◇ 日本のバレンタイン ◇

「すごい!信じられない!」
銀座の老舗デパートのチョコレート売場で唖然としているのはデジェルだ。ミロからバレンタインデーのことを聞き込んだカルディアから
「バレンタインにはもちろん俺にチョコレートをくれるんだよな。期待してるぜ。」
と耳元でささやかれて、その趣旨があまりわからないままに頷いたのだ。そのときのデジェルは詳しい理由を聞けない状態で、なぜかというと………そんなことはここでは書けない。

現代に蘇生して身の回りのありとあらゆるものに驚異の目をみはったカルディアが食べ物の分野でひときわ気に入ったのはチョコレートだった。
「アイスクリームもいいがチョコレートは絶品だな。この時代に生きてるってことは贅沢の極みだぜ。こんな美味しいものをいくらでも食べられるなんて、まるで王侯貴族だな。」
デジェルに徹底して体重管理をされているので、たくさんは食べられないがそれでも時々はカルディアの口にもチョコレートの一粒や二粒は入る。
「あ〜、こたえられん!ほんとに幸せだ!」
そのたびに第二の人生の至福のときを味わうカルディアがバレンタインデーに寄せる期待は計り知れないほど大きい。
この宿に滞在しているミロとカミュめがけて2月13日あたりから続々と届けられるはずのチョコレートの山が離れの床の間に積み上げられる日も近い。隠せるはずも、また、その必要もないと考えたミロは日本におけるバレンタインデーの主旨と現状を一足先にカルディアに説明し、最初はあきれていたカルディアもやがて時代の最先端のチョコレート事情を理解した。
「すると、なにか?話をしたこともない日本人の女性がお前たちの見かけに釣られて全国津々浦々からチョコレートを贈りつけてくるっていうのか?理解できんな。」
「いや、津々浦々って………このへん近郊だが、どこでそんな言葉を?」
「気にするな。言葉のあやだ。ギリシャにだって津や浦は掃いて捨てるほどあるからな。で、なぜお前たちのことが知られてるんだ?」
「登別に何年も滞在してると、どこかで俺たちを見かけることがあるんだろうな。で、交通事故とかテレビ中継のせいでやたらと届くようになった。日本じゃ、バレンタインデーには歌手とか俳優とかスポーツ選手とかにもファンから山のようにチョコレートが届くらしいから、それと似たようなものだろう。」
「ますます意味がわからんな。詳しく聞かせろ。」
そこでミロが二人とも続けて交通事故に遭った話をして現代社会の奇禍について一席ぶち、テレビ中継の仕組みについてわかる限りの範囲で説明をするのに30分を費やした。おそらく一日のうち3時間はこの手のレクチャーをしている計算になるだろう。
「ふうん、お前たちの事情はわかった。つまり、この時期には両思いも片思いも、ともかく女は好きな男におおっぴらにチョコレートを贈るという気の利いた習慣があるってことだな。」
「そういうことだ。世界でも日本だけに見られる珍しい現象で、日本のチョコレート業界が一年でいちばん活気付き、景気を押し上げる効果が期待されて…」
「そんなことはいい。で、お前はカミュからもらうのか?」
「え………あの、それは、俺はたしかに男だけどカミュも男で、」
「こないだカミュから男女同権の思想について習ったばかりだぜ。恋人同士なら両方とも男でもかまわんだろう?デジェルが男だからって、俺がもらえない理由にはならない。それが男女同権って奴じゃないのか?」
「え?……ええと…男女同権って言うんなら、男から女に渡しても…」
「もらうのか、もらわないのか、どっちだ?俺の心臓がいつまで持つのかわからないし、デジェルの奴にできるだけのことをさせてやりたいんだよ。わかるだろ?」
「あの、それは………させてやりたいって?え?して欲しいんじゃなくて?」
「お前が言いたくないなら、自分でカミュに聞くからかまわんさ。ああ、ちょうどいい。向こうからカミュが来た。ついでに、渡したときのミロの反応も…」
「待ったあぁぁ!」
「わかればいいんだよ。さあ、詳しく話せ。」
ミロ、奉行所のお白州に引き出されて洗いざらいしゃべらせられる心境である。

バレンタインデーを目前にしたこの時期のデパートの特設売り場及び地下の洋菓子売り場はたいへんな混雑で、カルディアが一緒に来ていたら心臓によくなかっただろうとデジェルがほっと胸を撫で下ろすほどだ。
「すごい人だかりだが、これがみんなチョコレートを買いに来ているのか?」
「そうだ。これは日本だけの特異現象で、この時期には毎年このような光景が見られる。私も最初は驚いたが、今では春が近付いたことを示す指標の一つだと思っている。」
「すると雪解けとか?」
「比喩的にはそうかも。」
フランス語で雪解けを意味する名を持つデジェルが笑いながら人垣の後ろから売場を覗き込んだ。主に若い女性でいっぱいのその場所は近付くことも難しいが、背の高さがなんとかケースの中を覗くのに役立った。
「とても綺麗だし、洒落ているのはよくわかったが、どれを選べばいいのかわからないし、そもそもどうやって買えばいい?こんな混雑では、私にはとても無理だ。闘うほうが得手だが、これではたとえ聖衣があってもとても勝つ自信がない。」
「私もこういうのは苦手だし、できることなら通信販売を利用したいところだが、ミロがそれではならぬと無理を言う。」
カミュがため息をつく。

「通販なんてだめだからな。心が篭ってないって思われたくないだろう?仕事に追われているわけじゃなし、体調が悪いわけでもない。ましてや予算もたっぷりあるんだから、東京まで遠征して品定めのうえ購入するのが心を尽くした贈り物っていうんじゃないのか?」
日本にやって来た次の年にニュースで日本におけるバレンタインデーの熱狂ぶりを知ったミロから熱弁を滔々と聞かされたカミュは、
「私は女ではないから」
という至極まっとうな理論を展開したが、
「俺のことが大事じゃないわけ?それに……昨夜、許してくれたらなんでもするって言わなかった?」
と耳元で熱く囁かれて早々に自説を曲げた。それ以上抗弁すると昼日中からさらに許しを乞う事態になりかねなかったのだ。どういうことかというと………そんなことはここでは書けない。

それ以来、にっこり笑ったミロに送り出されて東京のデパ地下に遠征するのが毎年の恒例行事となっている。むろんカミュとて、はるばる東京まで来てチョコレートを購入するだけでとんぼ返りするつもりはさらさらない。上野に行けば見たい展覧会が必ずあるし、博物館の平常展示や登録有形文化財にもまだまだ見たいものがいっぱいだ。その上、コンサートにも行きたいカミュとしては東京行きはむしろ楽しいと言えるだろう。
しかしバレンタインのチョコレートを買うのは鬼門だ。
「ほんとに女性ばかりだな。どうすれば買える?カミュは毎年どうしてるんだ?」
途方に暮れたデジェルがカミュを振り返った。
「今日は下見だ。ざっと見て目星をつけたら、明日の朝、ここが開店すると同時にこの売り場に来て品物を購入する。いつも100人ほどが開店を待っているが、この広い売り場まで来ると混雑にはならないので、落ち着いて買うことが可能だ。それに、あまり注目されないという利点がある。」
そう言われてデジェルがあたりを観察すると、かなりの視線がこちらに向けられているのに気がついた。デジェルと視線が合うとさっと横を見て、またケースの中のチョコレートの品定めが始まっている。
「もしかして私たちを見ているのか?」
「私たちが外人ゆえ、日本人には珍しいようだ。それにこの売り場には男性はほとんどいないのでさらに目立つし背も高い。人目を惹く条件は揃っている。これで実際にチョコレートを購入したら、こんどはそれに好奇の目が加わり、誰に贈るのかという余計な推測が始まるかも知れぬ。それはできるだけ避けたいので、私は開店と同時に入店してあらかじめ選定しておいた品を買うことにしている。これなら1分とかからない。」
「なるほど!」
注目される理由のもっとも重要な点は、ミロ曰く 「惚れ惚れするほどの美質」 なのだが、いくらミロから繰り返し聞かされていようともカミュが自分からそんなことを言うはずもないし、また、カミュを含む黄金聖闘士を見慣れているデジェルにはカミュの美質もそれほど目立たない。むしろ記憶の中にあるアルバフィカの美質のほうが懐かしさも加わってさらに印象的なのだった。
それから主だった売り場をざっと見て回り、おのおのこれと定めたところでいったん退去することにした。カルディアから長時間離れているのを心配するデジェルのために離れから直接東京の城戸邸の一室にテレポートする方法を取っているので、帰路もそのパターンだ。
出迎えたカルディアから探りを入れられたデジェルが当日のお楽しみだと突っぱねた。

翌日は再び東京に行き、10時の開店と同時に店内に滑り込む。五十人ほどが地下に向かい、今度は気持ちよく空いている売り場で何人もの店員の 「いらっしゃいませ!」 の声を聞きながら首尾よく好みの品物を買うことができた。むろんデジェルは言葉ができないのでカミュが代わって買ったのだが。
初めての経験に高揚しているデジェルはすべてのものが珍しくてしかたがない。めでたく自分の分が買えたのに安心して、カミュが自分のチョコレートを買っている横で、凝った意匠のチョコや様々なデザインの小箱を見比べるのに余念がない。包装のリボンやラッピングの種類の多さにも目をみはる。
「ほんとに綺麗だ!チョコレートそのものも綺麗に包まれているが、箱やリボンのデザインがとてもいい!ふうん、一粒の値段がついているのもあるのか?卵の売り方と同じだな。あれは高いのか?え?350エン?比較の対象がないから、わからないな。」
それはGODIVAだ。

こうしてバレンタインのチョコレートを買う楽しさに目覚めたデジェルは意気揚々と宿に戻り、綺麗な手提げ袋に入った大事なプレゼントを床の間の違い棚の上に置くことにした。指折り数えてその日が来るのを待つカルディアは、自分のためのプレゼントを眺めながら夜毎にデジェルを抱いて充実した時を過ごすことになった。襖を隔てた隣にミロとカミュがいるので、それはまあそれなりに、ということだが。
……え?それなりとはどのくらいかって? そんなことはここでは言えない。

そして当日の朝食から戻ると、待ちきれなくなったカルディアがデジェルをつついた。
「おい、もう待てない。これだけ焦らせれば十分だろう。」
「わかったから。そんなにあせらなくともチョコレートは逃げはしない。」
笑いながら違い棚から手提げ袋を持ってきたデジェルが中からきれいな金色の包みを取り出した。小さいけれど心を込めたその箱をちょっと頬を赤くしたカルディアが受け取った。
「ありがとう。うん、なんともいえず、いいもんだな。おい、ミロももらえよ。俺だけじゃ片手落ちだ。」
「う〜ん、人前でもらうのは初めてなんだが……まあいいか。蠍同士のよしみだ。」
苦笑したミロがこんどは少し頬を染めたカミュから青い矩形の包みを受け取った。
「ほんとにもぅ…」

   誕生日のプレゼントなら人に見られてもなんとか許せるが、
   バレンタインっていうのは愛の証しで…
   ああ、当日のもらい方をレクチャーするのを忘れていた!

ミロがそう思ったとき、
「あぁ…!」
声を上げたのはカルディアだ。足元の畳の上に金色の包み紙が落ちていて、白い箱の蓋を開けたその中には……
「……赤いハートだ!俺の心臓が入ってる……」
真紅の銀紙に包まれた目にも鮮やかな一粒のハートがミロの目に映った。
「カルディアがこれからも元気でいるようにと思って…」
しかしデジェルのその言葉はさえぎられ、力強い腕がその身体を引き寄せる。
「おい、ミロ!向こうを向いてろ!」
はっとしたミロが慌ててカミュの腕をつかまえて背を向ける瞬間に、赤いハートの持ち主が あらがうデジェルに唇を重ねていくのがわずかに見えた。
「それじゃあ、俺たちも先代に倣うとしよう。」
「ん…」
このことのあるのを予期していたのか、カミュの抵抗はなかった。

   ふうん………ずいぶんTPOがわかるようになったじゃないか
   それともカルディアがわかってないのか?
   まあいい………せっかくのバレンタインだ
   ゆっくりと楽しませてもらおうか

離れに春がやってきた。