◇その59
「そっちはどうだった?俺のほうはそれらしいものを見つけたんだが。」
「見つかったか!私のほうはまだ十分の一も見ていない。今のところは収穫なしだ。」
気を取り直したミロが宝瓶宮を出て教皇庁の古い書庫を覗くとサガが何人かの職員と一緒に調査を進めているところだった。古い書棚に収められていた文書や粘土板がきれいに埃を払われて長机に積み上げられているがまだ手をつけていない書棚のほうがはるかに多い。とても一日や二日では終わりそうにない量である。
職員に休憩するようにと言い置いたサガが宝瓶宮にやってきた。
「これだ。」
ミロが例の壁を指差した。片膝をついたサガが興味深そうに文字を追う。
「ふうむ……」
「ほかの場所はすべて探した。伝言らしいものはこれだけだ。俺はこれからローマに行ってコロッセウムの捜索に取り掛かろうと思う。アテナにはこのことを報告してもらえるか?」
「わかった。場合によってはご自分でご覧になるためにここにおいでになるかもしれん。」
「そうかもしれないな。留守の間にアテナが来たと知ったらカミュがさぞかし驚くだろう。その日が来るといいんだが。」
淡く笑ったミロが部屋を出て行った。
主のいない宝瓶宮は物寂しい。サガはもう一度壁の文字を読んでみた。
「感謝とは……いったい何に感謝しているのだろう?カミュはこのあとどうなったのだ?」
はたしてアテナの予想通りに伝言は見つかったが、わからないことだらけである。ため息をついたサガはアテナに報告するために神殿に向かった。
ティボリに働く者の朝は早い。ハドリアヌス帝をはじめとする上流貴階級が目覚めるころにはすべての準備を完璧に整えて一切の遺漏のないようにしておかねばならないのだ。
一番鶏が鳴くと同時に起き上がったマリノスが手早く朝食を済ませて詰め所に顔を出すと先に来ていた浴場長に手招きされた。
「あとで一名入浴しにくる。お前が担当してお世話申し上げろ。皇帝陛下のお客人だから、失礼のないようにな。水晶の湯を使うようにとの命令が出てる。」
「はい、わかりました。」
マリノスは緊張した。水晶の湯は特別な客のためだけにひらかれる浴場で、ローマでも有名なモデストゥス技師の渾身の力作だ。数ある元老院議員の中でもハドリアヌス帝お気に入りのほんの数名しか入浴を許されたことのない特別な場所で、ティボリの別荘の水晶の湯に入ったといえばローマでのステイタスは最高のものとなるというもっぱらの噂だ。
湯の用意をする奴隷は別にいるので、マリノスは客の身体に塗るオイルや垢すりに使う銀のストリジルを取り出すと入念な準備を始めた。元老院議員の中には尊大な態度で威張り返る者もいれば、奴隷には目もくれずに水晶の湯の内装に見とれている者もいる。ときにはマリノスの容姿に目をつけてよからぬ振る舞いに及ぶ者もいるのだが、そんなときにもけっして拒んではならないという決まりがあって、けっこう気苦労な仕事なのだ。
どんな客だろう?
昨日はローマからは誰も来なかったはずだから、
夜のうちに誰かがきたのかもしれない
元老院議員は年寄りが多くて嫌だな
年配者の肌はシワがよっているし、強く擦りすぎると痛がって不機嫌になるので加減が難しい。うまくやって当たり前、失敗するとひどい叱責をくうし、こちらがうまくやってもなにかの拍子に当たり散らされることもある。
むろん男色趣味は論外だ。
ローマにいたころに見かけたグラデュエーターのように隆々と筋肉の盛り上がった客の世話ができたらどんなにかやり甲斐があるだろうと思いはするものの、マリノスがここに配属されてこのかた、このティボリの別荘にそんな新進気鋭の青年もしくは壮年が来た試しはない。
まだ右も左もわからなかった子供のころに、噂に聞くアンティノーを幾度か見かけたことはあるが世話をしたのはずっと年長の先輩だったし、そのアンティノーもハドリアヌス帝の供をして遠いエジプトに行ったきり戻ってくることはなかったのだった。
それにしてもアンティノー様はおきれいな方だったな
あんな方のお世話をしたらどんな気持ちだろう?
今日の客が気難しい年寄りじゃないといいんだけどな
すっかり準備を終えたマリノスがそんなことを思いながらいつ来るとも知れぬ客の到着を待っていると、外で足音がした。窓からそっと覗くと三人の兵士が一人の男を連れてやってくる。
……え?まさかあれじゃないよな?
どう見ても元老院議員ではないし、といってハドリアヌス帝の友人とも思えない青年の登場である。マリノスの知る限り、こんな年格好の人間で水晶の湯に入ったことがあるのは今までにたった一人、あのアンティノーだけのはずだ。
あれって、たしか昨日モデストゥス技師と一緒にいた人だ
ははぁ! きっとなにか仕事をしに来たんだろう
それにしてもきれいな人だな 男でもあんな人がいるんだな
アンティノー様とどっちがきれいかな?
しかし、マリノスがそんなのどかなことを思いながらのんびりしていると、つかつかと近寄ってきた顔見知りの兵が、
「陛下の客人を連れて来た。話は聞いているな。入浴が終わったら詰め所に連絡してくれ。迎えに来る。」
と簡潔に言って戻って行った。
えっ!それって、この人が客人ってことか?なんで?
仕事で来たんじゃなかったのか?
それでも気を取り直したマリノスが、
「ご案内します。どうぞこちらに。」
と言うと、浮かない顔をした若い男が軽く頷いてあとをついてくる。 てっきりモデストゥス技師の助手かと思っていたこの青年が今日はなぜハドリアヌス帝の客人なのか、マリノスにはさっぱりわからない。首をかしげていたマリノスも水晶の湯の扉を開けるころには、こんなにきれいな人の湯の世話をするという事実のほうに気がいってなんだか胸が高鳴っているのだった。
→