「今、私の晴雨計は!?」

「ある爽やかな夫婦のこと」

       平 山 征 夫

 

 先日、私のところに「インド・子どもの憩いの村―建設・運営および国内活動」という冊子が届いた。表紙には併せて「団体設立20周年記念およびインド支援15周年の活動記録」とある。これは、永年インドでストリートチルドレンの収容施設の建設に、NGO活動で取り組んでこられた片桐昭吾・和子さん夫妻の活動記録である。お二人は八〇歳を越え、この度活動に終止符を打つことにし、この記録書をまとめられたのだ。知事時代から陰に陽にその活動を見守ってきた私にとっても思い出一杯の記録書である。

 私が和子さんに初めて逢ったのは、平成410月の最初の知事選挙だった。保守・革新相乗り候補となった私の選対には、これまで敵同士だった人たちが呉越同舟していた。和子さんは教職員組合の出身で連合の女性部の幹部で、永年革新系の選挙で「ウグイス嬢」などを務めたベテランだった。選挙戦に入ると選挙カーに乗って、企業から派遣されてきた若い女性を指導しながらマイクを連日握ってくれた。さすがベテランで大助かりだったが、気になる点が二つあった。

一つは、朝から「県知事候補のヒラヤマをよろしく」と連呼していると、夕方には疲れて口が回りにくくなる。そのせいかマイクの声は私には「建築工事のヒマラヤ・・」と聞こえてくること。もう一つは、連合の選挙の影響か、しきりに「労働者の皆さん、県知事候補の…」と呼びかけること。住宅街でもおかまいなく「労働者の皆さん・・・」と言うので「この辺、あまり労働者は居ませんので、ご家庭の皆さんの方が良いかも・・・」と申し上げた。何故かこれを聞いていて私は、寅さんの映画で良く出てくる団子屋の裏のタコ社長の印刷工場に向って、寅さんが「労働者諸君・・・」と呼びかけるシーンを思い出していた。

 選挙を終えて久しぶりに片桐さんに会ったのは、片桐夫妻がインドのストリートチルドレンを保護するNGO活動の報告で県庁に訪ねて来た時だった。

 退職後NGO活動を始められた二人は、インドのNGO活動家のローズ氏のハンセン病に関する国際会議での報告に感動し新潟に招聘した。両親がハンセン病患者だったローズさんは、幼くして両親から引き離され、イギリスの教会が運営する孤児院で育てられた。ローズさんは学校卒業後、ハンセン病患者の収容病院建設に携わり、その後山奥に住む少数民族支援の団体を立ち上げて活動していた。夫婦は定年退職の記念旅行を兼ねてインドのローズさんの施設を見学するスタデイツアーに参加した。’9812月だった。ベンガル湾沿いのオリッサ州のとある駅に真夜中降り立った二人がホームを歩いていると、何か柔らかいものにぶつかった。月明かりに透かして見ると薄い布切れにくるまった1516人の子どもたちだった。これが夫婦のストリートチルドレンとの出会いだった。その瞬間「この風景を見てしまった以上、放ってはおけない」「私たちはこの子どもたちを救う使命があるのではないか。残りの人生をそのために捧げよう」と決心したという。「子どもの憩いの村」建設プロジェクトはこうして始まった。

初めは雨露をしのげて安眠できる収容施設と給食設備を考えたが、手に仕事をつけさせたい、州が行うべきなのにやっていない教育がやはり必要となり、ミシン・自転車修理・サンダル製造などの職業訓練施設、識字教育施設など「憩いの村」の事業は大きく広がっていった。

 一番の問題は資金だった。現地の建設・運営はローズさんというパートナーに恵まれていたが、資金手当てのパートナーは見つからなかった。県内の企業などに呼びかけたが反応はなかった。老後のために蓄えた資金は、’03年「憩いの村」建設が本格化すると一年で底をついた。二人の年金から年間必要な三九〇万円を送金することは不可能だった。そこで六〇代後半だった昭吾さんは資金作りのため警備会社に勤め、その給料すべてを送金することにした。

それは4年前77歳の時昭吾さんが心肺停止で倒れるまで続いた。

この二人の活動に私が協力できたことは僅かだった。二十一世紀入りを期して私の呼びかけで県と県民出資で創った、アジアの支援をしている団体等を援助する「新潟・国際協力ふれあい基金」への申請を勧めたり、和子さんが企画するバザーに出品したり、種々の企業・団体の行う褒賞制度に片桐さんが応募する際の推薦状を書いたりするくらいだった。

この報告書の結びの「感謝の言葉と体得したもの」に、「子どもの憩いの村に十五年間で送金した金額は累計八、二一七万円です。

一市井に生きる任意団体としては、途方もない金額です。県内での中越地震などに続き東日本大震災が発生した時は、もうこれまでと天を仰ぎました。そんな時でも新聞、テレビ等で私ども夫婦の活動が採り上げられ、全国各地から心あたたかい寄金を頂戴したからこそ、この大事業をやり遂げることが出来たのです」と昭吾さんは記している。遠隔地から新幹線やカーナビで自宅まで激励に訪ねて来られた人もいたそうだ。

そういう中で忘れられないのが’09年の「毎日国際交流賞」の受賞だ。毎日新聞社主催で市民レベルの国際交流や協力活動を顕彰するもので、数ある顕彰の中でも権威のあるものだ。半ばあきらめながら推薦文を書いたのだが、何と個人部門に選ばれた。二人の活動が全国レベルで高く評価されたのが何より嬉しかった。審査委員の中に私の長年の友人のK氏がいた。同新聞社の主筆になっていた。あまり嬉しかったので二人に黙って表彰式に大阪まで出かけた。今回の報告書にもその時の二人の名コンビ振りが発揮された記念講演が載っているが、遅れて会場に入った私を見てびっくりした和子さんが「寄宿舎付き学校を建てていますが、出来上がったら先生を派遣するからと、青年海外協力隊を育てる会からも激励されています。その会長は前の新潟県知事さんで、今日もこの会場に駆けつけてくれました。先程大好きな人の二番目はローズさんと言いましたが、会長を二番目にします」と言ってくれた(勿論一番目は昭吾さんだ)。

後の記念パーティで久しぶりに会ったK氏は変わらぬ福島訛りで言った。「片桐夫妻はいい。コンビ絶妙だね。大変なことを二人であんなに楽しそうにやっている・・・」。

二人を見ていて私が感じるのは「人間そこまで優しくなれるのか」ということだ。年金生活に入ったら病気のことを思うだけで老後が心配になる。私財をあんなに見事に投げ出せるだろうか。

 「見てしまった以上、放ってはおけない」という二人の考えの原点は生い立ちにあった。昭和十一年新発田市で生まれた昭吾さんは生誕とほぼ同時に両親を亡くし、群馬県境の山奥の片桐という家に貰われ育てられた。頑張って通信教育で大学を卒業し、国鉄に勤務した。育ててくれた養親に深い感謝の念を持ち、今度は自分が誰かのために役立ちたいと思っておられたようだ。和子さんは神奈川生まれだが、父親が傷痍軍人になったため、終戦後実家の魚沼市に引き揚げ、実家の片隅に立てた小屋で、弟さん二人、妹さん一人を栄養失調で亡くすほどの極貧生活を送りながら育った。和子さんも奨学金で何とか大学前期を終え小学校教師になった。二人とも恵まれない子どもを見ると自分の子ども時代を思い出し、何とかしてあげたいと思うのだろう。

意外なことにこの二人が知り合ったのは昭吾さん歳の時だったが、和子さんとの結婚希望が叶ったのは何と五十一歳になってだった。だから二人の結婚生活は八十歳にしてまだ三十年だが、六〇〜七〇歳台の二〇年間、夫婦はインドの子どもたちを救うNGO活動に全精力と資産をつぎ込んだのだ。普通のこの年代の夫婦とは全く違う人生を送られ、今二人はこれ以上ない晴れ晴れとした爽やかな表情をされている。こんな充実した老後を送られる夫婦はそういないだろう。

五〇年余前、二八歳の国鉄マンだった昭吾さんは、お金が無くなって新潟に帰る旅費もない人のため、「新発田市 美紀」という女性名の匿名で五、〇〇〇円の寄付を上野駅に送った。月給六、〇〇〇円の時だった。それに賛同した国鉄マンなどの多くの寄付で「美紀寄金」は大きくなり、二十二年間にわたり沢山の困った人を救った。四〇年経った二〇〇四年、昭吾さんは「美紀は私です」と名乗り出た。それは「インドの子どもたちのため、今度は私が皆さんに助けて貰いたいと考えたからです」という。でもずっと近くで二人の活動を見てきた私には、皆が貧しかった頃より今の方がずっと支援が得にくいように見える。確実に人々の心は貧しくなっている。だから片桐さん夫婦の心はどんどん爽やかさを増してゆくように見える。

そうだ!二人のNGOの名称は「爽」企画だったなあ。


(平成二十九年九月十三日)