には青いビニールシートがかかっていました。主人が息子だと確認しました。警察官が「奥さんは顔を見ないほうが良いでしょう。」と言いました。顔は左半分陥没しているとの事でした。服、靴、髪の感じは息子のものでしたが、私は顔を見る事が出来ませんでした。「悟じゃない!」と叫んでいました。
 警察から、「犯人は息子のバイクに正面衝突しそのまま逃げた。瞬間の目撃者はいない。黒っぽい外車の様だが遺留品はほとんどなく犯人逮捕は難しいかもしれない。」と聞かされました
息子の携帯電話は壊れていなかったので、娘が付き合っている彼女に電話しました。「悟が事故で死んじゃったの。ごめんね。ごめんね。」と言っていました。
彼女が横浜から始発電車で来てくれました。
息子と彼女は6年半付き合っていました。
4月に入ってから、「浩と、来年の春結婚するから。」と主人に言ったので私達はとても喜んでいました。お互いに向上しながら助け合い、いつも笑いながら明るい付き合いをしていました。
これからも仲良く幸せになるはずでした。二人で色々なところに行き、笑顔の写真をいっぱい撮って、残してくれました。

なぜ、こんな深夜に息子はこんな事になったのでしょうか?何が何だかわからずに私達は泣く事も忘れていました。主人が7時過ぎに勤務先に問い合わせたところ、残業で深夜1時まで仕事をしていたと言う事がわかりました。
 24日の朝、私達と朝食をして、「行って来ます。」と大きな声で出掛けて言ったのが最後の声、最後の笑顔でした。職場までの道の事情がわかるまではバイクで通うからと40分位かけて、バイク通勤していました。連休明けからは車通勤の予定でした。
東海大学病院で司法解剖をするからと言われ、待っている間に花を持って、息子が最後にいた場所に行きました。
 事件現場は国道1号線の平塚市と茅ヶ崎市を結ぶ馬入橋の上です。ガードレールが血で真っ赤になっていました。私はもっていたタオルで息子の血を拭きました。病院に向かう車の中でベッドに寝かされた息子をずっと抱きしめた時、初めて涙が出てきました。
死因は脳挫傷、胃の中にはアルコールはなし、10mlの水分があるだけと説明され、ほぼ即死状態だと聞かされました。
 息子の職場は授産施設と言って、障害のある人たちが社会で働けるように職業訓練するのをお手伝いし、その人たちのお世話する仕事です。5月の連休前で急な残業の為夕飯も食べずに深夜1時まで先輩達と仕事をしていたそうです。その帰りにひき逃げされました。あと少しで家と言うところでお腹をすかしたまま、たった一人で息を引き取りました。
 顔は包帯でぐるぐる巻きにされ、少し出ている右半分の顔も腫れあがりとても息子とはおもえませんでしたが、見ているうちに「この顔も悟」といとおしさを感じました。
 そして、流れのように通夜、告別式と何も考えられないうちに終わったしまいました。沢山の人が息子にお別れをしに来て下さいました。お棺の中には大好きだったTシャツ、彼女が編んでくれいつも巻いていたお気に入りの白いマフラーなど息子がいつも身に付けていた多くも物を入れました。
今考えると、息子の匂いのする、息子が大好きだった品々をもっと私達の身近にとって置けば良かったと後悔しています。どうして体を焼いてしまったのでしょう?どうして何もなくなってしまったのでしょう?後悔ばかりです。

 どのように息子の葬儀が行われたのか憶えていません。全て終わって帰りの車の中で「つまらない!つまらない!」と大声で泣いた事だけ覚えています。
 次の日に綾瀬市役所の近くの農道で車が発見されたと、連絡があり警察書に行きました。フロンとガラスは大きく穴が開き息子が頭から突っ込んで行った凄まじい、痛ましい後がありました。車内は証拠を消すために消火剤が撒いてありました。
車はベンツで1週間前に厚木市の家の駐車場から盗まれた物と判りました。
犯人は捕まるのだろうか?とても不安でした。何とか犯人を捕まえて息子の無念を晴らさなければとじっとしていられなくなりました。
 事件現場の橋の所で、警察が目撃者探しのビラを配っていました。このビラに皆で知恵を出して書き加え新たに目撃者探しのビラをつくりました。
4月30日から息子の職場の人や友達、私達の知り合いが平塚駅、茅ヶ崎駅、寒川駅、綾瀬の市役所周辺などに立ち配りました。
馬入橋から綾瀬までの経路上の新聞店にビラを入れてもらいました。
思いつく総ての所にビラを貼らせて貰うために、皆が走り回ってくれました。7万枚のビラを撒きました。インターネットのスレットに書き込んだり、FM横浜にお願いしたりしました。
 「犯人は、暴力団だとか、外国人だとか。綾瀬の方で中学生が車を運転しているのをみた。」など色々な噂が聞こえてきました。とても不安でした。
容疑者らしき者の身柄を確保したと知らせがあり、ビラ配りをストップしました。逮捕された犯人は息子と同じ歳の25歳、住所不定、無職、無免許、覚せい剤所持の罪で執行猶予中、車の窃盗2台、親への傷害罪で指名手配中の男でした。元妻や子供、友人と犯人の誕生祝をし、酒を飲んで盗難届けの出ているナンバーのベンツに乗り込む時に身柄を確保され、調べるとひき逃げの犯人だったそうです。
 私達は加害者とは言わず、ずっと犯人と言っています。息子を殺した犯人だからです。

警察の課長は「こいつほど悪い奴はいない、こいつは人間じゃない。」と言っていました。
中学生の頃から平塚市では有名な悪だったそうです。犯人が逮捕されたと聞いても、私達は犯人への怒りや、憎しみは湧いてきませんでした。息子を失った悲しみの方が何百倍も大きかったからです。

 娘も、彼女も、あの日から食べ物をほとんど口にしないのでとても心配でした。皆、食欲はほとんどありませんでした。
 主人の兄から交通事故に遭ったらと言うサイトがあるので見なさい、無料の法律相談があるので行きなさいとメールがありました。
私達は無料の法律相談に行き、その弁護士さんから車で人を殺したら業務上過失致死罪で5年以下の懲役と聞き愕然としました。どんなに悪質なドライバーでも最高5年の刑です。
大切な、大切な人の命を奪ってたったの5年の刑です。
そして危険運転致死罪と言う言葉も初めて聞きました。
 スピードの出しすぎ、飲酒などで危険な運転が証明されれば最高15年の刑になると言うことです。車の窃盗はプラスされるのか?ひき逃げは?証拠隠滅は?住所不定とは?親の責任は?わからないながらも、思いつくまま質問してきました。
驚いた事に日本の法律ではいくつ罪を重ねても1番重い罪の1・5倍の刑が最高だそうです。本当に私達は知らない事ばかりでした。「息子さんの無念を晴らすために、法廷で裁判官に厳罰に処してほしいと訴える事、それには検事にあって、法廷で証言をしたいと申し出る事。」とアドバイスをいただきました。

「加害者天国、日本」を読んだほうが良いと言う事を知り、取り寄せて読みました。警察や検察は被害者の見方、絶対に信用できるものと思っていましたが、実は警察も検察も被害者の見方なんかじゃない、信用できないぞ。と沢山の事例が書いてありました。
警察はちゃんと捜査をしてくれるのだろうか?検事は私達の代わりに裁判に臨んでくれるのだろうか?息子の無念さを一緒に晴らしたくれるのだろうか?と私達はとても不安な気持ちにになりました。

私達は、警察も検察も信用してはいけないぞ、と心に決めました。
 私達は警察に行く時、事前に何を聞くのか話し合っていきました。警察が言った事をそれぞれがノートにメモして家に帰ってから、まとめました。納得がいくまで質問しようと決めていましたが、捜査上の事と教えてもらえない事がありました。危険運転罪を調べました。そして危険運転致死罪で起訴してほしいとと何度も何度も願いしましたが、すごく難しいとの返事でした。
結局罪状は業務上過失致死、救護義務違反(ひき逃げ)無免許、窃盗でした。
酒を飲んでいたのに逃げてしまったのでアルコール濃度が調べられず飲酒運転にはなりませんでした。飲酒をしていたら、逃げた方が得じゃないですか?危険運転にもならないじゃないですか?納得がいきません。
 母親を金属バットで殴った傷害罪は証拠不十分で不起訴となりましたが、母親が係わり合いを避け取り下げたのでしょう。指名手配されて5ヶ月、平恁x察署では「西八幡の平野」といえば有名な犯人が警察署の近くで毎晩のように呑み遊んでいたのに、もっと真剣に捜査していて捕まえていてくれたら、息子と遭遇しなかったのではと思います。
何度も、何度も警察署を訪ねて行くと、交通課の課長も犯人の事を「こいつは人間じゃない!」と怒りを露にし、私達の気持ちを分かってくださいました。

 いよいよ検事との面会です。警察から若い検事だと聞いていたのでとても心配で不安でした。
面会を申し込むと私達が働いているのでしょうから日曜日の午後でも良いとの事でした。
 事故の概要が説明されました。目撃者がいないため犯人の供述だけです。平怩ナ飲酒した後元妻にカラオケに行こう誘ったがはっきりしないので腹をたて茅ヶ崎の先輩の家に行ったが車が無いので平塚に帰ろうとした。橋の上で前にセルシオが40キロ位で走っていたので追い越そうと黄色のセンターラインを超えた。スピードは80キロくらい。バイクのライトが見えたが避け切れなかった。盗んだ車だったので逃げた。が証拠として採用されています。
 おかしい、おかしい事ばかりです。犯人が本当の事を言うはずがありません。深夜、ガラスにフィルムを貼ったセルシオが40キロで走っているでしょうか?追い越そうとしていたならなぜその車は事故に巻き込まれなかったのでしょうか?自分で80キロのスピードを出していたら80キロと正直に言うでしょうか?
息子のライトが見えていて2〜3秒あったのに何故さけられなかったのでしょうか?絶対におかしい、あり得ない、犯人は嘘をついている、と何度も何度も検事に訴えました。
しかし、犯人の供述が間違いだと言う証拠がないというのです。酒を飲んで、スピードを出して反対車線を逆走して事故を起こし逃げてなぜ、危険運転ではないのでしょうか?
 私達はずっと、危険運転致死罪を適応してほしいとお願いしました。しかし、車を捨てに行く途中で事故を起こしていないのは、運転に支障がある量の飲酒だったと証明できない。スピードも深夜国道1号線で80キロでは危険なスピードとは言えない。との事で、ほぼ危険運転に近いいくつかの事実があっても100パーセントに達しているものがないと、危険運転で起訴しても裁判で危険運転でないとされると無罪になる可能性がある。一か八かでは起訴できない。確実な証拠がないと裁判が成り立たないとの事でした。
 ひき逃げは殺人と一緒じゃあないですか?との問いに殺人罪は初めから殺意があったときですと言われました。命に関わるかもしれない人を放って行くのは殺意ではないのですか?見殺しじゃないのですか?と噛み付きました。検事は心棒強く私達の訴えを聞いてはくれましたが「、残念ながら今の法律ではどうにも出来ません。」と法律危険運転致死罪にはなりませんでした。息子にすまない気持ちでいっぱいでした。

 犯人が自分のやったひどい事を忘れさせないように事故の写真、息子のひどい顔の写真を裁判の中で見せてほしいとお願いしました。上申書を提出したいとお願いしました。意見陳述をさせてほしいとお願いしました。思いつく限りの質問をして納得のいくまで何度も話を聞きました。
 それから間も無く無免許で起訴されていたのが取り消されました。
なぜかというと、犯人は何度も違反を繰り返し1年前に免許証を平塚署に取り上げられていました。
免許取り消しの通知で本人が出向き署名しないと取り消しにならないそうです。犯人は1年以上も出頭しなかったので取り消しの行政処分の手続きが出来ていなくて、罪状は免許不携帯になったというのです。警察も犯人も免許は取り消されていると思っていたそうです。本当におかしな話で納得いきませんでした。交通事故遺族の会の方が一緒に神奈川県警の免許課に行ってくれましたが説明は納得いかない物でした。

 1回目の公判の少し前に警察から「犯人が手紙を出したいといっている」と電話がありましたが私達は「嫌です。」と答えました。しかし犯人から手紙が来ました。
多分裁判の中で謝罪をしたと言うぱフォーマンスにちがいありません。私達は犯人の手紙を手にする事も字をみる事もいやでした。警察に「手紙は受け取りたくないと言ったはずなのに。」と抗議しましたが、「出したいというのを出すなと言う権利は警察にない」との答えでした。事前に電話をした事自体が警察のミスだったと言うのです。封を開けずに受け取り拒否で国選弁護士に送り返しました。

 そして裁判の日が知らされました。裁判所に遺影の持込をお願いしましたが、「裁判は加害者を威嚇する場所ではない。更生させる場所です。遺影の持込は袋に入れて写真が見えないように。」と言う返事に、また、愕然としました。
裁判所は、きちんと罪を裁き、どれだけ悪いの事をしたのか犯人にしっかりと知らせ、反省させる場所だと思っていたからです。

 娘が遺影を入れる手提げ袋を縫ってくれました。主人が膝の上におきました。
裁判は私達遺族は傍聴席で蚊帳の外です。犯人には国選弁護士がつき裁判にのぞめます。

1回目公判は彼女の誕生日の2日後に開かれました。
始めてみる犯人は真っ赤な靴下を履いていました。反省している様子のど全然なく、犯人への憎しみが湧いてきました。
 息子の職場の顧問弁護士が裁判記録を取ってくれました。「犯人が何を 供述しているかをよく読んで、上申書や意見陳述をするように。」とアドバイスをもらいました。
上申書は皆で、一生懸命考え、息子が私達にとってどんなに大切だったのか、息子がいなくなってどんなに悲しく辛いか、総てを奪い去った犯人がどんなに憎いかを書きました。
息子の笑顔を、息子の優しさと頑張っていた事を知ってほしくて写真をいっぱい貼りました。泣きながら、時には主人とぶつかりながら、本当に大変な辛い作業でした。

彼女と娘が、私たちも話す事を文にしてパソコンに打ち込んでくれました。
犯人が事故前、運転は出来る状態だったのかを犯人の元妻に聞きに行きましたが、色々と逆切れされました。
 2回目の公判は息子の誕生日でした。
 3回目は、私の誕生日でした。7年前のこの日、息子と彼女が初めて出会った日でもあるそうです。彼女が婚約者として異例の証人尋問の形で陳述する事を許されました。私が意見陳述をしました。二人とも裁判官に息子の無念さ、息子がいなくなった苦しみ、悲しが届きますようにと訴えました。
 4回目は12月に開かれもう1台車の窃盗が証明されました。その日は求刑でした。今までの例で行くと3年以上出れば良い方だと周りから言われていました。検事にどれくらいの求刑になるのか質問しても何も言ってくれませんでした。でも検察庁は頑張って、他の交通事故と比べると長い9年の求刑をしくれました。検事は犯人は反省も無く執行猶予中でありながら類を見ない悪質な事件、何の保証も無く、被害者の無念と、遺族の心情を考えると厳罰に処するべきと怒りをあらわに判決文を読み上げてくれました。検事にはとても恵まれていました。。私達は、9年でも息子が帰るわけではないし、犯人がたとえ死刑になったとしてもを許す事は出来ません。

せめて裁判官が1日も減らさずに判決を出してくれる事を願っていました。
 5回目は、判決で娘の誕生日でした。裁判官が皆の大切な日に裁判の日にしてくれたのは、偶然ではなくきっと良い結果を出してくれる為だと信じていましたが、3年も減らされた懲役6年でした。
しかも、今までの留置期間200日も含まれていました。とても残念な結果です。
 判決文と言わず説諭と言って、「さとす」と言う意味なのですね。「受刑期間によく考えてこれからの人生を有意義に。」と言うんです。執行猶予中に次から次に悪い事を重ねて、たった6年で更生できるのでしょうか?更生してほしくなんてありません。出所したらきっと同じ事を繰り返すでしょう。
 息子の未来や、希望、総てを奪ったのに実質5年5ヶ月で普通の生活に戻れるなんて、とても許せません。
 控訴をしてくれるように書名を集める事にしました。皆に協力を呼びかけ、必死になって4日間で13000筆になりました。
検事に提出し、「重く受け止めます。」と言ってもらいましたが。結局「判決に法律的な誤りがあれば控訴できるが現状では控訴して刑が重くなるとは思えない。反対に減らされてしまう可能性もあるので、残念ながら控訴せず。」との返事でした。
これで裁判は終わったと思っていましたが。犯人から罪が重いと控訴してきました。被害者は自分で控訴できなくて、犯人側は自分で控訴できるのです。また、上申書を書きました。
 2審が行われ犯人の控訴は棄却されました。高等裁判所の裁判官は遺影の持ち込みも許してくださり「反省もなく、再犯も否定できない。被害者や遺族の悲しみ、無念さを考えると、6年は決して重い刑ではない。」と言ってくれました。どうして、裁判官によってこんなにも見解の差があるのでしょうか?本当に公正な裁判をって何なんでしょうか?
 又この後犯人は量刑不服と上告してきました。どこまでも、反省のない犯人に怒りがこみ上げてくるばかりでした。何日かして犯人が上告を取り下げました。これでやっと刑事裁判が終わりました。
裁判にはいつも多くの人が来てくれました。息子がどんなに大切だったかを裁判官に知ってもらう為と、息子の事裁判の行方を見届けてほしかったのでとてもありがたいことでした。

 裁判が終わってからは、抜け殻のようになってしまいました。そして、「生命のメッセージ展」にやっと参加しようと決めました。息子のオブジェを自分の手で作らせて貰いました。息子の等身大の白いオブジェはなんとなく息子に思えてきて感無量でした。これから息子と一緒に命の大切さを皆さんに伝えて行きたいと思います。
 息子の勤める施設は進和学園といいます。
25日しか勤めませんでしたが、とても良くして頂きました。息子がくれたご縁を大切にして行きたいと考えています。平塚市に湘南平という小さな山があります。春は桜の名所になっています。息子が大好きな場所でした。事件の5日前、息子は進和学園の人たちと湘南平にアジサイを植えています。
200種類もあるそうです。私達は、湘南平がアジサイの名所になればと宣伝しています。

彼女にも幸せになってほしいです。
多くの人に支えられてきました。
息子のために出来る事だけを一生懸命して来ましたが、これからは私達に出来る小さな事を探していこうと思っています。
 人の前でお話しするのは、まったく初めてでまとまりのない話でしたが、聞いて下さってありがとうございました。

生命のメッセージ展 公式HP

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