「 桃 夭 」 ( とうよう )
薊 ( けい ) の秋は公孫樹の黄金色がことに美しく、大きく育った雌木の下では竿で叩き落した銀杏を竹籠に拾う人の姿を見かけるのが毎年のことだ。
ムウの屋敷は天勝宮の宮門を出てすぐ右にあり、月に一度は許しをもらって宿下がりしている貴鬼が金色の葉を踏みながら久しぶりに帰ってみると、秋口からおなかの大きかった犬が三匹の仔犬を産んでいた。
あまりの可愛さにそばを離れず世話しているところに独りでやって来たのはアイオリアである。
「貴鬼も居たか。 ムウ殿は在宅か?」
「これはアイオリア様、ようこそおいでなされました。 はい、ムウ様はさきほど天勝宮からお帰りになっておられます。」
貴鬼が奥にムウを呼びにいってしまうと新しい遊び相手を見つけた仔犬がさっそくアイオリアにじゃれかかる。
魔鈴をつれてこなかったところを見ると、アイオリアは最初からこの仔犬と遊ぶつもりであったのかもしれない。 寝転んで甘える仔犬のぷっくりとした腹をくすぐって喜ばせているとムウがやってきた。
「これはアイオリア殿、ようこそ。 今日はお一人ですか?」
「ここまで来るのに侍僕を引き連れてくるほどのこともない。 もはや子供ではないし、大荷物があるわけでもないからな。」
気軽に言うが、いつも昭王のそば近くで重用されているアイオリアは侍僕を二人連れているべき身分である。
「いつもいつも天勝宮ではさすがに肩が張る。 ここで寛がせてもらえるかな。」
「もちろんですとも。 貴鬼、用意を。 それから、じきにアルデバラン将軍も帰邸されようから使いを遣ってお招きするように。」
「はい、ムウ様。」
こうしたときのアイオリアは暗くなるまでいろいろな話をして過ごす。 まだ昼を過ぎたばかりなので貴鬼が揚げ菓子と茶を持ってきたが、厨房では人数を集めてさっそく夕餉の準備にかかり始めた。
今朝方、都合よく届けられた大きな鴨を料理しようというのだ。
「ときに趙の使者との打ち合わせは今日中に終わりそうでしょうか?」
「さて、大まかな話は決まっているが、細目はこれから詰めねばならぬ。 その一つ一つを昭王が御承諾なされるのが必要ということなので、お気の毒だが明日の野駆けも早朝にしかおできにならぬだろう。」
「それはそれは。 さぞかし退屈なされるでしょうが、ご自分のご婚儀のことですし、ここは我慢をなさるしかありますまい。」
「我等くらいなら簡単に済むのだが、なにしろ燕王であられるのだから、なにからなにまで先例だの格式だの釣り合いだのとご大層なことだ。」
貴鬼を残して人払いをしているので二人の話はざっくばらんに進む。
季節はそろそろ霜が降りようとする晩秋だ。 少し肌寒い風が庭の公孫樹の葉を巻き上げ、ムウが窓を閉めさせた。
「貴鬼、少し早いが酒の用意を。」
心得た貴鬼が下がっていった。
「秦との縁談が立ち消えた代わりに、やはり趙が出てきましたね。」
「我等としても野心満々の秦などより気心の知れた趙の方がどれほど安心かわからぬ。
太后様の母君も趙から嫁されたお方であられたことを思えば以前から浅からぬ縁があるというものだ。」
「ところで、今一つ昭王が気乗り薄のようにも拝察されますが。」
ムウが声をひそめる。
「それは………まだお独りの気楽さをお楽しみなさりたいのであろうが、我等のように自由なご身分ではないのだ。
一刻もはやく御子をもうけていただき、燕の行く末を磐石なものにしていただかぬと我ら一同心配でならぬ。
」
アイオリアがさらに声を落とした。
「なにしろデスマスクの例もあることだ。 かたときも油断はならぬぞ。」
かつてのデスマスクの叛心を忘れることはできないのだ。 あのときシュラの働きがなければ今の燕はなかったかも知れぬと思うと背筋が寒くなる。
「そういえばアイオロス殿が亡くなられたのも今ごろでしたね。」
「ああ、こんな秋の日だった。 まるで昨日のことのようだ。」
それきり口をつぐんで過去の記憶に思いを馳せていると貴鬼が酒盆を捧げてきた。
「ときに、あなたがこのごろアイオロス殿によく似てきたと評判ですよ。先日など太后様と宰相があなたの後ろ姿を見て、まるでアイオロスのような………と仰せでしたし。」
「そんなことが? 自分ではそうは思っていなかったのだが、あの姿絵を見ると、そういえばそうかも知れぬと思うようになってきた。」
この言葉に貴鬼が耳をそばだてた。
「あの……アイオロス様の姿絵があるのですか?」
「あの事件のあと、太后様にはたいそう兄に感謝なされて、いつまでも忘れぬようにとの有り難い思し召しで宮中の絵師に命じられて兄の姿絵を描かせて我が家に下賜なされたのだ。
父も母もたいそう喜び、まるで兄が生きているようだと涙を流してご叡慮を謝したのをよく覚えている。」
「そんなにそっくりに?」
「見たかったら今度遊びに来ると良い。 似ているかどうか、貴鬼にも見比べてもらおうか。」
「はいっ、ぜひ伺います。 宮中の御絵師というと、あのお髭の立派な小柄な方ですか?」
「うむ、その人だ。 よくもあのように似せて描けるものだと感心するよ。」
「お頼みすれば誰の絵姿でも描いていいただけるのでしょうか?」
「さて、それはどうかな? 宮中絵師は太后様や昭王様のご注文を受けてお望み通りの絵を描くために控えているのだからな。
それがどうかしたか?」
貴鬼が答えようとしたとき厨房から最初の料理が届けられてきて急に忙しくなってきた。
ムウとアイオリアも内政のあれこれに話が弾み始め、姿絵のことは忘れてしまったらしい。
おりよくアルデバランがやって来て西方からの葡萄酒を卓上に置いたものだから座はいっそう盛り上がる。
やがて大皿に載った鴨と銀杏の旨煮が届くとますます賑やかになっていった。
何日かあとの午後、貴鬼がやってきたのは天勝宮の北西を巡る回廊に面する小房
( しょうぼう=ちいさい部屋 ) だ。 晩秋の風に吹き寄せられた色とりどりの落葉が回廊のそこここに小さな山を作ってはまた舞い散らされてゆく。
「あのぅ………絵師様はおられますか?」
外の光に慣れた目には建物の中はうっそりとして暗いばかりに見える。 静まり返った部屋を覗き込み遠慮がちに声をかけると、ややあって奥から
「なんじゃな?」
とのんびりした声で返答があった。
「かまわぬよ、入ってきなさい。」
ほっとして足を踏み入れ、二つばかりある部屋を恐る恐る通り抜けても誰もいない。
探しあぐねていると、
「庭じゃよ。」
と声がする。 奥の部屋から外を見ると、咲き残った小菊を眺めている老人がいた。
「はて、これは貴鬼ではないかな。いつも昭王様のおそばで御用をしておるのじゃろ、 このわしになにか用か?」
長い眉に半ば隠れた目が面白そうに貴鬼を見た。
天勝宮に勤める者がそれぞれの役割りを持っている中で、この絵師の仕事ぶりは誰の目にも見えにくい。
ずっと部屋に閉じこもっているので、見かけることも滅多になければ人の噂になることもない。 貴鬼が天勝宮に来てから顔をあわせたことはほんの数回あるだけだ。
皆が忘れていた頃に目立つところに昭王の徳を称え燕の行く末を寿ぐ大きな龍の絵がかかったりすると大勢が寄ってきて口々に褒めそやし感嘆するのだが、それを絵師が直接に聞くこともないのだった。
「それがしには絵を描くことが喜びでござるよ。」 とは絵師の弁だが、それさえも伝わることはないのだった。
そんな風だから初めて会うも同然の貴鬼はどきどきしてしまうのだ。
「あのぅ、今日は絵師様に絵のお願いがあって参りました。」
「すると昭王様からの内々の絵のご依頼かの? 侍童を差し向けられるとはお珍しいのぅ。
おお、そうじゃ、これはいかん! 綸言 ( りんげん=天子の言葉 ) を賜わるならばここではならぬから中へ参ろうか。
礼服にも着替えねばならぬ。」
「いえあのっ、そんな畏れ多いことではありませぬ! 昭王様のお使いで参ったのではなくて…!」
真っ赤になった貴鬼が大慌てで御辞儀を繰り返す。 まさか昭王の使いと間違えられるとは思ってもいなかったのだ。
「あの、今日は絵師様に絵をお描きいただきたくてそのお願いに参りましたが、けっして昭王様のお使いではなくて………」
口ごもってしまった貴鬼を絵師が不思議そうに見る。
「はてのぅ? 太后様のご依頼なれば春麗殿がこられるし、どなたのお使いじゃな?」
「あのぅ………私がお願いしたいのですけれど、だめでしょうか…………」
消え入るような声が絵師を驚かせた。
「ふうむ、そなたがわしにのぅ………」
上から下まで見られた貴鬼は緊張で膝ががくがく震えそうなのを必死でこらえている。
やっぱり絵師様はお偉くていらっしゃる!
絵を頼まれるのは昭王様か太后様しかいらっしゃらないに違いない
自分などがとんでもない身分違いのことを言ってしまってどうしよう………
「天勝宮で童子にものを頼まれたのは初めてじゃ。 いや待てよ? ずいぶん以前にお小さい昭王様が馬の絵をご所望になったことがあったのぅ、どこかで見たことはないか?」
「え? あの………馬の絵でしたら紅綾殿の表の間にかかっておりますが。 三頭の馬が走っていてまるで生きているように見えるあの絵でしょうか?」
「ああ、それじゃよ。 ふむふむ、そうか、昭王様には今もあの絵をお好みであられるか。
ありがたいことじゃ。」
もとは翠宝殿にあったその絵を践祚したあとで紅綾殿に運ばせたのはむろん昭王で、疾走する馬の有様を実に巧みに写し取っている出来栄えにカミュが何度も感心していたのを貴鬼は今でも思い出す。
御寝の間のことは人に洩らすものではないが、表の間は公の場所なのでそこにかかっている絵のことを話してもなにもいけないことはない。
「あれをお見せしたときの昭王様のお喜びというものはじつにもうかたじけなくありがたく、わしも面目を施したものじゃ………いや、それよりわしにいったいなにを描かせたいのじゃな?」
絵師の目がきらりと光る。
「あ、あの………やっぱり、私などがお頼みするのはいけないと思うので………」
「なにも遠慮することはない。 せっかくここまで来たのじゃから、言うだけ言ってみたらどうじゃな。
昭王様にはなにも申しあげぬよ。 それが心配なのじゃろ?」
「では、あの………」
なにからなにまで見抜かれているようで貴鬼はますます上がってしまう。 喉がからからになり、そっと吐いた息さえ震えてしまう。
それでもありったけの勇気をかき集めて言ってみた。
「なにとぞお願いでございます、瑞雪様の姿絵をお描きいただきたく御願いに上がりました! どうぞどうぞ、お聞き届けくださいまし………!」
なぜか涙があふれてきた。 こよなくなつかしい人の名を口にしただけで胸がいっぱいになり、それ以上はもう何も言えないのだ。
「なに! 瑞雪殿の………」
絵師の驚く声がした。 秘めた願いを言ってしまって胸が高鳴っている貴鬼は袖で涙をぬぐっている。
「そうか、そうであったか………なるほどのぅ……そなたのような童子がのぅ…」
無理なことをお願いしてしまったと後悔したときだ。
「しかし、わしの絵は高いぞよ。 そなたに払えるかの?」
貴鬼がぱっと顔を上げた。
「これまでのお給金は全部ためてあります! 御願いいたしますっ、御願いいたしますっ!!」
その場に平伏して繰り返し叩頭する子供を絵師がにこにこと見ていた。
ひと月の後、昭王から暇をもらった貴鬼が絵師のもとを訪ねてゆくと、礼服を着込んだ絵師が回廊をこっちに歩いてくる。
後ろに紫の布帛で包んだ四角いものを捧げている侍僕を連れているところを見ると出来上がった絵を納めにいくものとみえた。
「おお、貴鬼か、中で待っておれ。 じきに戻るでな。」
御辞儀をしている貴鬼の横をそのまますたすたと歩いてゆき、すぐに角を曲って見えなくなった。
やがて絵師が紅綾殿に現れた。
来訪を告げた侍僕に頷いた昭王が軽く手を振ると、控えていた廷臣侍僕らが波の引くように一斉に下がっていった。
「できたか。」
「御意に。」
人の胸ほどの高さの額を布帛で包んだまま壁に立てかけさせるとその侍僕も去らせ、それから絵師が布帛をうやうやしく取り去った。
絹布に描かれた人の姿が現れる。
「おお、これは……」
昭王が目をみはる。
「老身の思い出せる限りのお姿をここに留めましてございます。」
昭王が絵に近寄った。
「青がまことに美しい。 これが瑠璃か?」
「はい、西方の商人から買い求めましたラピスラズリと申す貴石でしか出せぬ色にございます。」
「ようしてくれた。 礼を言う。」
「もったいなきお言葉にございまする。」
ラピスラズリは黄金よりも高価なものでその色は天上の青とも謳われる。 いかな王侯貴顕でも滅多に手に入れることのできぬものであった。
「これを納めよ。」
「は、有り難く頂戴いたしまする。」
昭王が傍らの箪笥から絹の袋を取り出し卓上に置く。 低頭して拝受した絵師はずしりと重いそれを懐に納めるとふたたび絵に布帛を丁寧にかけてから退出していった。
「待たせたのぅ。」
にこにこした絵師が戻ってきた。
「さて、今度は貴鬼、そなたの番じゃ。」
くるくると巻かれた細長いものが渡された。 裏打ちされた絹布はきわめて軽い。
この当時はまだ紙は発明されていないので、書類は竹簡、絵の類は絹に描くものなのである。
真っ赤な顔をした貴鬼が震える手で絵を広げていった。
「ああ、これは………」
絶句した貴鬼の目が涙で曇る。 それは盛んに葉の茂った桃の木の下に立つカミュの姿で、全体が墨で描かれているなかで、目の色だけが実に美しい青であった。飾り気のない衣装にも隠し切れない気品がこぼれるようだ。
葉の陰からのぞく桃の実が、あの夏の日を偲ばせる。
これはほんとにカミュ様で………
お背が高くて 御髪がお美しくて やさしく微笑んでいらして
ほんとにほんとにあの日のままのカミュ様で………
「ありがとうございます………」
それきり言葉もなくておんおんと泣く貴鬼を残して絵師は庭に出てゆき冬枯れの庭を見ることにした。
菊も終わってしまった庭は寂しい色を見せているが固い木の芽の色はやがて来る春を思わせる。
やがて少し腫れぼったい目をした貴鬼が庭に出てきて篤く礼を言うと握り締めていた布の袋を捧げてきた。
「………これで足りますでしょうか?」
「十分じゃよ。」
頷いた絵師がそれを懐に入れると貴鬼がまた深い御辞儀をして丸めた絵を大事そうに抱えて帰っていった。
その夜、夕餐のあと昭王が御寝の間に入り、控えていた貴鬼が細かい世話をしているといつもに増して昭王の機嫌がいいように思われた。
「なにかよきことがおありになりましたか?」
訊ねてみると笑みをこらえかねた昭王が東の壁を指し示す。
「見よ。 そちにも懐かしかろう。」
「え?」
と見上げるとそこに一枚の絵がかかっていた。
「あっ…」
「そちも覚えているであろう。 水難が明けた折の祝宴の正装ぞ。 ようもここまで描けたものよ!」
「これはまた…!」
室内が暗いので目の色は定かでないが、きっと美しい青に違いない。
「昭王様、お話が…」
思い詰めたように貴鬼が語り始め、昭王は静かにその話を聞いた。 話し終わった貴鬼が涙をぬぐっていると、
「桃の夭夭たる 其の葉 蓁蓁たり 」
と昭王が詠じた。
「……え?」
「そのうちに教えようほどに。 明日はそちの絵を見たい。さあ、もう休もうぞ。」
「はいっ!」
横になった昭王に夜具を掛けた貴鬼が出てゆき御簾を下ろす。 晩秋にしては暖かい夜であった。
桃之夭夭 桃の夭夭(ようよう)たる
灼灼其華 灼灼(しゃくしゃく)たる其(そ)の華(はな)
之子于歸 之(こ)の子 于(ゆ)き帰(とつ)ぐ
宜其室家 其(そ)の室家(しっか)に宜(よろ)しからん
桃之夭夭 桃の夭夭たる
有賁其實 賁(ふん)たる其の実有り
之子于歸 之の子 于き帰ぐ
宜其家室 其の室家に宜しからん
桃之夭夭 桃の夭夭たる
其葉蓁蓁 其の葉蓁蓁(しんしん)たり
之子于歸 之の子 于き帰ぐ
宜其家人 其の家人(かじん)に宜しからん
桃のように若く美しい女性の結婚を詠んだ漢詩です。
咲き誇る桃の花、紅く色づいた桃の実、盛んに茂る緑の葉、
これらに婚家の子孫繁栄をなぞらえています。
中国最古の詩集・詩経は約三千年前に成立しています。
今から二千三百年前に生きた昭王はこの詩を十分に知りうる立場にありました。
華やかな美しい情景は今の人の心にも響きます。