「 行 行 重 行 行 」   ( 行き行きて重ねて行き行く )

                                                          「 文選 」 巻二十九 ・ 古詩十九首の一


盛夏の八月、望月の夜に昭王が内宴を開くようになられてから、早や十五年が経とうとしている。
極めて内輪の者だけを招かれての小宴は招涼の宴と名付けられ、今年も紅綾殿の昭王の私室に続いた小室で行われることになっていた。
「これはアイオリア殿! 今年も暑くてかなわんな!」
巨体を揺すって廊下の角を曲ってきたのはアルデバラン将軍で、近侍に長柄の団扇で扇がせているだけでは足りずに自分でも団扇を持って風を送っているのは、いかにも気取っていなくて親しみやすい人柄の現われだ。
「今宵は風もなく蒸し暑いが、それでも招涼の宴ゆえなにほどのこともないだろう。」
「全くだ! 昭王のありがたい思し召しにより我らも涼しさの恩恵にあずかれるとは恐悦至極!」
満面に笑みを浮かべたアルデバランの言うことはもっともで、これから開かれる宴では暑さを覚えることはない。 なにしろ昭王の長年秘蔵の招涼玉を中心に据えた ごくごく内輪だけの集まりなのだから。

「アルデバラン様、アイオリア様、ようこそお越しなされました。 さきほどムウ様もおいでになっておられます。」
部屋の前の廊下に立っているのは貴鬼で、この春から侍僕の次席になっている。 それだけでもこの若さでは異例の出世なのに、侍僕頭が病気がちで出仕しないことが多いので実質的な筆頭を大過なく務めているのはたいしたものだ。
「ムウ殿に負けたか! まあいい、しんがりを勤めるのは武人の習いだ。」
笑いながら部屋に入ってゆくアルデバランのあとに続くと、円卓にはすっかり宴の用意が出来上がっていて、あとは昭王の出御を待つばかりなのだ。
先に席についているムウはいつもと同じく涼しい顔で、近侍に扇がせているのも形ばかりとしか思えない。
「どうしてこの暑い夏に汗をかかんのだ? 付き合いが悪いというものではないか。」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、というではありませんか。 といってもやはり今宵の宴は楽しみですが。」
にこやかに笑って会釈をするムウは若い頃とあまり変わっていない。 アルデバランがますます首太く恰幅良くなっていくのに比べて、いまだ青年の面影を残している。
「昭王様が御出御になります。」
貴鬼の声に我々三人が起立拝礼しているとやがて奥からゆかしい薫香とともにたくさんの侍僕と宮女を引き連れた昭王が現われた。 盛夏の今宵は群青の裾濃の衣の上に柔らかな白麻の紗を重ねて下地の青が仄かに透けるようなのが涼しげである。 白に銀の刺繍を施した綾絹の帯から揺れる佩玉は緑の縞瑪瑙と銀の飾り玉を組み合わせたもので昭王の動きにつれて軽やかな音を立てている。
「揃ったか。 いつものように今宵は無礼講ぞ。 」
昭王が軽く手を振ると貴鬼を残して侍僕、宮女が一斉に去り、これからあとはほんの内輪だけの清宴となる。 そして人を去らせるのにはもう一つ、とりわけ重要な理由があるのだった。
席に付いた昭王が自ら首の後ろに手をやり瑠璃色の細紐を解く。 懐から綾錦の袋を引き出して卓の中央の紫の袱紗に乗せると袋の口を少しばかり緩めた。 そのとたん冷涼な気が部屋を満たし、今までの蒸し暑かった思いは雲散霧消するのだ。
「ああ、ほんとうに涼しくて!」
「生き返る思いがいたしますな!」
ムウとアルデバランと顔を見合わせて昭王に拝礼をする。
「無礼講と言うたのに。」
そう言いながら昭王の頬には笑みが浮ぶのだ。

あの水難を逃れたのちにカミュ殿も燕を去り、昭王の身近は元通り我々だけになったが、何もかもが元通りになったというわけではない。
まず昭王が考え深くなられ、貴鬼が妙に寂しそうな顔をすることがしばしば見られ始めた。 そして風もなくとりわけ暑い日に、侍僕たちが、昭王のそば近くに侍していると涼しいということに気付いたのだ。むろん、誰も表立ってそんなことを上奏する筈もなく、首をかしげながら不思議なことと思っていたのだが、或る日昭王と花を愛でておられた太后がそのことに気付かれて 「なぜここはこのように涼しいのでしょう?」 と口に出されたものだ。 付き従っていた侍僕たちが顔を見合わせ、ちょっと困ったような顔をなさった昭王が人払いをなされた。 おそらくそのときに太后はこの玉のことをお聞きになられたのだと思う。
さうして夏は過ぎ寒気の厳しい頃になると、 今度は昭王の回りが暖かいという噂がひそやかになされるようになった。 それを侍女から聞きつけた太后が、昭王は天から嘉されているのでそのような天恵を受けられるのでしょう、と語ったことが伝えられ、それで皆は納得し昭王の徳を称えたのだ。
こうして夏の暑さも冬の寒さも知らぬげに過ごす昭王が我らにほんの内輪の宴の誘いをされたのは水難の翌年の夏だった。
ごく普通の宴だと思いながら集まってみると、貴鬼が妙に嬉しそうにして迎えてくれた。
「今宵は招涼の宴となります。 ここで見聞きしたことは口外せぬように、との昭王様のご内意がありました。」
と貴鬼が声をひそめて言うのには一同首をかしげたものだ。
「おかしなことを仰せになるものだ。 無礼講なら当然のこと、我らはもとよりわきまえているが。」
ムウがつぶやき、私とアルデバランも頷いた。 しかし、奥から現われた昭王が人払いをした上で首からはずした錦の袋が涼気を発したときに合点がいった。 なるほど、これでは念押しせずにはいられぬに違いない。 袋の口から白く艶やかな玉がほんの少しだけ見えている。
「これはいったい………!」
思わず口にのぼせると、
「招涼玉ぞ。 由来については聞かぬように。」
にこと笑った昭王の言葉に一同は礼をする。 一部始終をにこにこしながら聞いている貴鬼なら知っているかもしれないが、、昭王にああ言われては誰も訊ねることは出来ないのだ。
「それでは………お身の回りが夏は涼しく冬は暖かいというのはまことでしたか!」
「いやはや、これは驚き入った次第!」
一同が歎声を上げる中で貴鬼が酒を盆に載せてきた。
「無礼講ゆえ、余が皆に注ごう。」
「あ………これは!」
緊張しながら杯を差し出して、有り難く含む酒さえ早くも冷気を帯びて喉に冷たいのには瞠目してしまう。
「余の招涼玉は夏には冷気を、冬には暖気を呼ぶ。 苦楽を共にするそなた達と年に一度は分かち合いたい。」
そうして昨年夏の水難のことを思いつくままにそれぞれが話し、おおいに笑い懐かしみ、懐旧のひとときを過ごしたのだった。

この小宴はその後も続き、今年で十五回目を迎える。
「あれから十五年とは、我らも歳をとったものだ! いや、昭王にはお変わりなく若々しくて羨ましゅうござる。」
「十五年も変わらぬというのはおかしかろうぞ。 昔ほど軽はずみではなくなったはずだが。」
「そう仰せられますが、もし再びの水難あらば、またお一人で天勝宮を抜け出されるのではありますまいか?」
「う〜む、それを言われると………」
「どうです?」
「抜け出す自信がある!」
「それ見たことか! なにもお変わりになってはおられぬ!」
アルデバランが大笑し、一同は腹を抱えて笑うのだ。 そんなふうに場がくだけていても、カミュ殿のことを瑞雪殿と呼ぶのはみな忘れない。 あの水難のあと燕を去られた国父とも仰がれるカミュ殿に瑞雪と贈り名をされた昭王の意は遵守されねばならぬのだから。かく言う自分は心の中ではカミュ殿という名を忘れたことはなく、思い出すときもその名が自然と出てくるのは否めない。 あの豪雨の中をともに駆け抜けて苦難を乗り越えながら過ごした日々に幾度となく呼んだ名前をどうして忘れることがあるだろう。
もっとも昭王の前ではその贈り名さえほとんど出されることはない。 十年ほど前の招涼の宴でアルデバランが瑞雪殿の御名を口に出したとき、昭王はひそかに涙ぐまれたように拝察されたのだ。 昭王の後ろに侍していた貴鬼がそれに気付いて取り乱し、はっとしたムウが急いで話題を変えてアルデバランも追随し、その場をおさめたことがある。 そのことがあって以来、だれも瑞雪殿の御名を出すことはない。 ただ、水難のことを話していれば誰の頭にもカミュ殿のことが懐かしく思い出されるのは当然ということだ。 川の水を凍らせたことや大沽の丘に雪を降らせたことをどうして忘れることが出来ようか。

今年の招涼の宴もついにお開きとなり、招涼玉を丁寧に懐に収めた昭王が我らを見送ろうと席を立った。
「我ら臣下にそのようなことをなさらずとも。」
「かまわぬ。 別れるまでは無礼講は続けるものぞ。」
止めようとするムウもそれを断る昭王も酔い心地で足元もやや覚束ないようだが、あれほどに心遊ばせて飲めば当然だろうと思う。 笑いながら部屋を出て回廊に向かうと、おりからの雲が望月にかかり外は闇夜に等しいのだ。 足元を照らす篝火は用意されているものの、燃え上がる火の色の届かないあたりは漆黒の闇に沈んでいる。 夏虫の声が降るように聞こえるのが美しさを通り越してにぎやかで、ねっとりと纏い付くような暑さが夏の盛りであることを思い出させた。
「ほぅ、外はこれか! わかってはいるものの、どうにも敵わぬな。」
「秋を待つが良い。 観月の宴で飲もう。」
「それは楽しみなこと。 月の光に詩の一つも詠みましょう。」
貴鬼に先導されたムウと昭王が先に立ち、私とアルデバランが続いてそれぞれが冷涼な秋の夜のことを考えていたときにそれは起こった。
不意に闇から姿を現した丈高い男が庭で篝火を掲げていた下人を斬り捨てざま回廊に躍り上がると昭王に斬りかかったのだ。 転瞬 身を引いた昭王と男との間に割って入ったムウが腰の小剣を引き抜き、振り下ろされた蛮刀をすんでのところで受け止めて闇に火花が散った。 ものも言わずにずいっと近寄ったアルデバランが抜く手も見せずに男の胸を刺し貫く。 呻きを上げて男が倒れ伏してほっとしたのもつかの間、あらたに三人の男が闇からぬっと姿を現したのだ。
「警護の者はなにをしているっっ!」
歯噛みをしたアルデバランが剣を取り直し、唸り声を上げながら二人を相手にすれば、倒れている男の握っていた蛮刀を奪ったムウが向ってきた男に対峙する。 できることならその隙に昭王を安全な場所にお連れしたかったが、篝火が地面に落ちて燃えているだけでは周囲の闇からなにが現われるか知れたものではなく、この場を離れるのはかえって危険なのだ。 無腰の昭王は眉を上げ回廊の柱を背にして立ち微動だにせぬ。 その前で剣を抜き身構える背を冷たい汗が流れる。 魔鈴を連れてきていれば、と一瞬心に浮かびはしたが、去年の秋に看取ったものがここにいよう筈もなく、もう一頭の獅子も今宵は内輪の宴だからと部屋に残してきているのだ。
そのときムウが動いた。 相手にわざと隙を見せるように左足をすっと引き、それに誘われるようにして剣先をピクリと泳がせた相手が斬りかかってくるのを、持ち上げるのも容易でなさそうな蛮刀を一閃してあっさりと払いのけたかと思った刹那、 頭から胸まで一刀のもとに断ち割ったのだ。 断末魔の悲鳴を上げることもなく血煙を上げくず折れた男には見向きもせずに剣の血を振るったムウがアルデバランに加勢する。 目の前の戦いに剣を構えながら見守っているうちに、鋭く踏み込んだアルデバランが敵の胴を横ざまに薙ぎ払い、ほとんど身二つになった男がどうと倒れた。 残る一人が臆した色を見せ、ムウが冷たい笑みを含んで抜き身を構えなおしたとき、闇から飛んで来た矢が私の右肩に深々と突き立った。
「アイオリア様っ!」
貴鬼が叫ぶ。 思わぬ激痛によろめいて不覚にも膝をついた私を振り返ったムウが 、
「二の矢が来るぞっ!」
と叫んだとたん一同の耳に風を切る矢の音が聞こえ心臓が凍る。 昭王に駆け寄ろうとするアルデバランが背後から襲い掛かる男を振り向きざまに突き刺したときにはムウが昭王に向って飛来した矢を見事に切り落としていた。 そのときさらに放たれた矢が一直線に昭王に向ってきたのだ。 アルデバランもムウも咄嗟に体勢を立て直すことが出来ず、もうだめだと思ったその瞬間、昭王の回りが白く輝き、明るい金色の炎のような物が見えたかと思うと飛んで来た矢が昭王の三尺ほど手前ではね返されたのだ。 一同が声も出せずに瞠目する中でその金色の炎の中から人影のようなものが浮かび上がり、矢の飛来した方向にすっと腕をのばしたかと思うと一条の光が放たれた。 遠くの方で低い叫び声が上がり、それきり静寂が訪れた。 その人影が昭王に向き直り拝礼をするかのようにしなやかに頭を下げ、やがて消えてゆくのを私たちは茫然として見つめていた。 目を見開いて立ち尽くす昭王の懐が闇の中でしばらくはやわらかい金の光を発していたがやがてそれも消え、気が付いたときにはあたりには変わらず虫の声が響いている。 矢が突き立ったままの肩の痛みが急に襲ってきた。

「昭王様がお戻りになられます。」
貴鬼の声にはっとして我に返ったときは異変を聞きつけた者たちが大勢駆けつけてくるところで、血に穢れた我々が付き従うことは控えねばならなかった。
「ムウもアルデバランもよくしてくれた。 アイオリアは怪我の養生をせよ。」
短く言った昭王が今度は厳重な人垣に囲まれて紅綾殿に帰ってゆき、その頃になってわらわらと駆けつけてきた近衛兵が血の匂いの立ち込める中で賊の死骸を取り片付け始める。 アルデバランにもたらされた報告によると警護の兵はみな殺められていたということで、それも襲ってきた賊がしてのけたものらしかった。
「おのれ! 腕が立つ奴らだ!」
アルデバランが吐き捨てるように言う。
「よくご無事だったものです。我らも心してお守りせねばなりません。 それにしても…」
言葉を切ったムウが言いよどむ。 肩の傷の手当をするためにみなで獅藝舎に向う道すがら、思うことは同じなのだった。
もはやあたりには誰もいないが、触れるべきかどうか迷うのは私にもよくわかる。 アルデバランが言葉を継いだ。
「あれは………やはり瑞雪殿であろうよ。 どれだけ離れておいででも、どれだけ時が経とうとも、昭王の御身を守ろうとして招涼玉に魂を宿しておられるのだろう。」
私もこの機会にひそかに思っていたことを言わずにはいられない。
「おそらく燕を去るときに昭王にあの玉を形見に渡されたのだ。 それなら、涼気を呼ぶのもよくわかる。 瑞雪殿だからこそできる技だ。」
「しかし、このことは内密に。 貴鬼も誰にも言わぬでしょうし、我々も昭王から話があればともかく、一切を胸におさめておくのが良いかと思います。」
ムウの言葉に頷いたとき、思い出したように肩の傷が痛んだ。

招涼玉は昭王に涼を贈りその身を守る。
今はもう遠い国の人となったカミュ殿の心そのものなのだった。





               
               50000ヒットのキリリクは、ようこさんからいただきました。

               「 行行重行行 」 とは、漢詩の冒頭部分です

                
行行重行行             行き行きて重ねて行き行く
                與君生別離             君と生きながら別離す
                相去萬余里             相去ること万余里
                各在天一涯             各々天の一涯に在り
                道路阻且長             道路阻しく且つ長し
                會面安可知             会面安くんぞ知るべき
                胡馬依北風             胡馬は北風により
                越鳥巣南枝             越鳥は南枝に巣くう

                あなたは旅路を重ねてどんどん離れていってしまい、
                ついには生き別れになってしまいました。
                お互いに何万里も遠く離れ、これでは天の両側に別れて暮らすようなものです。
                道は険しく長く、いったいいつ会えるというのでしょうか。
                胡の馬は故郷を懐かしんで北風に向っていななき、
                越の鳥はふるさとを思って南側の枝に巣をかけるというのに、
                あなたは今どうしているのでしょう。



                そしてリクエストは、別れてすぐではなく、十数年もたったときの心情を、というもの。
                まあ! すると昭王様は三十猶余歳であられることに!

                十年前の宴で昭王が涙ぐんだのは、そのすぐ前の五月に貴鬼にことづけて櫛を渡していたからなのでした。
                老婆心ながら一応説明を。

                招涼伝は本文ではあまり事細かな説明はしていません。
                とくに昭王の心情を地の文で語ることは滅多にないのです。
                読み手の類推に任せる部分が多いので、そこもお楽しみいただけるとよろしいのですが。

                では、ようこさん、思いの深いリクエストをどうもありがとうございました。
                昭王様になりかわり 篤くお礼申しあげます。

                       ※ 「 文選 」 ( もんぜん ) ⇒ こちら