「 雷 鳴 」


   ………確かに不穏な動きはあった

暗い回廊を辿りながらそう考えているシュラの姿が一瞬の雷鳴に照らされた。 腰に一振りの剣を帯びた丈高い影が回廊の壁を長く這う。
春まだ浅い天勝宮の眠りは深く、一見したところ動いているものはほかに誰もおらぬようだが、シュラの鋭敏な神経は先を行く者の気配を捉えている。
足音を忍ばせ回廊の角を曲がったとき、梅の古木の放つ香気がシュラの気を今日の宴に引き戻した。

梅は長寿と家運の隆盛をもたらすとして古来から愛でられており、薊の街中でもその数は多い。
天勝宮の梅園にも名木は多く、花を好む太后が毎年ひらく梅の賀宴は新年の賀に続く華やかな催しとして宮女たちのみならずこの都に住まう者の等しく楽しみとするところであった。
賀宴の前日には、臣民の誰でも宮門を通り梅園に入ることが許される。 上下のへだてなく梅の香を楽しみ一杯の茶にあずかることができ、詩のひとつも詠もうものなら昭王の名のもとに盃一つの酒を振舞われるのであるからそのにぎやかさはたいそうなもので、薊の人々が太后をたたえ昭王を敬うことは限りないのであった。
その翌日、すなわち今日の昼過ぎからは玲霄殿で梅の賀宴が開かれ、舞の上手なものは舞い、詩を読むものはこの日のために練り上げておいた自慢の詩を朗詠し、皆それぞれに歓を尽くし存分に早春の午後を楽しんだものである。 宴の終わりには太后から宮女たちに梅の練香が、そして主だった廷臣には昭王から紅梅紋の絹一反がくだされものとして披露され 「 祥瑞 」 を唱和する声が玲霄殿を揺るがしたのであった。
昭王もいたく機嫌がよく、ムウやアイオリアと歓談し、また、微醺を帯びて太后に詩を朗じるさまはいかにも仲睦まじく、これからの燕の隆盛を思わせたものである。

頭の隅をよぎったそんな情景をふり払い唇を引き締めたシュラがたどり着いたのは、人気のない武徳殿の一室である。 気配を殺して聞き耳を立てると遠雷の音に混じって低い話し声が聞こえてくる。
「………ともかくこれ以上は待てぬ。 今までのような失敗は許さぬと心得よ。」
「そうは申されましても、警護は一段と厳しさを増し、つけ入る隙がなかなか見い出せませぬ。」
「そんなことを言っていては、いつなんどき婚儀の話が出てくるかわからぬ情勢だ。 継嗣など生まれられてはことが面倒になるのは火を見るより明らかなのだ。 もはや一刻の猶予もならぬ!」
興奮を抑えようとしたのか声がやみ、シュラはいっそう耳を澄ませた。握りしめた剣の柄が汗で濡れているのがわかる。
「機会は俺が作る。 あと一月のうちに昭王を討て!」
闇の中に沈黙がおり、耐え切れぬほどの緊張を孕んだ空気が限界まで膨らんだときシュラの心は決まったのだ。
「逆賊! 成敗してくれるっっ!!」
剣を手に室内に飛び込んだシュラを振り返った男がまなじりを裂かんばかりに驚愕の表情を浮かべた。
「シュラ! 貴様っ!!」
その男、デスマスクは先々代の燕王の外孫にあたり、王位継承権は二位ではあるものの、いずれ継嗣をもうけるに違いない若き昭王に人々の期待がかけられている現状ではさして日の当たらぬ存在であった。 二位とはいえ昭王の確固たる位置との隔たりは大きく、その狷介孤高な性格も災いして燕の人心は昭王に集まる一方で、デスマスクの鬱屈した心は日を追って歪みを増していたのである。
「我が乳兄弟とはいえ、王位簒奪を図るとは天をも恐れぬ非道な振る舞いぞ! 天に替わってこのシュラが成敗してくれるっ!!」
「黙れっ、聞かれたからには生かしておけぬ!!かまわぬ、シュラを討てっっ!!」
デスマスクと密談していたのはシュラとも顔見知りで、長年の間 ともにデスマスクを守り、盛り立ててきた男であったがこうなってはいたし方もない。 瞬時の迷いはあったのかもしれぬが、すぐさま剣を抜き放ち切り掛かってきた。
昼間でも暗い武徳殿の中とて、夜更けの今は足元もよくは見えぬ。 シュラは天勝宮でもそれと知られた遣い手だがやはり暗がりは得手ではない。 相手の刃筋を避けつつ身を引いて回廊に馳せ戻ると逃すまいと追って来た男と激しく切り結ぶ。 鋭い刃風が耳元で唸り、一度などはシュラの肩口を皮膚すれすれに切り裂いて思わずひやっとしたものだが、相手がシュラと拮抗していたのもそこまでだった。 とうてい、宮でも一、二を争う剣名を誇るシュラの敵ではなく、男の目に臆した色が走った。 回廊に月はささぬとはいえ相手の表情は手に取るようにわかるのだ。 シュラほどには腕の立たぬ相手は見る間に劣勢となり壁に追い詰められた。
「許せ!」
シュラがとどめを刺そうとした刹那、後ろから物も言わずに切り掛かってきたデスマスクの剣がシュラの背を浅く切り裂き、転瞬身を返したシュラが今度は二人を相手にすることとなる。 ここでとどめを、と思ったデスマスクに違いあるまいが、実戦はそんなにうまくいくものではない。 初めてともに剣を抜いた二人では連携に甘さが残り、それを見逃さなかったシュラの一太刀がじきに朋友の胸を刺し貫いた。
一抹の後悔を胸にデスマスクに相対したシュラの胸に幼いころからのデスマスクが浮かんだのもほんのわずかの間で、
「御覚悟めされよ!」
低く言ってのけると、血糊のついた剣をかつての主に向ける。 ぎりぎりと唇を噛んだデスマスクが右上から払うと見せかけてすかさず下から切り上げるのを、すっと左足 ( さそく ) を引いたシュラが軽くかわして左から払う。 それを受け切れなかったデスマスクが剣を取り落とし、たたらを踏んでよろめいた。
今だ、と真っ向から切り下ろしたとき、なんとデスマスクが腰から短剣を引き抜いてシュラの脇腹を突いたではなかったか。
思わぬ激痛に手元が狂いシュラの剣が空を切り裂いた瞬間、剣を拾い上げたデスマスクがその右手を肘から切り飛ばした。 血しぶきが走り血の匂いが立ち込める。
「死ねっっ!!」
目を血走らせたデスマスクがもう一度剣を振りかぶろうとしたそのときだ、凄まじい稲光があたりを真昼の如くに照らし出し、もはやこれまで、と思ったシュラの目に、剣を握ったまま血の海の中にあったおのれの腕を見せてくれたではなかったか。
痛みも忘れて残された左手で我が手から愛剣をもぎ取ったシュラが一瞬早くデスマスクの首筋を切り払った。 宙をとんだ血しぶきが回廊の壁に紅の花を点々と咲かせ、その一部が回廊近くにあった梅の古木の根元にまで痕を残しているのが見つかったのは翌朝のことだ。
ほとんど首を切り離されたデスマスクの身体はどうとその場に倒れ、びくりとも動かない。 デスマスクとおのれの血潮の中に倒れ伏したシュラも轟く雷鳴の中ですぐに意識を失っていった。


この惨状を最初に見つけたのはムウである。
あとから考えれば、生来の勘が、季節はずれの遠雷に冴えきっていた神経に何かを告げたとしか思われぬ。 胸騒ぎを抑えきれずにいたところへ大音響で雷が響き天勝宮の甍を震わせた。 ついに起き上がって予感に導かれるままに武徳殿まで来てみれば、これはなんとしたことか。血の海の中にこと切れているのはデスマスクで、側には虫の息のシュラを見い出すことになったのだ。
幸いアイオリアの眠る獅藝舎 ( しげいしゃ ) はここからほど近い。 おのれの衣服を裂いてシュラに急遽血止めを施すと、急ぎとって返して驚く侍僕を制して自らアイオリアを起こし手早く事情を話す。
事の次第に驚いたアイオリアもすぐに信頼の置ける侍僕を数人連れて現場に戻り、おびただしい血に畏怖する侍僕を叱咤しながら何とかその場を取り片付けさせたのだ。 その間ムウは眉一つ動かさず的確な指示でデスマスクの遺骸を運び出させ、シュラを戸板に乗せて獅藝舎に運び込ませると、心きいた者に昭王付きの侍医を叩き起こさせ密かに獅藝舎に連れてこさせたものである。
「よい。 昭王には私から御説明申し上げる。 この者を死なせてはならぬ。」
本来であれば昭王のみを拝診するはずの侍医ではあるが、ムウの威厳と目の前の怪我人を見て手をこまねいているはずもない。 さっそくに治療にかかり、シュラはかろうじてその命を取り留めたのである。
この事件は闇から闇に葬られ、やがて、急病によるデスマスクの逝去が伝えられると、表向きは誰も怪しむことはなくすべてが終わった。
シュラは獅藝舎の一部屋にそのまま傷ついた身を横たえ、長い苦痛と後悔に耐える日々を送ることになったのだ。

「シュラはなんと言っています?」
「ほとんど口をきかずに天井を見ているが、この頃はようやく薄く笑うこともある。 なんといっても生まれたときからともに育ち、守ってきた主を誅したのだ。 傷は深かろう。」
「身体の傷も心の傷もいつか癒える日が来ます。 昭王もその日を心待ちにしておられます。」
アイオリアが頷いたときムウの侍僕がやってきて何事か奏した。
「ほぅ、それはそれは! 」
ムウが興味深そうに目を輝かせる。
「珍しい客人が来たので、私にも会って欲しいのだそうですよ。 なにか面白い話が聞けるとよいのですが。」
部屋を出がけにムウが振り向いた。
「目の青い異人だそうです、話の内容によっては昭王をお誘いするやもしれませんね。そのときには貴方もどうぞ。」
心の奥に、血縁だったデスマスクの反逆が暗い影を落としているであろう昭王に少しでも明るい光が差すように、と思う心は誰もみな同じなのだ。
寄ってきた魔鈴の頭をなぜながら、よき客人であるように、とアイオリアは祈っていた。