松浦の民話

梶谷城

  通説では平安末期以降、九州西北部一帯に割拠し一族共同体を形成していた「松浦

党」の太祖、源久が延久元年(1069年)に今福町の「ぎぎが浜」に下向し、築城をした

のがこの城だと言われており、本丸(主郭)、二の丸を持つ日本最古の近代城郭のひとつ

です。

  本丸(主郭)の石垣は高さ3メートル弱ほどで、東西50メートル、南北200メートル

近くあり、南寄りに天守台跡とみられる一段高い部分があります。戦国期まで断続的

に使われた結果、曲輪の形態は梯郭式に近く、本丸(主郭)には東西に2基の櫓(やぐ

ら)台と、本丸(主郭)大手門部分には未完成ながら桝型(ますがた)曲輪(くるわ)を備

えています。   ⇒ 梶谷城

 

  本丸(主郭)より一回り狭い二の丸は、石垣の風化が激しく車道の造成などでその形

がわかりにくくなっています。二の丸虎口から本丸(主郭)大手門付近、西側櫓跡の付近

が最大の見所です。

また、一の門があったところは現在駐車場になっており、一部空掘り跡が残っています。 

    

  松浦党は世界史上、西のバイキングに対する東の「倭寇」としてその中心的役割を果た

したことでも有名で、源久は宇野御厨検校、検非違使、従五位下の大夫判官で、久安4

年(1148年)9月15日に85歳で亡くなり、その墓は城主の菩提寺である今福町の宛陵

寺にあります。⇒ 今福町 

 

 (注釈)史実によると源久が実在の人物であったことは確かなようです。しかし嵯峨天皇

第十六王子左大臣源融の裔・渡辺綱の嫡子であったことは、地元ではまだ確認されてい

ません。⇒ 渡辺綱

また、一般的には最も外側の門を大手門と呼びますが、現地で本丸(主郭)の門に「大手

門跡」という表示があるため、これを使用しています。