写真で見る近代京都の歴史

丹波マンガン記念館


住所:〒601-0533 京都市右京区京北下中町西大谷45番地

電話:0771−54−0046

開館時間:10時30分〜17時まで(入館は16時30分)

休館日:毎週火曜日(ただし祝祭日の場合はその翌日)
     30o以上の雨または警報が出たとき
     12月15日〜3月15日(雪のため)

入坑料金:大人800円、学生(小、中学生)500円、子ども(3才以上)300円
      30人以上の団体の場合はそれぞれ100円引き

駐車場:無料

アクセス:自動車、バイクの場合は京都市内から国道162号線(162号線沿いに看板があります)
      公共交通機関の場合はJRバス「高雄・京北線」京都駅発「周山行き」で『周山』バス停下車。その後「京北ふるさとバス」田貫線「上佐々江行き」または「ゼミナールハウス行き」で
『下中』バス停下車・徒歩10分

サイト:http://www6.ocn.ne.jp/~tanbamn/index.html

メール:tanbamn@apricot.ocn.ne.jp

解説:日本で産出される鉄は強度が弱く、その精製過程でマンガンを加えなければなりません

でした。特に15年戦争が激しさを増してくると武器弾薬製造のためマンガン産出が必要に迫ら

れました。

    ここ丹波地方には約300のマンガン鉱山がありましたが、他の鉱物とは違ってマンガン

鉱は小さな山が多く、その採掘作業も機械ではなく手作業でした。そのため過酷でしかも落

盤など命の危険にかかわるものでした。そして、その作業の担い手が朝鮮人と地元の被差別

部落民でした。

    戦後、この鉱山で働いていた朝鮮人の李貞鎬さんは、閉山の話を聞き、この鉱山の歴

史を後世に伝えるために鉱山の1つ新大谷鉱山を買い取り、私財をなげうって記念館にしまし

た。それがこの丹波マンガン記念館です。

    この記念館をつくるにあたり行政側の対応は、「また、多くの人たちが地質・マンガン・鉱

山を勉強に来られるが、私達はこれを作ろうと町に補助を求めたとき、前京北町長は『金や銀

なら良いがマンガンなど誰も知らない鉱物だし見学者は来ない。また、部落や朝鮮人の働いた

歴史など暗いイメージで町のイメージが悪くなる』と協力せず逆に邪魔をして妨害した。しかし、

丹波高地ではマンガン鉱山は90年続いた基幹産業であり文化であり、朝鮮人や部落の人が

働いたことは歴史の事実なのだ。暗いイメージを隠す、臭いものにフタと言うのではなく歴史を

直視し正面から見ることこそ人権を学ぶ場になると思い、丹波マンガン記念館をつくった。」(丹

波マンガン記念館編 『ワシらは鉱山で生きてきた-丹波マンガン記念館の精神史』 1992年

12月1日 12〜13頁)、と現館長の李龍植さん(李貞鎬さんの三男)は語っています。

    このマンガン鉱での悲劇は戦中のみならず戦後も続いています。それはじん肺という病

気です。この病気のため戦後も多くの方が亡くなりました。初代館長の李貞鎬もその一人です



    ここ丹波マンガン記念館には坑内めぐり以外にも資料館があり多くのものが展示されて

います。たくさんのマンガン鉱石、マンガン鉱山の分布図、マンガン鉱山の専門用語、朝鮮人

を中心とした強制連行など15年戦争に関する新聞の切り抜き、この記念館を紹介した雑誌、子

ども・学生の感想文、マンガン鉱山で働いていた人々の写真などなどです。そして資料館入り

口には李龍植さんによる次の文章が掲げられています。「丹波マンガン鉱山の歴史と人権  

 (前略)アジア・太平洋戦争に突入し、戦争が泥沼化していく中で、労働力の不足を補うため、

朝鮮人や中国人が強制連行され、鉱山に投入された人もいました。 丹波では3000人の朝鮮

人や被差別部落の人たちがマンガン採掘にあたりました。マンガン鉱の労働は、たぬき堀りと

呼ばれました。高さ60p、幅30pの穴に寝ながら入ったり、70sものマンガンを中腰で担いで

外へ運び出したりしました。外へ出したマンガンを、朝鮮人が一人で300s担いで5時間も運ん

だり、被差別部落の女性が90sの荷を運んだりしました。重い荷物を担ぎすぎて肩の皮がむけ

、膝が曲がらなくなってしまい、大便も立ったまましたといいます。 戦後、鉱物の輸入が自由

化され、日本のマンガン鉱山は閉鎖されていきましたが、その後にはじん肺という病気が残り

ました。鉱山で働いた朝鮮人や被差別部落の人たちは、その犠牲となってきたのです。朝鮮半

島に帰還後、発病した人もいますが、何ら保障を受けてはいません。 丹波マンガン鉱山の歴

史は地域の基幹産業、文化の歴史であり、朝鮮人や被差別部落住民の労働の歴史でもあり

ます。それをあからさまにすると、イメージが悪くなると非難する人がいますが、全くの間違いで

す。歴史を直視し、正面から見ることこそ、人権を学ぶことにほかならないのです。そのような

考えから丹波マンガン記念館をつくりました。ぜひとも御高覧ください。 丹波マンガン記念館

長 李龍植」

    この文章がこの記念館の姿を端的に表していると思います。

    残念なことにこの記念館は閉館することになりました。ぜひとも閉館前に一度御覧になっ

て頂きたいと思います。

参考文献

     丹波マンガン記念館『ワシらは鉱山(ヤマ)で生きてきた−丹波マンガン記念館の精神

史』(1992年)

     丹波マンガン記念館『丹波マンガン記念館』(2001年)

国道162号線沿いにある案内看板。この看板が見えたら記念館はもうすぐです。




記念館入り口にある看板。




飯場。説明看板には「昭和10年頃〜35年迄、国道、府県道より徒歩10分から3時間くらいの人里離れた所の付近の立木を伐採して飯場を建築し、マンガン鉱採掘のための家として生活した。屋根、壁は杉皮で、内部はセメント袋をノリで張り、灯火は石油ランプで、飯場主の家族と単身採鉱夫数人が生活した。地下資源開発者に過酷なきびしい生活であった。」




飯場での食事。主食は米が3割で残りは丸麦(大麦)、だんご汁(小麦粉、コーン粉)、副食は、魚類が塩鯖、へしこ、干しニシン、めんたい(すけそだら)、めざし、乾物類が木の葉(たらの芽、りょーぶ、くさぎ)、野草(わらび、ぜんまい、みつば、おおばこ、せり、のびる、たんぽぽ、よもぎ)、野菜は大根葉、ジャガイモ、サツマイモ、タマネギ、酒類は焼酎、どぶ酒(まっかり)であった。しかし、1941(昭和16)年以降は食糧不足となり、ほぼ、だんご汁の毎日であった。




飯場内にある風呂。ドラム缶でできている。




飯場内にある居間。




飯場での寝床。屋根と壁は杉皮で造られているため薄く、冬などはすきま風が冷たいため内側からセメント袋や新聞紙を壁の隙間に糊でつけた。それでも冬は室内のヤカンの水が凍ったり、粉雪が顔に降りかかったりした。




台所。




ジョークラッシャー。石を押しつぶす機械。




ハルツジカ選鉱機。板で水を押し網の上の捨て石と鉱石とを比重の違いで上下に分ける機械。




ベタ車。大量の貨物を運ぶための大型の車をひく牛。ローマでは紀元前六世紀から使用された。日本では八世紀から一九五〇年頃まで使用、マンガン輸送をした(約2トンを積む)。




巻き上げ機。下から坑車(トロッコ)を巻き上げた。




木馬。山深い鉱山から二酸化マンガンを袋に70s入れ運んだ。ワイヤーブレーキをかけながらの危険な作業であった。




炭坑入口。約300メートル。坑内温度は10度〜12度。




作業風景。大正から昭和二十五年頃まで坑内運搬に手押木馬(ソリ)を主に鉱石を坑外への運搬具として使用した。




作業風景。50sの荷物を40メートル上まで持って上がる。




二酸化マンガン鉱のスカシ堀り。スカシ掘りとは良質の部分を選んで掘るもの。人間の手でノミを使って掘る。




作業風景。足下にあるのはサザエの貝殻。ここに油を入れ照明としていた。




作業風景。




作業風景




作業風景。




作業風景。




作業風景。50sのトロッコまたは木馬を60メートル下から巻き上げる。背負い運搬の合理化のために巻き上げ機が導入された。しかし車輪と異なりかなりの重労働であった。




さく岩機作業。約80p〜150pの長さにさつ孔し火薬を装填し発破し採掘した。




細脈掘り。細い鉱脈を寝そべりながら掘る。




作業風景。




作業風景。10メートル底から手くみポンプでくみ上げて掘る。




木馬やトロッコへの積み込み作業。




コールピックの枯息作業。枯息作業とは坑道の凹凸をなくし作業をしやすくすること。




600sのトロッコによる運搬作業。




鍛冶小屋。さく岩機が導入されるまで鉱夫は自分のノミは各自で焼き鍛冶をしていた。




鍛冶小屋内での鍛冶風景。