その49 叙 位
「国王陛下がお出ましになられます!」
隣室との境の扉が開き、従僕頭の声がかかると同時に部屋中の人間が一斉に頭を下げた。緊張しきっていたカミュも慌ててそれに倣う。いよいよ国王に拝謁するのだと思うと心臓は早鐘を打ち、頬がかっと熱くなる。
たくさんの廷臣を引き連れて現れたルイ13世は王族特有の尊大な態度と典雅な物腰を兼ね備えた青年王で三十をいくつか過ぎたくらいの年頃だ。品のよい明るい青を基調とした衣装はのちのポンパドール夫人やマリー・アントワネットに代表されるロココ朝のような華やかさはないが、王権を誇示するにふさわしい贅沢な仕立てがさすがに群を抜いていた。
丈の短いズボンとぴったりした白いストッキングが当たり前のこの時代には靴がたいそう目立ち、大事なお洒落のポイントだ。御前にまかり出た者が大袈裟なまでに身をかがめて会釈をすると視線の先にある国王の靴がいやでも目に入り、バックルにつけられている大粒のダイヤモンドや精緻なレースがますますその高貴さと財力を見せつける仕掛けになっている。
男といえどもレースやリボンをつけるのは当然で、いかに手の込んだ高価なものを身に付けるかで人物の価値まで推し量られるのだから、貴族と名のつくものはお洒落に神経を使う。そんな女子供のような真似ができるか!などと言っていては出世はおろか結婚話の一つも来はしない。どこの親が、出世のおぼつかないような男に大事な娘を嫁がせるだろうか。
さて、官吏や女官十数人を引き連れて部屋に入ってきた国王の前にさっそく進み出たのはリュイーヌだ。これ以上ないほどに腰をかがめて恭しく頭を下げる。
「陛下にはご機嫌麗しく、心よりお喜び申し上げます。」
「そちも機嫌が良さそうだな。計画は進んでいるか?」
「はい、偉大なる陛下の軍隊に一人の弱卒もおりませぬ。いずれもフランスと国王陛下の栄光のために身を挺することに至上の喜びを得ております。」
「イギリス対策はそちに任せる。頼むぞ。」
「はい、有り難き幸せにございます。このリュイーヌ、身命を賭して勤めさせていただきます。」
大仰な身振りで一礼したリュイーヌが満足の笑みを浮かべた。これだけの人数の前で国王の篤い信頼を得ている自分を見せ付けるのは大いなる快感に違いない。リュイーヌの胸は誇りでいっぱいになった。
「陛下、」
リシュリューの声にルイが振り向いた。
「リシュリューか。昨夜も遅くまでいたというのに、こんなに朝早くからまた余に難しい話を持ってきたのか?そちの仕事熱心にはまったく恐れ入る。」
「わたくしの時間はすべて陛下とフランスのために捧げております。しかしながら今日は仕事の話で参ったのではありません。ここにおりますアルベール君の叙位の件でお願いにあがりました。」
ここで周囲の人垣がどよめいた。
リシュリューが自ら叙位の世話をするとは、いったいどういうことだ?
そんな話は聞いたことがない!
興味津々の一同は聞き耳を立てた。新しく宮廷の耳目を集める人物が出現したのだ。この場にいる誰もが、この赤い瞳を持つ青年がリュイーヌと似通った顔立ちをしていることは感じておりそれだけでも注目を集めるには十分すぎるというのに、なんとリシュリューに叙位の世話をされるほど親しい関係というではないか。好奇と羨望の眼差しがいっそう増したのを察知したミロがますます緊張し、枢機卿とジョセフ神父の間に挟まっているカミュも注目の的になっていることをひしひしと感じてますます胸の鼓動が早くなる。
「叙位の話なら聞いている。アルベール伯の嫡男のことだな。余もちょうど会いたかったところだ。」
ここでさらに驚きが広がった。リシュリューと親しいだけでなく、さらに国王まで会いたがっているというのはただ事ではない。大多数の者がこの謁見が終わったらさっそく伝手を求めてカミュと近づきになろうと決意したのは間違いない。
「これは恐れ入ります。さあ、アルベール君、陛下にご挨拶をしたまえ。」
この場にいる誰もが聞いたこともないようなやさしい声でリシュリューがカミュを促した。緊張で頬を赤くしたカミュが一歩進み出ると帽子を胸に押し当てて恭しく身をかがめた。
「お目にかかれまして身に余る光栄です。カミュ・フランソワ・ド・アルベールです。」
「ふむ、待っておったぞ。さあ、余にその眼を見せてみよ。」
頭を下げたまま国王の典雅な靴に見とれていたカミュはわが耳を疑った。叙位の礼儀作法のことで頭がいっぱいだったので、まさかこんなに人でいっぱいの場所でいきなり目のことを言われるとは想像もしていなかったのだ。驚きのあまり息を飲んだが、恐る恐る顔を上げて姿勢を正す。国王に目を見せるときの作法など考えたこともないが、それすなわち顔を見せることにほかならない。
「ほう!これはこれは…!」
嘆声を発したルイ13世が思わず一歩進み出てカミュの瞳を注視する。恥ずかしさと恐れのあまりに目をそらしたくなるのをカミュが必死でこらえていると、なんと国王が片手をカミュの顎に添えて上を向かせたではないか。これにはその場にいた一同があっと驚いた。国王が一貴族の顔に触れたことなどかつて聞いたこともない。カミュも茫然としたがすぐそばにいたミロも仰天した。
ルイがカミュにさわるなんて! それも衆目の面前で!
なんてことだ!考えられん! おい、リシュリュー、なんとかしてくれっ!
どうなることかとはらはらしていると、ひとしきりカミュの目を覗き込んでいた国王が満足したように頷いてやっと手を放してくれた。真っ赤な顔をして息を止めていたカミュが目を伏せてそっと呼吸を整えていると、
「très bien ! 実に美しい!リシュリュー、そちはこの美しい宝石をどこで見つけたのだ?」
国王にトレビヤンと言われてしまったことにミロは恐怖する。これがはたして赤い目のことを褒めたのか、それともそれを含めてカミュの美しさを褒めたのか定かではないが、いずれにしてもカミュを気に入ったことは間違いない。もう一歩進んで手元に置きたいなどと言い出したら取り返しのつかないことになる。
「それがですな、先日、南部の港湾の守備を視察した折にトゥールーズに立ち寄り、そこでアルベール君に会ったのですよ。」
「ほう、トゥールーズで?」
今度は部屋中の者の視線が枢機卿のすぐ後ろにいたトゥールーズ伯に向けられた。国王の問いに、いかにも、というようにトゥールーズ伯が頷いた。
「たまには田舎暮らしもよかろうと思い、アルベール君を招待したのですよ。私たちは実に楽しい夏を過ごしました。」
ここで一同はトゥールーズ伯がカミュの後ろ盾になっていることを確信した。誰もが羨むトゥールーズ伯の城に招待されるなど並大抵のことではないのだ。百年たってもそんな夢のような招待を受けられないに決まっている大多数がひそかにため息をついているとリシュリューがこう言った。
「そこでアルベール君と私は、さよう、友人になったのです。」
これには国王を含むその場にいた全員が仰天した。顔には出さないがミロもトゥールーズ伯も同様だ。もちろんいちばん驚いたのはカミュだったに違いない。むろん、そんな驚天動地の台詞を聞いてしたり顔に頷いて見せるほどの腹芸はカミュにはない。
「猊下、そんな畏れ多い…」
どぎまぎしてそれだけ言うのがやっとである。
「それは羨ましいことだ。余も友達とやらになってそのルビーの瞳を間近で、」
しかしリシュリューはその言葉を最後まで言わせなかった。
「畏れながら陛下、この瞳の色はルビーではありませんな。」
自信たっぷりにそう言ったリシュリューが片手をカミュの肩にかけた。どきっとしたカミュはもう気が遠くなりそうである。
「それはたしかに本物のルビーであるはずはないが、形容としてはそれがもっともふさわしいではないか。」
異議を唱えられた国王がちょっと眉を寄せた。他人に反論されるのは不快だが、相手がリシュリューでは叱りつけるわけにもいかない。
「わたくしも最初はルビーのように感じましたが、いいえ、そうではないのです。この色は、」
リシュリューが思わせぶりに言葉を切り、一同が耳をそばだてる。
「この瞳の色はキリストの贖罪の血の色にほかならぬと思えるのです。」
いとも厳かにそう言ったリシュリューが胸の前で十字を切った。フランスカトリック教会最高位のリシュリューの言葉は千金の重みを持っている。さらにそれまで静かに聞いていたジョセフ神父が重々しく、
「実に稀有なことです。」
と簡潔に述べてリシュリューの見解を保証したのも大きかった。
「なんと、贖罪の‥!」
思わぬことを聞いた国王が一歩後ずさり、息を飲んだ。色めいたことを思っていたとしても、これではとても手が出せない。それどころか軽く仄めかすことさえ教会に逆らう大罪となるだろうことは確実だ。カミュも大きく目を見開いてリシュリューを見た。
しかし、みんなが固まったその時にいち早く動いた男が一人いる。これまでの話を黙って聞いていたリュイーヌはさっと帽子を取って身をかがめると感極まった声でこう叫んだのである。
「まさしくこれは贖罪の血の色!なんと畏れ多い神の啓示でありましょうか!この場に居合わせる者は幸いなり!」
保身の術にたけたリュイーヌはこの絶好の機会を逃しはしない。根っからの実際家だったのでリシュリューの言を真に受けたりはしなかったが、国王がけっして手を出せない高い位置にカミュを祭り上げることには大賛成である。あっけにとられていた一同も大寵臣のリュイーヌがカミュに礼を尽くしたのを見て一斉にそれに倣った。リシュリューさえもカミュに軽く会釈したのでまっすぐに立っているのは唖然としているカミュと国王の二人だけという有様だ。この時ならぬお辞儀の波は、部屋の中で何が起こっているかさっぱりわからないままに隣の部屋から先を埋め尽くしていた貴族や廷臣たちにも伝わり、とうとう宮殿の入り口近くにいる者にまで達したのだった。
こうしてカミュが国王の寵を受けることを悠々と制したリシュリューは、
「それではアルベール君の叙位の儀をお願いしたいものですな。」
と、いまだ興奮冷めやらぬ国王をせっつき、カミュを子爵にさせたのだった。
「ではアルベール君、私は政務があるので残念だがここでお別れせねばならない。明日の10時にパレ・カルディナルで会おう。」
「今日はありがとうございます。またあしたお目にかかります。」
「子爵、アルベール君をよろしく頼む。帰りは私の馬車を自由に使ってくれたまえ。」
「ありがとうございます。ご厚意、ありがたくお受けします。」
この破格の厚遇はますます周りの人々を唸らせ、カミュが枢機卿の友人であることを確信させた。
「では明日を楽しみにしている。」
マントを翻したリシュリューがジョセフ神父とともに去って行くと、さあ、それから興奮した人々がどっとカミュの周りに寄ってきた。もちろんそれを予期したミロが盾になろうとしたのだがとてもではないが防ぎきれないのだ。見かねたトゥールーズ伯が庇うようにしてもなお好奇心いっぱいの人々からカミュを隔離することは難しい。そこへこの様子を見たディスマルクとレオナールが加勢に駆けつけ、やはり居合わせていた銃士隊の仲間を呼び集めてカミュを囲んでやっと外に出ることができたのは30分も後だった。
「おかげで助かった。こんど星猫亭で一席設けるからぜひみんなで来てほしい。」
「そいつはいい!カミュの叙位の祝いだ!」
「思いっきり飲ませてもらうぜ、ミロ!」
「カミュ!これからよろしく!」
大勢の銃士たちの握手攻めにあって真っ赤な顔をしているカミュを枢機卿の馬車に押し込むとミロも続いて乗り込んだ。御者にアルベール邸へやってくれと告げると、馬車は軽快に走り出す。
「ほんとにリシュリューには世話になった。もうパレ・カルディナルに足を向けては寝られないな。」
「ええと‥うちのベッドはパレ・カルディナルのほうに頭を向けているはずだから、反対向きに寝ない限りそんなことはできないけれど?」
「ちょっとした言い回しだよ。恩を忘れた無礼な振る舞いをしてはならないって意味だ。でも‥」
「なにか?」
「う~ん、いささか言いにくいんだが、状況によってはベッドに反対向きに寝ることもあると思って。」
「あ‥」
真っ赤になったカミュがとても可愛かった。
⇒
⇒ 仏蘭西・扉へ