◇ 桜吹雪 ◇ その5

「これなら30分もすれば乗れそうだ。運がいい。」
風が強くなったら危険なため営業を中止することもあるというからますます乗れるチャンスは狭くなる。だんだん前に進んでやっと四人の番が来た。
「初めてでもうまく漕げるものだろうか?」
「大丈夫だよ。誰だって初めて乗るときはあるんだから、すぐにうまく漕げるようになる。時間は30分だからそれまでにここに戻ってくればいい。」
そう言ってミロとカミュが先に戻ってきたボートに乗り込んだ。ミロが櫂を握ると慣れた様子ですいすいと桟橋を離れて石垣の上から枝を伸ばしている桜のほうに寄っていく。目標地点まで到達すると片側の櫂だけを二回ほど漕いでくるりと向きを変え、じっと見ているカルディアとデジェルのほうにちょっと手を挙げて合図を送ってきた。見ていて羨ましくなるほどの手さばきの良さで、久しく運動という名のつくものから遠ざかっていたカルディアはうずうずしてきたらしい。
「俺が漕ぐからな。」
「カルディアはだめだ。今朝退院したばかりだろう。」
「わかってないな。退院したってことは大丈夫ってことなんだぜ。それだって念のための入院だったしな。ミロの動きを見てもたいした運動量じゃないのは明白だ。同じ蠍座だし、俺が漕ぐ。」
「でも…」
「だめだ、譲れない。」

   いくらテレポートしたせいで心臓が心配だったからといって
   真っ青になってうろたえてデジェルにすがらんばかりだったからな
   今思い返してもみっともないぜ
   ここでまたデジェルにボートなんか漕がせたら蠍座の沽券にかかわる!

子供の命は救ったし、なんら引け目を感じる必要はないのだがカルディアとしてはもう少しスマートにできなかったものかと悔いが残るのもしかたがない。
頑なに主張するカルディアの横顔を見て、とてもかないそうにないとデジェルもあきらめた。海や川ではないのだから水の抵抗も少なくてそれほどの力が要るとも思えない。

   もしも疲れが見えるようなら、水に手を入れて対流を起こせば済むことだ
   うまくやればカルディアにはばれないだろう

いかにも水瓶座らしい対処方法を考えたデジェルはもう気にしないことにした。蠍座は蠍座、水瓶座は水瓶座である。
そうこうするうちにボートが一艘戻ってきて、いよいよ二人の番である。
「気をつけろよ。ここで水に落ちたらさまにならないからな。」
「誰にものを言っている?そっちこそ堀の真ん中で立ち往生するような恥ずかしいまねはしてくれるな。」
「誰がっ!?」
バランスに注意しながら揺れるボートに乗り込んで見よう見まねでオールを握る。待っている間にほかの客の漕ぎ方をじっくりと見て学習しておいたのでやり方はわかっているつもりだ。離れたところからミロとカミュがこちらの様子を窺っているらしいのもカルディアの負けん気を駆り立てた。
「じゃあ行くぞ!」
水にオールを入れてぐいっと水を掻く。
「あれっ?」
入れ方が浅すぎたのかボートはほとんど進まない。
「もっと角度をつけたほうがいいのでは?」
「そんなことわかってる。」
ちょっと慌てて今度はもっと慎重にオールで水を掻く。

   よしっ、進んだ!
   でもなんで右に曲がるんだ? ああ、力の入り方が均等じゃないんだな

デジェルも口を挟みたいのは山々らしいがここはカルディアに任せようとじっと我慢の子でいてくれる。順番を待っている日本人たちから注目されているような気がしたカルディアは自分を叱咤しながらそれでもなんとか方向を定めてやがてミロたちのボートに寄っていくことに成功した。
「そら見ろ、このくらいはすぐに慣れる。」
最初はぎこちなかったカルディアのオール捌きもだいぶさまになってきて、この分ならデジェルが手を貸す必要もない。
「大丈夫か?疲れないか?」
「このくらいは平気だ。こんな穏やかな水面で手こずるようでは先が思いやられる。」
「それもそうか。」
この辺りはお堀の石垣にほど近く、桜の古木の幹から分かれてぐっと下方に伸びてきた太い枝が頭上で満開の花をつけている。あたりに現代的なものは何もなく、遠い昔に侍が闊歩していた頃の江戸城のお堀端もこんな眺めではなかったのかと思わせた。
「ほんとにきれいだな。それしか言葉が浮かばない。」
「桜が満開になっている様子を花の雲と表現することもある。日本人はほんとに桜が好きらしくて日本のあちこちで有名な花見の名所がありどこも見物客でにぎやかだ。」
「いいね、いかにも平和だな。すると俺たちが闘って死んだあとも地上は無事に存続し、その結果がこの優雅な花見ってわけだ。」
「そういえばそうだな。」
なんの憂いもなく花見に興じる人々に交じって見上げる桜はどこまでも美しい。水面を渡る風が桜の花びらを散らし水の表に華やかな模様を描く。
「ああ!これはすごい!」
「これが花吹雪だ。日本語で一番きれいな言葉だという説もある。」
カミュとしては、それを言ったのが詩人・谷川俊太郎の父である哲学者の谷川徹三だと言いたい気もしたがここは控えることにした。なにもかも言えばいいというものでもないだろう。
「花吹雪とは言い得て妙だ。吹雪は恐ろしいものだが、これはなんと美しい吹雪なのだろう!」
その言葉に合わせたかのようにまた一陣の風が吹いてきて、水の上にも四人の上にも桜色の花びらを万遍なく散り掛からせた。
「生き返ってよかったよ。この世の中はこんなにきれいなんだからな。これを見ないで死んだままなんてもったいない。」
「まったくだ。アテナの恩寵に心から感謝せねばならぬ。」
「それに…」
「なんだ?」
「……いや、なんでもない。ほんとに生き返ってよかったよ。」
たぶんカルディアはデジェルと心が通じたことを言っているのだろうとミロにはわかる。思いあっていることを知らぬままにそれぞれの戦いで命を散らせた二人が再びよみがえってついに思いを遂げたことを思うと運命ということを考えずにはいられない。
「ここで喋っていたんじゃ、ボート漕ぎに習熟できないな。時間が来るまで漕いでいたほうがいい。俺たちは向こうのほうに行ってみるから、そっちはそっちで思う存分漕ぎまわってくれ。もしもほかのボートにぶつかって投げ出されたらカルディアが溺れる前にデジェルがテレポートして助けてやればいいから。」
「冗談じゃない!俺がデジェルを助けるからな!」
「水は私の得手だ。私がテレポートさせてもらう。」
「わかった、わかった、好きにしてくれ。それじゃあな。」
苦笑したミロがオールを握り直してその場から離れ始めた。新しく水面に生まれた波紋が桜の花びらの模様を揺らしながら遠くまで伝わってゆく。
カルディアがなにか言いながら反対側の石垣のほうに向かってボートを漕ぎ始めた。多少おぼつかないが進行方向にちゃんと向かっているのでかなり慣れたのだろう。
「おい、写真を撮ってやれよ。いい記念になるだろう。」
「そうだな、それがよい。」
携帯を取り出したカミュが何回かシャッターを押した。
「いいのを選んで送信しておこう。」
「ふふふ、お前もそうとうだな。ハートマークで加工するっていうのはどうだ?」
「それは遠慮する。」
カミュが笑いながら携帯を操作する。桜吹雪の向こうで不思議そうに携帯を開いたデジェルが真っ赤になるのがちらりと見えた。