松浦の民話
◎梶谷城◎
通説では平安末期以降、九州西北部一帯に割拠し一族共同体を形成していた「松浦
党」の太祖、源久が延久元年(1069年)に今福町の「ぎぎが浜」に下向し、築城をした
のがこの城だと言われており、本丸(主郭)、二の丸を持つ日本最古の近代城郭のひとつ
です。
本丸(主郭)の石垣は高さ3メートル弱ほどで、東西50メートル、南北200メートル
近くあり、南寄りに天守台跡とみられる一段高い部分があります。戦国期まで断続的
に使われた結果、曲輪の形態は梯郭式に近く、本丸(主郭)には東西に2基の櫓(やぐ
ら)台と、本丸(主郭)大手門部分には未完成ながら桝型(ますがた)曲輪(くるわ)を備
えています。 ⇒ 梶谷城
本丸(主郭)より一回り狭い二の丸は、石垣の風化が激しく車道の造成などでその形
がわかりにくくなっています。二の丸虎口から本丸(主郭)大手門付近、西側櫓跡の付近
が最大の見所です。
また、一の門があったところは現在駐車場になっており、一部空掘り跡が残っています。
松浦党は世界史上、西のバイキングに対する東の「倭寇」としてその中心的役割を果た
したことでも有名で、源久は宇野御厨検校、検非違使、従五位下の大夫判官で、久安4
年(1148年)9月15日に85歳で亡くなり、その墓は城主の菩提寺である今福町の宛陵
寺にあります。⇒ 今福町
(注釈)史実によると源久が実在の人物であったことは確かなようです。しかし嵯峨天皇
第十六王子左大臣源融の裔・渡辺綱の嫡子であったことは、地元ではまだ確認されてい
ません。⇒ 渡辺綱
また、一般的には最も外側の門を大手門と呼びますが、現地で本丸(主郭)の門に「大手
門跡」という表示があるため、これを使用しています。