「 狩 り 」


ようやく腕の傷も癒えてきたシュラとの日課の散策を終えてから魔鈴を連れて厩舎まで来ると、すでにカミュ殿と貴鬼が待っている。
「これは、お待たせしました。」
「いや、私たちもいま着いたばかりゆえ。」
厩舎に並ぶ馬の鼻づらを撫でていたカミュ殿は相変わらずの端麗さで、その異国の美には舌を巻かずにいられない。 昭王の内命で側仕えとなっている貴鬼はそのことがよっぽど嬉しいらしく、なにかといえばすぐにカミュ殿の自慢にかかるのがなんともいえず面白いのだ。

つい先日も、
「アイオリア様、この天勝宮で一番お美しいのはどなただと思います?」
と真顔で聞いてきたので、少し考えて、
「それは太后様であろうよ。」
と答えると、
「それは当たり前ですが、ここだけの話、お若い方の中でお考えください。」
とにこにこして言うのだ。
「う〜ん、とすると春麗殿かな?」
と言ってから急いで付け加えた。
「 しかし、宮女はみな美しいので決めかねる。」
万が一、この話がよそに漏れるとあとで面倒なことになるので答えを紛らわせることにした。 事実、宮女は容姿端麗な者が多すぎて、とてもではないが一の人を決めることなど無理なのだから。
「いいえ、春麗様ではありません。」
「ほぅ、自信があるのだな、するとどなただ?」
「ふふふ、それはカミュ様です!」
「……えっ? しかし、カミュ殿は女ではあられないし…」
「でも、女の方の中で、とは言っていませんよ、天勝宮で、と言いましたからね♪」
胸を張って言う貴鬼はいかにも得意そうで、そう言われてみればそんな気もしてくるというものだ。
何しろカミュ殿は肌が白い。 これはどの宮女もかなわぬことで、カミュ殿がひそかに宮女たちの羨望と嫉妬の対象になっていることは天勝宮では誰でも知っていることだ。
白いだけならこれまでにも何人もの異国人が滞在していたことがあるのでそれほど驚きはしないのだが、それとは別に、カミュ殿の長い髪が宮女たちを圧倒したらしい。 燕では誰もが髪を結う。 髪を伸ばしたままでいるのはごく幼い子供だけで、いかに髪の美しい宮女といえども工夫を凝らして高々と結い上げて珊瑚や翡翠などの技巧を尽くした髪飾りをたくさん差しているものだ。しかし、 これまではてんでに贅を尽くした髪飾りの自慢をし合って、我こそは、と悦に入っていたのが、ひとたびカミュ殿が天勝宮に現れると、これはどうだ。
なんの手も加えずにただ長く伸ばしているだけの黒髪の美しさが並みいる宮女を驚かせ、そんな美しい髪を見たことがなかった我ら男の方でもひそかに袖を引き合って  「女よりも美しいのではないか?」 と囁き合ったものだ。
そして吸い込まれるような蒼い目も美しい。 今までにも何人か青い目の異人が来たことはあるが、カミュ殿ほど澄んで清らかな色を見たのは初めてだ。 どんな碧玉よりも美しく、あんな目で見つめられようものなら心の臓が高鳴ってきてしまいには止まってしまうのではないかと恐ろしくなる。
むろん、こんなことは外聞をはばかるので誰も表立っては言いはしない。 そんな噂が聞こえればカミュ殿は不快に思われるだろうし、天勝宮中の宮女の怒りを買ってしまうに違いない。 そしてここが大事だが、賓客に対する口さがない噂話をことのほかお好みでない昭王が眉をひそめるのは確実なのだ。
そこで、絶対に信頼のおける者としか、この手の話題は出ない。

「いやはや、今日は驚いた!」
「それはカミュ殿のことですか?」
「むろんだ、ここだけの話だが、どの女よりも美しいのではないか?」
「私もそう思います。 髪も目も肌も顔立ちも、飛びぬけた美質をお持ちでしたね。」
そう言って杯を空けるムウも相当に端整な顔立ちで、宮女たちにも評判が高いのは誰でも知っていることだ。
「それに見かけだけではないぞ。 知識も豊かで、やや妙な発音だが燕の言葉も話せる。我らが 一番気がかりな秦の動静にも詳しく、今日聞いた話がどれほど燕に役立つことか!」
聞けば、秦王にも直接会って話をしたというではないか。 これにはその場にいた者は一様に驚き、昭王もおおいに興味を示したのだった。 以前、燕から使者が赴いたときは遥か離れた位置で遥拝し、頭を下げたままでゆるゆると前へ進むとわずかに顔を上げただけで口上を述べさせられただけだったのだ。 使者は秦王の顔も見てはいない。 その後、この扱いについては燕でもかなり紛糾したものだ。
「昭王が滞在を勧めたのももっともです。 得がたい人材ですし、できるものならこの先も燕にいて欲しいものですが……」
「残念だがそれは叶うまい。」
「ええ、我々の誰一人として行ったことのない西比利亜まで行くというのですから、よほどの決意なのでしょう。 しかし、せめてひと月でもいてくれれば昭王の気持ちも晴れるやも知れません。」
「うむ、そうだな………」
ムウの言うのは、むろんあのデスマスクの誅殺のことだ。 信頼していたデスマスクにそむかれて、ついにはその凄惨な死を知らされた昭王の慨嘆することは一通りでなく、表には出さなかったものの、その衝撃の大きさは察するに余りある。
「カミュ殿は燕には一切の関係を持たない方です。 デスマスクの存在も知らなければ、その死に伴ってますます顕在化してきた昭王の継嗣及び婚儀の問題もご存じない。 とすれば、それを思わせる我々や宰相の顔ばかり見ているよりはどれほど心休まることか。」
「すると、あとは魔鈴だな。」
「……え?」
「魔鈴も面倒なことはなにも知らないから、宸襟を悩ませることはないだろうよ。 昭王も魔鈴を撫でていれば気が休まろうというものだ。」
「右手にカミュ殿、左手に魔鈴ですか? それはある意味、最強ですね。」
「ただ魔鈴と違って、カミュ殿を撫でるわけにはいかんということだ。」
笑い合って酒を酌み交したのだった。


厩舎にはすでに野駆けのことが伝えてあるので、三頭の馬が引き出されて鞍もつけられている。 昭王とカミュ殿の鞍はお揃いの青貝の螺鈿で、日の光を浴びてきららに輝いている。 貴鬼はこの鞍を見るのが大好きで、今日もうっとりと眺めているのが可愛いものだ。
「貴鬼はそんなにこの鞍が好きか?」
「はいっ、見ているだけでも嬉しくて!」
「昭王のお気に入りになれば、そなたもいつかは乗れるかも知れぬぞ。」
「滅相もない! 私はカミュ様がお乗りになるのを拝見しているだけで十分満足です!」
厩舎の役人にでもなればともかく、今の貴鬼の身分ではこの鞍にさわることは有り得ない。 太后が昭王の二十歳の賀の際に贈ったこの鞍は、いずれ天勝宮の至宝と呼びならわされるのにふさわしい逸品なのだった。
「待たせた。」
そこへ侍僕を引き連れた昭王が姿を見せ、一同は礼をする。
「貴鬼は留守番をしておれ。 土産には何がよい?」
「では、雉を! なるべく大きい雉を!」
身軽く馬に乗った昭王に声を掛けられた貴鬼がにこにこしながら答える。
「さて、雉に会えるとよいのだが。」
「雉が留守なら鹿でもかまいません。」
「鹿か? 鹿は雉よりももっと留守がちだ。では、アイオリア、心して雉を探すとしようか。」
「御意に。 カミュ殿にも、なにぶんよろしく!」
「心得た!」
こうして貴鬼に深々と頭を下げられた我々は天勝宮を出て広野に向う。 いつも通り、遥か離れた後ろから近衛の騎馬が二十騎ついて来る。 その中ほどを魔鈴が走っているので、この距離は保たれたままなのだ。

いつもの広野に着くと、狩りの準備にかかる。 足元を細い革紐で巻き締めて、繁みの中に入ったときでも動きやすくしておかないといざというときに遅れを取ってしまうのだ。袖にも襷 ( たすき ) をかけておく。 昭王と私は弓弦を何度も引いて張りを試し、右腰に結びつけた箙 ( えびら ) に矢が二十四本入っているのも確かめる。 カミュ殿は弓を使わないので、いつも通りに剣 ( つるぎ )すら持たない 無腰のままである。
近衛の兵を鶴翼にして一斉に広野の中央から進ませるとやがて狙い通りに五、六羽の雉が林に向って飛び立った。 そこからは近衛に代わって三頭で雉を狙って一散に駆けてゆく。昭王と私は雉に狙いをつけ、弓を持たないカミュ殿は側面から雉をうまく追い立ててて我らが矢を射やすいようにしてくれるのはまことに馴れたものなのだ。すぐに昭王が一羽の雌を射抜き、それを見届けた兵が数騎駆け寄り獲物を拾い上げた。
「あとは林に入る!」
素早く馬から降りた昭王に続きカミュ殿と私が下馬し、空馬は兵が連れて戻っていった。
「昭王、思いのほか地面が湿っております。 足もとにお気を付けを!」
「うむ、一昨日の雨の名残りか。 カミュも注意せよ!」
「御意!」
雉を驚かさぬよう小さく声を掛け合いながら進むと前方の繁みにそれらしい影が動くのが見えた。 手真似で示すと、昭王がまわりの枝を避けながら静かに大弓を引き絞る。 それに合わせて右後方から半弓を構えていると、頃合よしと見てとった昭王がひゅんっと矢を放ち、たしかな手ごたえがあった。 笑みを浮かべた昭王が木陰から出て数歩あゆんだときだ。 突然 右手前方の藪から飛び出してきた牡鹿が昭王めがけて突っこんできたではないか!
咄嗟に矢をつがえようとした昭王だが、左に弓を構えるのは瞬時でも右から来るものには数瞬の遅れがあるのは否めない。 その焦りのせいか、やや下り坂になっていた地面に足を滑らせ矢をつがえながら体が大きく傾いた。
「昭王っ…!!」
血も凍る思いで半弓を大きく引き絞り矢を放つと、首筋に当たったものの鹿の勢いは止まらない。 総身から血の気が引いたとき、 さっきまでは左手の少し離れたところにいたはずのカミュ殿が突然 昭王のすぐ右に現れて、今まさに鹿の角が昭王の身体を裂こうという刹那、手をかざして鹿をはじき飛ばしたのだ。

   えっ?! 今、なにを?

思わず二の矢をつがえる手を止めたとき、驚愕の表情を浮かべたままの昭王がそのまま竹笹の生えた斜面に倒れこんでゆき、こんどは玉体に傷がつくことを予感してぞっとした。
「あっ!」
我が目を疑うではないか! 左側に倒れていった昭王の身体は直前に手から離したはずの大弓の弦一本であやうく支えられ、こちら側から弓の両端を両手で持って均衡を保っているのはカミュ殿なのだ。 なぜそんなことができたのか、あまりに一瞬の出来事で何がなんだかわからない。 
瞠目していると、さすがに抱きかかえることはできないのを知っていたのか、そのままそっと地面に横たえてくれたのには冷や汗をぬぐわずにはいられない。 慌てて駆け寄り、といっても倒れた昭王に触れることはできぬので声を殺して呼びかけると、ほっとしたことにすぐに目を開けてやはり茫然としているのは私と同様なのだ。 
「いったい………何が?」
鹿はといえば、かなり離れた木の幹に身体を打ち付けてびくりとも動かない。
どきどきする胸を抑えながら半弓を差し出すと、手を伸ばして半弓を掴み、ぐっと力を入れた昭王がすぐに立ち上がり心の底から安堵した。
「お怪我はありませぬか! 御無事で?!」
「案ずるな、どうやら傷一つない。 といっても、案じられるようなことをしたのはこちらだ、済まぬことをした。 許せよ。」
狩りのときは無礼講と決まっているのでこのようなことを言われるが、昭王を危うくしたのはやはり私なのだ。 面目なくて身もすくむ思いがする。
「カミュ、今 何をしたのだ?」
向き直った昭王がすぐさま問うのももっともだ。
離れたところにいたカミュ殿が一瞬で昭王の横に立ち、たぶん鹿を払いのけたように見えたのは事実だし、そのすぐあとに倒れてゆく昭王を弓で支えることができたというのはどういうことだ?
「昭王をお助け参らせました。」
「いや、それはわかっているのだが、つまり、知りたいのは、どうやってあのようなことができたかということだ。」
「それは………」
昭王と私に見つめられたカミュが困ったように唇を噛む。 

   もしかすると………カミュ殿は天帝からの使いで、
   人には見せてはならぬ神通力をうっかり使ってしまい、そのことが露見するのを恐れているとか?
   それとも蓬莱に住むという神仙か?
   ほかに考えようがあるだろうか?

同じようなことを考えているに違いない昭王と顔を見合わせていると、
「なぜあのようなことができたかを話すためには、とても言葉が足りなくて。」
とカミュ殿が言う。
言葉が足りないとはどういうことだろう? やはり神仙か?
仙界での言葉は人間界とは違うのかも知れず、それはなんともわからないことなのだ。
「カミュは、もしや神仙か?」
考えていると、ついに昭王が問うた。
「神仙…とは?」
「神仙とは深山幽谷に住み、雲や霞を食べて生きるという。 不老長寿で、人にはとうてい手に入れることのできぬ神通力を使い雲や霧に乗ることができるのだ。 神仏とも交友がある。」
「………え?」
ますますわからなくなったらしいカミュ殿が首をかしげてしまい、それ以上の説明をあきらめたらしい昭王が苦笑してこの話にけりをつけた。
「まあよい。 大事なのはカミュに命を救われたということだ。 公にはできぬが、このことは忘れぬ。 命の恩人ぞ!」
それならわかるとばかりに頬を染めたカミュ殿が拝礼をした。
「さて、そろそろ戻りましょう。 偶然ですが貴鬼の望み通りの大きい鹿も持って帰れます。」
笑いながら例の鹿に近付いてみて驚いた。
「昭王! 鹿が凍っております!」
「なにっ?!」
打ち倒れている鹿は確かに硬く凍っていて、毛先の一本一本までが針のように冷たく硬い。 白く霜を呼んでいる鼻先に触れると、こちらの指を通して肘の上まで冷たさが這い登ってきて慌てて手を引いたほどなのだ。
やはり額に触れてみた昭王も同じことを感じたらしく二人して同時に振り向くと、
「そのほうが確実なので。 しかし、もう必要はないでしょう。」
寄ってきたカミュ殿がすいと手をかざしたと見る間に鹿は普通の鹿になり、なにも変わったことは見られない。
「あ………」
やはり神仙なのだと思う。 もはや理由を聞くこともない。
今日のこのときに昭王が鹿に襲われる運命にあるのを良しとしなかった天帝が、カミュ殿を前もってつかわされたのではあるまいか。 美しいだけの異国人ではないのだった。
納得しながら鹿を肩に担ぎ上げると、木にぶつかったときに背骨が折れたらしいが首筋に刺さった矢はそのままで一滴の血も流れてはいない。枝分かれした角はたいそう立派で、もしこれに昭王が突かれていたらと思い、今さらながらカミュ殿に感謝せずにはいられない。
「それから、」
「は?」
「このことは他言無用ぞ。」
「心得ました。」
歩き始めたときに昭王に念を押された。 他言無用という言葉がわからなかったらしいカミュに説明しながら来た道を戻り、夏の日差しのこぼれる林を抜けてゆく。
さもありなん、この不始末が知れようものなら、宰相はじめ重臣が狩りの中止を言い立てて、昭王の数少ない楽しみが減らされるのは目に見えている。 下手をすれば、やはり危険だからと野駆けや剣の鍛錬まで止められかねぬのだ。 一人の王位継承者もいない現況では宰相の心配もわからないではないのだが、そんなことに従っていては昭王の鬱屈した思いが嵩じるばかりである。 ともかく我らが昭王を守り抜かねばならないのは言うまでもない。
「ですが、今後は、雨のあと五日は狩りはお止めくださいますよう。」
「………あいわかった。」
待っていた兵たちが大きい鹿を見てどっと歓声を上げた。
「待たせた。 帰還する。」
昭王の一声で一同は馬を天勝宮へと走らせる。 目の前をゆくカミュ殿の髪が風になびいてたいそう美しかった。